第十九話 アリシアとマキ
夜の帳が落ちる頃、マキとアリシアはリサを連れてケフェウスの千人壁が見える村に宿泊することにした。
泣き疲れて眠っていたリサだったが、空腹になると目が覚めてゆっくりと夕食をとる。その後、三人は疲れた身体を落ち着けるために風呂に入った。
マキがリサの身体を洗ってやると、くすぐったそうにして笑っていたのがアリシアにとってせめてもの救いである。
彼女は昼間の騒動で多少、感情が高ぶっていた。訓練で戦うことはあっても、実際に人を蹴り飛ばし、詰問するのは初めての行動だったからだ。
人買い達は荒事には慣れてはいたが、幼い頃から訓練を続けてきたアリシアにとって、彼らの動きは遅く、剣を使わなくてもねじ伏せて蹴り飛ばすだけでも十分過ぎた。
それでも訓練とは違う緊張感は、後から震えとなってやってきた。
人買いの仲介人となっていた宿屋の主は怯えきっていたが、アリシアは一度始まってしまった争いをどうにか早く終わらせたくて、無茶をしたに過ぎない。
もし、これが父のマーレイだったら、もっと手際よく事を治めていたと思わずにはいられなかった。
村のそれなりに大きな宿屋の風呂は、石造りで組まれ、少しばかり湯気が抜けるように天井の板がずらされている。夜空に光る星が、湯気の間から時折覗いていた。
「私はやりすぎたかもしれない」アリシアは一人呟くと、天を仰いだ。程よい湯加減と心地良い風が、多少の長風呂も許してくれていた。
「そんなことはないと思うけど」隣に来たマキが、肩に湯をかけながら、風呂の縁で足をばたつかせてはしゃぐリサを見ながら言った。
「……私は短気なんだ」
「うん」マキが答えると、アリシアは少しだけむっとした顔をした。
「私もそうだから、よくわかる」とマキは付け加えた。
「今更だけど、私に気遣いはいらない。今日のことで少しはあなたのことがわかった」
「それはお互い様じゃないかな」
「だろうね」
風が柔らかく吹いて、湯気が少しばかり流れ、お互いの視界が晴れると二人は顔を見合わせて苦笑いした。
「イズモ」
「マキでいいから。私はずっとアリシアって呼んでいるのに」
「……マキ、昼間のことだが、あの子の前ではあまり話したくはない」
「うん。あの子を寝かしつけてからにしましょう」
アリシアは黙って頷いてから、少し間をおいてから口を開いた。
「マキ、あなたはどうして男を追う?」
恋い焦がれる男を追って、女が旅に出る…それは、愛情ゆえのことであっても、彼女は無謀だと感じずにはいられない。それでも、アリシアはそれが羨ましくもあった。
「どうして…というのには答えられないかなぁ。私はアレス…その人はアレスというんだけど、子供の時に出会ったときから何かを感じたの」
「運命のような?」
「あはは。私ってそんなに理想主義に見える?」マキはおかしそうに笑った。
「ち、違うの?私はてっきり…あなたがそういうものに憧れていると思っていた」
「ねぇ、理想を求める女は多分、男を追っかけたりしないわよ。きっと、毎日夜空に向かって無事を祈って、一年先か二年先か、いつか自分を迎えに来てくれるっていう希望を抱いているだけだと思う。でも、私は待ち続けるほど我慢強くない…まあ、本当言うと少しは待とうって思ったことはあったけどね」そう言いながら、彼女はアレスに渡したお守りのことを思い出していた。それは少しばかり恥ずかしい思い出でもある。
「月並みな言い方だけど、マキは強いな」
「理想を抱えて待っている方が余程強い気持ちを持っているわよ。だって、何年も信じて待つなんて、並大抵の事じゃできないでしょ」
「そうか、そういうものか…」
「あなたはどうするの?」
「私?私は別に…」
「エイカー様の事が好きなんでしょう?」
「それは…エイカー様はファロー子爵家の嫡男だし、私の家は跡を継ぐ者がいないから…」
アリシアは口ごもった。
セラス家の一人娘でアリシアはいずれ、どこからか婿養子を貰うことになる。エイカーがファロー家の嫡男である限り、それは叶わぬ夢だった。
「私は貴族の家の仕組みはよくわからないけど…名前はそれほど大事なものなのかしら」
「大事に決まっている。そうやってずっと続いてきたんだから」
「名前だけが続くことが大事なの?」
「そんなことは…議論するまでもない」
アリシアは口元までお湯に顔をつけて、マキの疑問を真剣に考えないことにした。
家名が大事であるなら、もっと上の貴族の名前を継いでもそれは名誉ではないのか?そんな疑問は常につきまとっているからだ。
名前など人を区別するための記号でしかない、そう考えられたらどれほど楽か…アリシアは空しさを感じずにはいられない。
リサがお湯を手ですくってはあちこちに放り投げて、水滴がはねる様を楽しそうに見ていた。そんな姿をアリシアはうらやましく思った。
出自がどうであれ、今この瞬間の彼女は自由にはしゃいで楽しんでいる。それでも、明日になればまた、母親を思い出すのだろう。
リサが考えているのは、たったそれだけなのだ。
複雑な感情を抱えながら、アリシアは顔をあげて、マキにもう一つだけ尋ねた。
「もし、オルフェス様が助けなかったら、あなたはどうするつもりだった?」アリシアの率直な疑問だった。
「わからない。短剣であの男を殺したかもしれないし、適当に嘘をついて、後からまた逃げ出したかもしれない。いずれにしても耐えがたい結果になったと思う。だからオルフェス様にはとても感謝しているの」
「死ぬことは考えなかった?」アリシアは思わず言った。彼女は陵辱されるくらいなら、死ぬ方がいいと思っていた。
「死んだら意味がないもの。あなたはどうするの?」何を馬鹿なことを、とでも言うようにマキは真顔になった。
「私は死ぬことを選ぶだろうね」
「それは剣士として戦って、捕らえられても?」
「ああ。剣士としての覚悟でもある」
マキは少しだけ首をかしげてから、不思議そうに言った。
「それって女として辱められるのが苦痛だから…じゃないかな?」
その言葉にアリシアは、頬をはたかれるようだった。
肉体的な力が男に劣るとあって、彼女は剣術も体術も、力を受け流す修行を中心に行ってきた。昼間のように素人であっても、捕まってしまえば力負けすることはあり得る。それ故に背後をとって蹴り飛ばし、剣を使える間合いをとる。
帝国内において、女性剣士は珍しい存在ではない。皇后や皇女に仕えるのも女性で構成された親衛隊、その配下に騎士や剣士がいる。もちろん、通常の騎士団や兵士の中にも女性はいる。
剣士になるにはいくつかの方法があった。
独学、あるいは騎士や剣士に師事して剣術を学び、十六歳以上なった時点で帝国軍の入隊試験を受ける。
もう一つは帝都の剣術学校で十八歳まで学ぶ。試験を受ける必要もあるが、採用率は遙かに高く成績によっては騎士団、あるいは親衛隊に入れる。
アリシアは幼い頃から剣術を学び、十六歳で試験を受けてアルフィルク領の騎士団に入っていた。その中から、特に優れているものは執政官や準執政官からの課題を受けて、達成できたものは執政官の護衛騎士となれる。
騎士団長を務めるアリシアの父マーレイは、息子に恵まれず、彼女がただ一人の子供だった。それだけに、女の子であれアリシアを厳しく鍛えた。
国境警備は過酷な仕事であり、兵士の数をある程度維持しなければならない。オルフェスは、マーレイが自らの娘を鍛えるということを聞いた際、ほとんど公私混同とも言えるその事についてある提案をした。
即ち、騎士団が剣士になりたいものを募り、鍛えること。
今までは独学であったり、誰かに師事する、あるいは剣術学校に入る…それとは異なる方法で考え出された結果だった。
剣術学校と違うのは、学費が不要であり、あくまでも騎士団の厚意による訓練という点である。そのため、訓練に参加できる人数は限られるが、安定した仕事を求める者達は、こぞって訓練への参加に応募した。騎士になれる者も限られてくるが、なれなかった者達は警備士や警護士となり、万が一の場合には非常呼集に応じる兵士となる。
オルフェスは、騎士団の子供たちと剣士になりたい一般市民の子供たちの不公平感を無くすことで、競争心をあおって軍力の底上げを図ったのだ。
結果として、帝国の潜在的な軍力はリーンやライエとは比べものにならないほど高くなっていた。
アリシアは幼少時の訓練成果から、難なく騎士団に入ることができた。親の七光りと揶揄されることもあるが、彼女はその度に試合で相手を黙らせてきた。
もちろん、全ての相手に勝てるということはないが、それはどの剣士達にも言えることである。陰口をたたくものは残っていても、アリシアが高い勝率を維持することで、アルフィルク領の剣士達のほとんどは彼女を優秀な剣士として認めていた。
それだけに、剣士としての誇りと女性としての尊厳を一緒くたにして考えていた自分に衝撃を受けたのだ。
「もうあがろう。のぼせてしまう」アリシアは立ち上がった。鍛え上げて引き締まったその肉体を水滴が滑るように落ちていく。
「アリシア、あなたは本当によく鍛えているのね」マキが感心したように、思わずお尻をを触ると、アリシアは「きゃっ」と可愛らしい声を上げて飛び上がった。
「な、なにをするのよ!」アリシアは思わず胸を隠すようにして後ずさりした。
「あはは、ごめんね。つい、きれいなお尻だったもので」
「わ、私の体なんて筋肉ばかりついているだけだ。あなたのように、もう少し胸が欲しかった」
「胸の大きさで好きな男は落とせないわよ」マキは不敵な笑みを浮かべる。
アリシアは自分の胸を見やった。
小さくはないが、大きくはなく、手を当てればそれなりに隠れてしまう。
しかし、マキの胸は手に余るほどの大きさがあった。
アリシアが剣士の訓練で後悔したのは、怪我を防ぐために着用する胸あての存在だ。模擬戦ができるのは成長期のまっただ中であり、かなりきつめに胸あてをする。
恐らくそれが原因で…とアリシアは思っている。
「自慢か?それは自慢だろう!」とアリシアは思わず言ってしまった。
「違うわよ、ねーリサ。よく暖まった?」
マキが笑いながら言うと、リサもおかしそうに顔をくしゃくしゃにして笑った。
「まったく。私は先に出るよ」
「はーい」
マキの暢気な返事に、アリシアは落ち着きを感じていた。
***
寝台に座ったマキの膝に頭を預けたリサが眠っていた。
マキは静かにリサをずらして、布団をかけてやると、立ち上がって窓際にある椅子に座った。
アリシアは机に頬杖をついて、窓の外を眺めていた。
「疲れていたのね、すぐに寝ちゃった」
「そうだろな…明日はケフェウスに着くけど、やることがある」アリシアは外を眺めながら言った。
月明かりで空は明るく、遠くに見えるケフェウスの千人壁の篝火が少しばかり見えていた。
「あの子の母親…サナだったよね、結局どういうことなの?」
「あまり気分の良い話じゃない。サナという女は娘を人買いに売った。宿屋の仲介人、あの禿げた男の話だと、あのくらいの年齢の女の子を買う貴族がいるそうだ。当然、器量が良いほど値段はあがる」
「そうでしょうね」マキは不快そうに顔をしかめた。
「サナは予想通り娼婦だったよ。彼女には、常連の客というのがいたそうだ。彼女はその客と手を組んだんだ。人買いにリサを売ると持ちかけ、襲って金を奪って逃げた。風呂で見たあの子の身体には傷もあざもなかったし、それほど痩せているというわけでもない。母親なりに大切にしていたんだと思う。初めからリサを売るつもりはなくて魔が差したというべきか…あと彼女が人買いに求めていたのは金と身分証明書だそうだ」
「それでケフェウスに逃げたのね?」
「可能性としてはそうだと思う。恐らく鎧の男達は本物の巡回警備士で、彼女の常連客だった。人買いが疑いを避けるために偽装した鎧を逆手にとったんだろう。人買い達は殺されて、近くの森に捨てられていたそうだよ。野犬が食い荒らしているのを、早朝に畑に出ていた農夫が見たそうだ。話はこれだけ」
「十分な成果だわ。あなたって凄いのね」マキは感心して、声を弾ませた。
「大したことじゃないよ。少し締め上げたら、勝手に話してくれた。サナはケフェウスに逃げたとは思うけど、実際のところはわからない。だから…」アリシアはそこで言葉を詰まらせた。
「リサにあんな言い方をしたのね。例えサナが見つからなくても、嘘は言っていない。見つかったら、それはそれで構わないと…辛いことを言わせてごめんなさい」
「いや、私が勝手に判断したことだから。ケフェウスについたら、グラン公爵様に相談しよう。オルフェス様から手紙を預かっているし、助けて頂けると思うから」
「それなら当面の目標はケフェウスに無事に着くことね」
「ああ。でも、ケフェウスであの子の母親が見つからなかったら…マキ、あの子のことをどうするつもり?」
「簡単よ。孤児院を当たろうと思う」
「そうなのか?」アリシアは驚いて、マキを見つめた。
「他に方法はないもの。私にはあの子の責任を負うことはできない。助けた手前…なんて、現実的じゃないし、私もあなたも十分過ぎるほどに責任は果たしていると思う」
「意外だな」
「そうかしら?冷たいって思う?」
「いや…ただ、意外と思っただけ」
「あの子には幸せになって欲しい。でも、私があの子に出来ることは限られている。それはあなたも同じでしょう?」
「まあ…そうだな。私もアルフィルクに戻らなければいけないし…グラン公爵様に出来る限り便宜を図ってもらう他にないな」アリシアは溜息をついた。
そんな彼女を見て、マキはすこし微笑んでから、もう寝ましょうと言った。
アリシアは結局のところ、オルフェスの名前でロズワルドに頼る他なく、そしてマキはそんなアリシアに頼るしか術はなかった。
現実的な選択肢を選ぶことが正解であっても、それが自分自身にとって必ずしも正義ではない。
リサの眠る寝台に入ったマキに、彼女は無意識に抱きついた。
その暖かさは、マキに少しばかりの後悔を募らせていた。
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