第八話 黒髪の幼馴染み

 アレスが帝都を旅立ってから数日後。

 マキ・イズモは何度目になるかわからない小さな溜息をついた。

 彼女は帝都でも目立つ存在である。タイシャ人の父親コウシロウからは黒髪、アウストラリス人の母親シャーレンからは緑色の眼を引き継ぎ、整った顔立ちと均整のとれた体は、美女という言葉をまさしく体現していた。

 “黒髪のアウスト”

 それが、彼女のような混血に付けられた敬称だ。両親は惜しみない愛情を彼女に注ぎ、成長した今でもそれは変わらない。

 しかし、年頃になると煩わしく思うこともあり、さらに自分の容姿が話題になるにつれて、いつしか誰にでも表面的な笑顔を向けるようになっていた。

 ただ一人、アレスを除いて。


 幼い頃、体の弱かった彼女は、少しでも熱が出ると学校を休まなければならなかった。両親は心配して色々と手をかけてくれたが、家業の輸入商が忙しかったために、彼女の本当の気持ちにまで届くことは無かった。


『退屈、暇、つまんない…』


 それがマキの口癖だった。体調が良く、晴れた日には少しばかり外で太陽や風にあたることもあったが、使用人達は彼女を気遣う余りにそれすらも体に毒だのなんだのといって、すぐに連れ帰った。

 ある朝、それは偶然だったのかもしれない。

 学校が休みだったその日、マキが目覚めると、今までに無いくらいに体が軽く感じられた。そのまま、どこにでも走り出して行けそうなくらいに気分も体調も良かった。

 両親は休む間もなく働いており、マキへの心配とは別に、身の回りのことは全て使用人に任せていた。その使用人達が来るよりも早く目覚めた彼女は、すぐさまに行動に移した。

 動きやすそうな服と靴に着替え、あまり使うこともなく貯まっていたお小遣いを持ち、生まれて初めて、自分の意志で遠くに出かけることを決意したのだ。

 

 帝都は東側に港があり、中央に皇帝の住まう宮殿がある。その周囲を囲むようにして貴族、軍人、商人といった具合に街が形成されている。

 タイシャ人は建国直後に流れ着いたのが最初の移民だった。やがて持ち前の高い技術力を発揮して、帝国の黎明期を支えるに至り、その穏やかな性格も相まって受け入れられ、移民の数も増えていった。

 マキの父親コウシロウは生粋のタイシャ人で、祖国からの輸入の商売で財を成し、騎士の家系であるシャーレンと結婚をしてマキをもうけた。その地位はかなり高く、帝国騎士と並ぶほどの家柄になっている。

 つまり、マキの家の周りはそれなりの家柄が多かったために、彼女自身は何かあっても心配はない、という子供なりの確証があった。


 彼女は色々と歩き回った。親に手も引かれず、使用人に窘められることも無く、自由に石畳へ靴音を響かせた。

 猫を追いかけたり、おいしそうな露天のお菓子を食べたり、素敵な服を着た女性を見ては憧れてみたり…それは彼女が一人でしか経験しえないものだった。

 しかし、多くの子供が経験するように、彼女は自分の家に帰るという当たり前のことを考えてはいなかった。体調が良いとはいえ、体が弱いことに変わりはない。

 気がつけば、見知らぬ街角で途方に暮れていた。少し心が弱っただけで行き交う大人に道を聞く勇気も出てこない。

 マキは胸に大きな不安を抱えながら、来た道を戻ろうと必死になった。必死になるほど、道はわからなくなり、痛み出した足を抱えて道ばたに座り込んでしまったのだ。


「どうしたの?」声を掛けてきた男の子がいた。

「足が痛いの?ねぇ、君は“黒髪のアウスト”だよね」男の子は彼女の横に座り、立て続けに質問してきた。

「男の子はきらい」マキは顔をぷいと横に向けた。

「なんで?」

「いじめるから。わたしの髪を炭みたいだって」

「ぼくはそんなこと言わないよ。あのさ、もしかして道に迷ったの?」

 マキは顔を背けたまま少しだけ頷いた。彼女にとって男の子は迷惑な存在だ。学校では何かにつけて髪の色でからかってきた。さらに、女の子の何人かも彼らに同調して彼女をからかったりした。体が弱いなんて、皆の気を惹きたいだけだよ…そんな事を言われもした。


「どの方向から来たかわかる?」

「わかんない」

「家を出たときに、太陽はどこからあたっていたの?」

「どこって?」

「うーん、例えば家を出てから太陽が正面にあったとか、右にあったとか、思い出してみてよ」

「それで、家がわかるの?」

「もちろんだよ。ぼくはアレスって言うんだ」

「…わたしはマキ」彼女は仕方なしに名前を言った。男の子がきらい、という気持ちはあまり変わらなかったが、不安を払いたい気持ちが心を和らげた。

「じゃあ、マキ。家を出たときの向きはわかる?」

「うん、こっち」体に染みついた記憶は正確に東を指さした。

「なるほど。太陽は今、西に傾きかけているから、多分向こうに行けばいいんだ。きっと、ぼくの家と同じ方向だよ」

「本当?」マキは潤み始めた目を袖で拭った。

「うん。一緒に行こうよ」

「あ、ありがとう」


 もし、アレスが近くの大人にマキのことを聞いていたら、“黒髪のアウスト”と呼ばれる彼女の家がどこなのか、すぐにわかっただろう。しかし、アレスも密かに街の冒険をしている最中であり、大人に頼るなんてことはしなかった。

「ぼくは冒険をしているんだ」アレスは自慢げに言った。

「わたしも」マキは冒険という言葉に顔を輝かせて答えた。

「じゃあ、ぼくらは仲間だ」

「うん」

 彼らの冒険は子供としては思った以上の道のりだった。

 歩きながら話をするうちに、二人は意外と近くに住んでいることがわかった。それがわかっただけでも、マキはとても安心した。この男の子について行けば大丈夫だと。

 結果としてアレスは、疲れて半べそをかいたマキを見捨てることなく、なんとか家にたどり着いた。

 その冒険の日を境に、彼女は今までの病弱な体が嘘のように元気になった。

 そして、マキはアレスが好きになっていた。

 しっかりと手を握ってくれていた彼の強さを感じたのかもしれない。あるいは、彼が黒い髪のことをからかわなかったせいかもしれない。

 彼女にとってそれが、恋愛という感情だと気がついたのはもっと後のことだ。


***

 

 アレスが“女の子”という存在自体を好きだということがわかっても、それは変わらなかった。誰かと恋愛関係にあるという話を多少聞くこともあった。その度にアレスが自分に対してだけ、距離を縮めてこない理由がわからなかった。

 家によく遊びに行き、父親のアロウスとも仲良くなった。

 アレスが帝都剣術学校に入った時も、真っ先にお祝いもした。それでもアレスは、半ば義務的とも思える礼を述べるだけで、相も変わらず色々な女の子を追いかけ回している。

 なぜ、そんなことばかりするの?と聞いてみたくもあったが、自分の気持ちが知られてしまうようで気恥ずかしく、いつしか素っ気ない態度をとるようになっていた。

 アロウスから、アレスを旅に出すと聞いたとき、彼女は自分の中にある気持ちをどうにかしたいという希望を抱いた。

 まだ一度も行ったことのないタイシャ国のお守りを手に入れると、散々悩んだ挙げ句の果てに一行だけの手紙を書いてアロウスに託したのだ。

(アレスは読んだのかな…)

 そんな後悔ともなんともつかない、もやもやとした気持ちが溜息となって吐き出されている。


***


 アレスが旅立ってから一ヶ月が過ぎようという頃、マキは初めて父親と大喧嘩をした。十八歳といえば、帝国では結婚相手がいてもおかしくない歳である。特に神聖な黒い髪とまで言われる“黒髪のアウスト”であり、貴族の間でも美女として名が知られてきたマキは引く手数多となっていた。

 父親のコウシロウは、アレスのことをそれほど好ましい人物とは思っていない。騎士であるアロウスを優れた人物と評しながら、息子は女性を追いかけるだけしか能が無いと思っていた。

 それは当然のことではあったが、マキにとってあからさまに事実を突きつけるようなコウシロウの物言いと、勝手な縁談を進めたことに腹を立てたのだ。


「自分のことは自分で決めます。勝手に決めないで!」マキの剣幕に、コウシロウは眉間に皺を寄せた。

「彼の身分はただの剣士だぞ。職にも就かず、出て行ったきりじゃないか。ハインズ伯爵家は代々、皇帝の側近として名が高い。こんな話はないぞ」

「そんな話、いくつも持ってきたじゃないの!男爵だの子爵だの…そんなものに興味はないから!」

「マキ、我が儘いわないで。私もあなたの歳にはお父さんと結婚したの」シャーレンが言った。

「私とお母さんは違う。なぜ、そうやっていつも自分たちの考えだけが正しいと思うの?」

「それは私たちがお前の親だからだ。とにかく一度で良いから、ユーリ様と会いなさい。私たちタイシャ人にとっても良い話なんだ」

 懇願するようなコウシロウの顔を見て、マキは肩を落とした。自分が何かを言ったところで、貴族相手では決まってしまったことを覆すのは難しいだろう。

「…会うだけ。でも、結婚はしない。自分で決める」

 マキの言葉に、コウシロウとシャーレンは安堵して顔を見合わせた。それだけで、マキは自分自身に否定するだけの決定権すらないことを悟った。


***


 ハインズ伯爵家の主、ジェロム伯爵は皇帝の側近を務めてはいるが、形骸化した世襲に過ぎない。そのことを実感しつつも、先祖の残した地位に甘んじていたため、ジェロムは嫡男であるユーリの育て方を間違えたといってもいい。

 マキの結婚相手に名乗りを上げたユーリは、何不自由なく育ち、それなりの剣術、それなりの知識と何事も中途半端で、本来であれば出世すらも怪しく、漠然と家名に胡座をかいている男だった。


「いや、美しい!これぞ我がハインズ家にふさわしい!」ユーリは下卑た眼でなめ回すようにマキを見ていた。

 ユーリとマキの顔合わせは、ハインズ家の屋敷で行われていた。華美な装飾と狩られた獣の首を掲げた室内を見ただけで、マキはうんざりした。

(気持ち悪い)

 それが素直な感想だった。胸を強調し、無駄に足をさらす服を着せられ、さらに好きでもない男に無遠慮に見られるのは苦痛でしかない。コウシロウは言葉を選んで話せ、と彼女に釘を刺したが、そもそも話をしたいと思う相手ですらなかった。

「マキ、お前のことを話しなさい」コウシロウに促されても、マキはいつもの取り繕った笑顔すら作れず、憮然とした表情のままだった。

「マキさんはお疲れのようですなぁ」ジェロムもまた、マキを下卑た眼で見ていた。


(親子そっくり…冗談じゃない)

「特にお話しすることはありません」

「またまた、緊張しているんでしょ。外に出てお話ししましょう」ユーリがにやにやと笑った。

「マキ、そうするがいい。伯爵様、申し訳ございません。娘は無口で無愛想なものでして…失礼をお許しください」

「なに、構わぬよ。ユーリ、失礼がないようにな」

「もう、わかっておりますよ、父上。さあ、参りましょう」

 マキはユーリに促されるまま、屋敷の庭に出た。手入れされた庭は、屋敷の中とは段違いに美しく、花が咲き乱れていた。その甘い香りに、不快さが少しずつ洗われるようだった。

「さすが、“黒髪のアウスト”の中でも美しいと言われるだけはありますねぇ。僕の見立てに間違いはなかった。この美しい庭の中でも光輝いて見えますよ」ユーリは嘘くさい言葉を並び立てる。


「ユーリ様、お聞きしたいことがございます」

「不肖、このユーリ・ハインズ、美しいあなたの為なら全てお答えしましょう」

「いえ、ひとつだけで結構です。なぜ、私を選ぼうと思われたのですか?」

 ユーリはわざとらしく驚いたように眼を見張ってから、肩をすくめた。

「それはもう、あなたの美しさですよ。その艶のある長い黒髪、宝石のように美しい目、長い手足も…まだまだありますよ」

「…それは私の外見だけですのね」

「女性にこれ以上の褒め言葉はありませんよ」何を馬鹿なことを、とでも言うようにユーリは言った。それだけでマキにとっては十分な答えだった。

「ユーリ様が選ぶ女性とは、それだけの価値でしかありませんのね。私も年をとれば髪は艶を失い、顔には皺もできるでしょう。それでも貴方様は良いのですか?」

「…それは…まあ、金を掛ければなんとでもなる話です」

「女性を馬鹿にしているのですね」

「な、なんと…私はただ、あなたの美しさを褒めただけで」

 マキは意を決した。


「誠に失礼ながら、私は男を知らぬ体ではありません。もし、美しいと仰るのなら、それは私が恋をしているお陰です」

「な、な、なんと!」

 ユーリの唇がわなわなと震え、こめかみに青筋が立った。貴族にとって、わざわざ呼び寄せた相手が処女ではないことは、屈辱でしかない。

「ふざけたことをっ!馬鹿にしやがって!」ユーリは声を荒げた。

 怒鳴り声を聞いたジェロムやコウシロウ、さらに使用人が何事かと屋敷から出てきた。

「どうした、ユーリ」

「父上、この女はとんだくせ者です。既に男を知っていると!誰とも知らぬ男に抱かれたなど、見た目に騙されました!」ユーリはわめき散らした。

「なんだと!」

「お、お待ちください。決してそのようなことは…」コウシロウが慌てて間に入るが、マキはとどめを刺すように言い放った。

「ユーリ様も女を知らぬ訳ではないでしょう?お互いさまですわ」


 騒動の後、幾分か冷静になったジェロム伯爵は、その美しさが罪などと言って、二度と顔を見せるなとコウシロウに言った。

 愕然とするコウシロウとマキはお互いに無言のまま帰宅したが、家に入るや否や彼女は頬を引っぱたかれた。

「お前の育て方を間違えた」

「マキ、謝りなさい」

 マキは口の中に広がる血の味を噛みしめながら、こらえるようにして二人に言った。

「別に…私は間違って育ったなんて思ってない。謝ることもない。私は自分で決めるって言った」

「だからといって、男に抱かれたなどと…相手はアレスなのか?」

「嘘に決まってるじゃない。そんなことするわけない」

「な、お前…」コウシロウは言葉に詰まった。マキの眼は今が本当の事を言っていると物語っていた。複雑な感情が入り乱れて、彼は混乱した。娘が嘘をついた。男と関係したという嘘、実はしていなかったという嘘…コウシロウ自身、伯爵家との縁談というだけで浮かれていた部分があったのは確かだ。

 しかし、ユーリもジェロムも娘をまるで…品定めするかのように見ていた。

「もういい。私が悪かった」

「あなた!そんな…」

「だが、お前のしたことを許すとは言っていない。遅かれ早かれ、噂は広まるだろう。そうなれば、物好きな貴族が声をかけてくるだけだ。さすがの私でも、そのような人物と結婚しろなどとは言わん。だが、けじめをつけろ」

「どうすればいいの?」

「お前が自分で決めると言ったんだ。自分で決めなさい」

「そんな…コウシロウさん!」

「シャーレン、この子はもう大人だ。私とお前が二人で決めたように、この子にも自分で決める権利がある。自分たちがしたことを、子供に許さない道理はなかったんだよ」

「…もういいわ、好きにすればいいのよ」シャーレンは不機嫌な顔をして出て行った。

「ありがとう、お父さん」

「実は母さんは反対していたんだ。怒っているのは、私が振り回したせいだよ。気にしてはいけないよ。それにお前が娘であることに変わりない。本当に困ったときは必ず助ける。それだけは覚えておきなさい」

「うん」

 マキはにしっかりと頷いた。


 自分がどうするべきか、それはひとつしかなかった。

 アレスのお守りに入れた言葉を、自分自身の口で伝えるためにマキは大きな決意を固めた。 

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