第二十二話 悪意
エリスはふらふらと裸足で歩いていた。今の自分がどこにいるのかはよくわからない。
前方に見えた光に吸い寄せられるように、彼女は足を速めると、やがてまぶしい光が暗闇になれた彼女の目を刺激した。
双眸から涙が溢れ、エリスは嗚咽を漏らした。
涙が光のせいなのか、安堵感から来るものなのか、幼い彼女にはまだよくわからない。
ただひとつ、彼女が理解できたのは、もうあの深い暗闇に戻らなくてもよい、ということだけだった。
ケフェウス準執政官のブライスは苛立ちを隠さずに、待機所の中をうろうろと歩き回った。
扉が開いてカバルが入ってくると彼は怒気を含んだ声で言った。
「な、なぜ、エリスを解放したんだ!」
その言葉に、カバルはうんざりしたような顔をしてから、後ろを振り返り、彼について入ってきたルカウスとサンドラを見やった。
「すまないね、この男は思慮が足りない」
「いえ、お気になさらずに。私もロズワルド公爵の娘を解放した理由を知りたいと思っていたところです。あなたが汚れ仕事を引き受けると言ったのは、私の聞き間違いだろうか?」
カバルは閉まった扉を見てから、椅子に座るようにと二人を促した。
「物事の順序というのは単純ではないんでね」
「よ、要点を言え!」
「あんたは頭はいいけど、我慢が足りないね。少し黙ってもらおうか」
カバルの睨みに、ブライスは歩くのをやめて椅子に座った。
彼は満足そうに頷くと、机に肘をついて手を組みながら、少しばかり考え込むようにしてから話し始めた。
「ルカウス殿、汚れ仕事と聞いてあなたが何を想像したのか、ぜひ聞きたい」
「ふむ、単純に言えば殺しではないですか?」
「そう、単純に言えばね。しかし、本当の悪事というのは、人を殺すことではない。人の心を殺すことなんですよ」
「心?」
「例えば、ライエ教の信者が、自身の信じる教えを否定されたら大いに苦しむ。それと同じでね。人の心というのは、壊れるときは呆気ないものですよ」
「あなたは……エリスという少女に何かしたのですね?」
ルカウスの隣で、サンドラが少し顔をしかめた。カバルはあえてサンドラに向いて言った。
「僕はあなた方が嫌悪するような卑劣なことをしている。しかし、その境界線はどこにあるんですかね?僕の見解は、宗教も卑劣なもののひとつだ。信仰を逆手にとって権力を手にして金を巻き上げる。でも、大局的に見れば、宗教を卑劣などと言う人間はごく僅かで、だからこそ成立している。しかし、本質は変わらない」
「話が見えません」サンドラは冷たい眼で呟いた。
「エリスという少女は、家族のことを本当に大切に思っていた。似てませんかね、宗教と?」
その言葉にルカウスは少しずつ血の気が引くのを感じた。
このカバルという男は、卑劣などという言葉では言い表せないほど、悪意の塊だと気がついたのだ。
ルカウスは唾を飲み込んでから、小声で言った。
「あなたは……彼女に何かをさせるつもりなんですね?」
カバルは返事をする代わりに、薄気味悪く笑った。
***
篝火が眩しい。
懐に冷たい感触がある。エリスはその冷たさを暖かいと感じていた。
深い夜の闇に閉ざされたケフェウスの街は、いつもの喧騒さがなく、通りを歩く者は見当たらない。
ケフェウスは特別な事情が無い限り、深夜の店の営業などが禁じられていた。
理由はリーンとの国境が近いこと、他国の人間が行き交う場所では事件が起きやすいことなどが挙げられる。
深夜帯になると、警備士が決められた時間に巡回することになっているが、エリスはその誰とも出会わなかった。
静まりかえった街には、時折、どこからか猫や犬の鳴き声が響き、建物からも人の声が軽く漏れる程度である。
そんな、ちょっとした音の積み重ねが、エリスを少しばかり安心させていた。
執政官邸に着くと、彼女は裏手に回って蔦の生い茂った塀を少しばかり手探った。
以前に庭で遊んでいる時に偶然見つけたのだ。お転婆な彼女は大人が思いつかないような場所に入り込んだり、隙間を見つけていたが、それは自分だけの秘密としていた。
それが意図的に作られものだとは知る由もない。
塀は石組みになっているが、彼女が探したのは一見すると石組みに見えて、扉になっているものだった。
木戸に薄い石を貼り付け、蔦で覆うことで見分けがつかない。単純な仕掛けほど、大人は見落としてしまう。
体重をかけると扉は少し軋みながら内側に空いた。蔦の絡み具合で開かないのではないかと心配していたエリスだったが、思い通りに物事が進むと嬉しいという気持ちを抑えきれない。
ようやく、官邸内に入ると一息つき、慎重に歩き始めた。
あと少しで、あの人が言っていたことをできる……ただ、その考えだけが、エリスを支配し、彼女は静まりかえった邸内をゆっくりと進んでいった。
***
「この男は危険です」
サンドラの囁く言葉に、ルカウスは小さく頷いたが、既に計画は進んでいた。
ルカウスはカバルを見た。
街を歩けばどこにでもいそうな青年に過ぎない。年齢も近いことから、ルカウスは自分の立場とは関係なく、どこか親しみを感じていた。
しかし、ルカウスは自分が政治家であるという誇りがあった。政治的判断で、政敵を葬ることはあったが、人の死を間近で見たことはない。
カバルは違う。
同じような年齢でも、彼は自ら企み、手を下し、利用できるものに差を付けない。
今、待機所にリーンのローヴェンと護衛の双子、それにザガン達がいなかった。
それが何を意味するのか、ルカウスには薄々とわかっていた。
だからこそ、彼はあえて聞いた。
「ローヴェン殿達はどうされたのです?」
「呼んでいませんよ、必要ないんでね」カバルは平然と答えた。
「同じ立場であるなら、彼らも呼ぶべきでは……」
「聡明なあなたがそんなことを言うとはね。僕はね、あのお嬢さんのことをあなたに知って貰いたかったのですよ。彼らと僕は、このケフェウスを中心とした戦いの当事者だ。しかし、あなたは違う」
サンドラが立ち上がった。剣の
「やめておいた方がいい。ここは僕の縄張りだからね」
カバルは冷たく言い放つと、机の上に小瓶を置いた。
「これは氷の山脈に生えている薬草を煎じたものだ。毎日定期的に摂ると、現実と夢の境目がわからなくなってしまう」
「それをロズワルドの娘に?」
「彼女がどんな行動をとるのか楽しみでは?人間の心というのは不確かなものでね。夢だと認識すると、それが悪夢であれば必ず打ち破ろうとする」
「そのエリスという娘は今……悪夢の中にいると?」
「僕に子供をいたぶる趣味はないんでね」カバルは嘯いた。
***
足音に気がつき、エレナは眼を覚ました。
この足音は娘のエリスのものだとすぐにわかった。娘の足音を間違えることはない。
確信を持って、重たい身体を起こすと果たしてエリスは開け放たれた扉の側にひっそりと立っていた。
「エリス、無事だったのね」エレナは慌てて寝台から降りた。
夜の雲が月を遮っていたが、エレナが駆け寄るのを見計らったかのように、雲が動いて月明かりが差し込む。
それはエリスの顔を青白く照らし、エレナは思わず足を止めた。
彼女の目には光がなかった。
身体は少しずつ左右に揺れ、瞳は虚空を眺めている。その瞬間、エリスは彼女が現実とは違う場所に、心を囚われていると認識した。
エリスの両頬に手を当て、しっかりと眼を見つて言った。
「エリス、眼を覚ましなさい。戻ってきなさい!」
「……母上、まだお体が悪いの?」
抑揚のない声が、エレナの胸を締め付ける。
「いいえ、大丈夫。エリス、私は元気よ。あなたは今、夢の中にいるの。だから眼を覚まして、私を見なさい」
「母上の中には……悪いものが住んでいて…それが母上の身体を少しずつ食べているの」
「そんなことはないわ。あなたは……」
エリスの手が、エレナの腹に当たっていた。
エレナは深く冷たい感触が自らの身体を貫くのを感じた。
それでもなお、エレナは娘を抱きしめて叫んだ。
「誰か!誰か来て!エリスがっ!」
静かな官邸内に、彼女の声は響き渡った。
真っ先にやってきたのは執事のカートンと警護士、侍女達だった。
「奥様!どうなされました!?」カートンが狼狽えた顔で、明かりを壁に掛けると二人の元に駆け寄った。
「カートン、ロズワルドとカイルを呼んで。この子の意識は飛んでいるわ」彼女はエリスをそっと押しやった。
その瞬間、侍女達が悲鳴を上げた。
「奥様!それは!」
エレナは苦しそうな顔をしながらも、腹部を押さえながら言った。
「エリスをお願い。すぐに連れ出しなさい!」
「し、しかし!」
「早く!その子の意識が戻る前に!」
「わ、わかりました。お前達、エリスお嬢様をお連れするんだ!」
「どうした!?」
ロズワルドとカイルが血相を変えて、部屋に飛び込んでくるが、床に横たわったエレナを見て愕然とした。
「旦那様!奥様が……」
「エレナ、誰に…さっき、エリスがどうとか…まさか」ロズワルドは身体から全ての力が抜けるかのように、両膝を着き、エレナを抱き起こした。
「あなた……ごめんなさい。あの子を助けられなかった…」エレナの弱々しい声に、ロズワルドは首を何度も振る。ロズワルドは短剣が刺さった場所を見た。
彼にはわかった。それが致命傷であり、身体の弱いエレナが助からないことを、彼女自身がそれを悟っていることを。
「カ、カイル…」
呆然としていたカイルは我に返って、母親の元に跪いた。
「なぜ、なぜ!このようなことに…」
エレナは手を伸ばして、カイルの頬に触れた。
彼女の手に付いた血が、息子の顔に赤い線を引く。
「あの子を責めないであげなさい……私は…」
「エレナ?」
「母上、母上!」
事切れたエレナの身体にしがみついて、カイルは泣いた。
ロズワルドは唇を噛みしめて、立ち上がった。
「エリスはどこにいる?」
怒りとも憎しみともつかない声で、カートンに問いただす。
「お、奥様が…ここからお連れするようにと…お嬢様のお部屋に」
ロズワルドは踵を返した。
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