第十二話 皇帝から遠い男

 黒い髪が月の明かりを反射し、それは煌めくように光の尾を引いた。

 蹄の音が激しく地面を打ち鳴らし、女は精一杯に馬を走らせている。

 その後ろを数頭の馬が追っていた。

 

 帝都からケフェウスに向かう街道は、主に人や馬が通りやすいように整備されている大街道の他に、いくつか小街道がある。

小街道は戦乱時に補給路として使われていたものや、緊急時に早馬を優先して通すものなどがあった。

 それらの道は整備がそれほど行き届いていないのと、谷に面しているものや、丘陵地帯などの起伏が激しい箇所を通る場合もあり、使う者は滅多にいない。

 そんな道のひとつを数頭の馬が走ることは稀だった。

 夜盗などは馬を駆ってまで獲物を追うことはない。大街道に出れば、周囲は開けているために逃げるところはいくつもあるからだ。

 故に女を追っているのは、賊ではなかった。


 慣れない手綱捌きで馬を走らせているため、追っ手の馬は少しずつ距離を詰めていた。

 そんな様子を見かけたものがいた。

「ほう、あれは女だな」オルフェス・ガフィーノはにやりと笑った。

「閣下、あのようなものに関わり合いになりますと…」忠告をするのは、オルフェスの側近であるエイカーだ。彼はオルフェスの右腕であるアルフィルク領の準執政官アイラ・ファローの弟である。

「女を助けるのが男の役目だ」オルフェスは脱いだばかりの外套を肩にかけ、馬に跨がると後を追っていった。

「閣下!」エイカーも慌てて後を追う。


 月が明るいせいもあったが、それが女の不運を生んだ。夜の明るさに頼って走りすぎたため、馬は道に倒れていた古木に足を取られ、体が激しく揺さぶられた彼女は草の上に放り出された。

「うっ、痛っ」という叫び声を上げた彼女の前に三頭の馬が立ちはだかった。

「このあばずれが、僕から逃げられると思うなよ!」一人の男が馬から降りると、女の頬を引っぱたいた。

 女の緑色の目が男を睨み付けた。

「なんだ、その目は!このユーリの顔に泥を塗って恥をかかせやがって!あれから僕はいい笑いものだ!妾になれば勘弁してやるというのに!」

「誰があんたなんかと!」マキは怒鳴り返した。


「ご子息!馬が来ます」ユーリの部下が後方を見やった。

「馬だと!構うものか。ハインズ家と知ればすぐに消える」

「しかし、このような処を見られたら…」

「うるさい!黙れ!」ユーリは怒鳴ると、迫ってくる馬を見た。


 オルフェスは馬を止めて飛び降りた。

「エイカー、馬を見ていろ」オルフェスはまだ随分と後ろにいるエイカーに叫んだ。

「おやめください!」エイカーも負けじと答えるが、オルフェスは小走りにもめ事の渦中へとたどり着いた。

 馬の二人が前に出て、彼を睨み付ける。その間をユーリがゆっくりと不遜な態度で表れた。

「誰だ、お前。私はハインズ伯爵家の嫡男ユーリだ。邪魔をすると切り捨てるぞ」

 その態度にオルフェスは呆れた。確かに、ユーリの肩あてには伯爵家の紋章がある。

 ユーリの父親であるジェロム・ハインズ伯爵とは当然、知った間柄だ。息子ユーリのろくでもない噂は多少聞いていたが、貴族の家柄をたてにした物言いはオルフェスが一番嫌いなことだった。

 彼は少し黙して考えた後、この馬鹿な男にお仕置きすることを思いついた。


「これはこれはハインズ家のご子息とは知らず、大変失礼いたしました。しかしながら、そこにいる女性はどうやらひどく怯えている様子。私は口が堅い方ですが、後ろにいる連れの者は駄目だと言われると、話したくなるたちでして、些か参りましたな…」

「お前には関係ない話だ。そんな連れなど切り捨てればよかろう!」

「まさか…ユーリ様。ここはひとつ提案がございます」

「なんだ、申せ」ユーリはいらいらしながら答えた。彼らの様子をマキは見つめていた。

 彼女の目にはオルフェスの余裕が感じられていた。

「ユーリ様は剣の腕前も達者と聞き及んでおります。ここはひとつ、私めと勝負頂けないでしょうか?私も多少は腕に覚えがございます。ユーリ様が勝ちましたら、私は連れの者が話せなくなるようにいたしましょう。もし、私が勝ちましたら、その女性を解放頂けないでしょうか」

「馬鹿なことを言うな。お前は連れと含めても二人、こちらは三人だ。今すぐ、お前を斬り殺しても、この道では誰も見ているものがいないぞ」

「いえいえ、実は街道を少し外れた広場で野営しておりまして、連れがまだ三人おります。私たちが戻らなければ、彼らが必ず探しに来るでしょう。既に、その女性とユーリ様たちの馬は見られております故…」

「チッ、面倒な奴だ。いいだろう、相手をしてやる。ただし、こちらは三人だ」

「卑怯よ!」マキが怒鳴った。

「うるさい!戦いに卑怯もクソもあるものか」

 ユーリは下卑た笑いを浮かべた。男たちが馬を下りて、剣を抜いた。


「ああ、どうしたものか…」エイカーは、オルフェスの馬の手綱を近くの木に結んだ。しかし、彼自身が慌てたせいで、帯剣していない。

 道ばたに落ちていた太めの枝を拾うと、とにもかくにも走り出した。


 月の明かりに男たちの剣が煌めいた。

 ユーリは笑みを浮かべながら、部下二人とオルフェスの戦いを傍観している。

 男たちは一斉にオルフェスに飛びかかった。

 二人の剣が空を斬った瞬間、右にいた男は腕をねじ上げられ、うつぶせに組み伏せられると、後頭部に拳を食らって昏倒した。

 左にいた男は、その様子に驚いて反応が遅れる。オルフェスが素早く間合いを詰めると、男の利き腕を掴んで引き寄せ、脇の下に肘を叩き込んだ。

 くぐもった声が聞こえ、男はゆっくりと崩れ落ちた。

 オルフェスは拾い上げた剣を、唖然としたユーリの眼前に突きつけた。

「俺の勝ちだな、ユーリ・ハインズ」

「お、お前…」ユーリの唇がわなわなと震えた。

「お前の父親ジェロムもここまでは馬鹿はしないぞ」

「き、貴族に逆らって…」

「覚えていないようだな。お前が鼻水を垂らしている時に会ったきりだしな。俺はオルフェス・ガフィーノだ」彼は片手で外套を脱いだ。肩あてには家名を表す紋章と爵位の刺繍が縫い付けられている。

「お、オルフェス…公爵様」ユーリの顔がみるみるうちに白くなっていった。

 爵位も上位であり、さらに現皇帝の大叔父にあたる者に剣を向けたとなれば、厳罰は免れない。

 その答えにマキも驚いていた。

 皇帝一族の中でも剣豪として帝国内にその名を轟かせているオルフェスが、まさか自分を助けてくれるとは思いもしていなかったからだ。

 

 そして、マキはオルフェスの戦いの様子を間近に見て、少しばかり感動していた。

 月明かりの下、オルフェスの流れるような体捌きは男二人を瞬く間に倒し、驕ることなく名乗りを上げた。ただし、芝居がかったやりとりは、やりすぎだとは思っていた。

「閣下!」エイカーが息を切らしてやってきた。

「遅いぞ、それになんだ、その棒きれは…」オルフェスは呆れたように、彼を見やった。

「いえ、なんでもありません!」彼は慌てて棒きれを放った。

 オルフェスは苦笑いすると、ユーリを見た。

 哀れな男は震えることも忘れて、うつむいている。

「さて、ユーリ。言い訳は聞いてやろう」

「ガ、ガフィーノ様。こ、この女は、私の妻になろうというのに、他の男と密通し、私に恥をかかせたのです!」

「ほう、なるほど。しかし、その女性はお前のことが大分嫌いみたいだぞ。お嬢さん、名前は?」

 マキは慌てて跪いた。

「マキ・イズモと申します」

「イズモ…ああ、帝都のイズモ家か。黒髪のアウストとして名高い美女だな。これはよい人を助けた」オルフェスは豪快に笑うと、再びユーリを見た。

「ユーリ、お前はこのお嬢さんと婚約を交わしたのか?」

「も、もちろんです!」

「嘘です!私は…!」

 オルフェスは手を上げて、マキを制した。

「いつのことだ?」

「一ヶ月ほど前のことです。我が屋敷にその女と女の父親を呼びました。しかし、そこでこの女は父や使用人たちがいる前で、他の男と姦通したなどと!」ユーリは口角泡を飛ばして喚き散らした。

「既に婚約していたのであれば、不義となるが…ひとつ解せんな。一ヶ月も前であれば、俺にも婚約か、または婚姻の儀の報せがあってよさそうなものだ。エイカー、何か聞いているか?」

「いえ、特には。帝都に寄った際もその様なことは一切、全く聞いておりません」

「…ということだ。ユーリ、お前は剣に誓ってもう一度言えるか?」

 オルフェスは再び、ユーリに剣を突きつけた。

 彼の目が妖しく光を帯び、その鋭さはユーリの嘘を突き刺した。

「も、申し訳ございません…」

「今回のことは俺の顔に免じて許してやろう。しかし、ジェロムには伝えおく、いいな!」オルフェスの叱責に、ユーリはびくっと体を縮こませた。

「そこの二人はのびているだけだ。しばらくすれば気がつくだろう…ユーリ、お前も伯爵家の跡取りならば、戦いを部下にだけ任せるな」

「…はい」ユーリはうつむいたまま、拳を握りしめた。オルフェスはあえてそれを見ぬふりをした。恨みを買ったことは事実だが、それは彼の生き方でもある。


「いくぞ、エイカー。それにお嬢さん、もう夜も遅い。俺の野営地に来るがいい」

「た、助けて頂いた上にその様な…」

「俺に恥をかかせるな」オルフェスはそう言って、愛想のよい笑いを浮かべた。

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