1-11.マーマン


 咄嗟にリナリアは両手を伸ばした。落下するレウィ目掛けて幾筋もの雲糸が放たれる。

 ────間に合わない!

 顔を上げるとレネもまた一拍遅れて同じように雲糸を放つのが見えた。

 しかし、レウィは────青緑色の竜に止めを刺そうと崩落する雲の網を駆け下りて行った。それは二人の伸ばした雲糸の距離が広がることと、海へさらに近づくこと。

 ふたりの糸はゼロ界域までにレウィを掴むことはできない。

 派手な飛沫があがった。

 喉を剣に貫かれた青緑色の竜の巨体が海面に叩き付けられたのだ。振動と共に巨体が沈むと、むせ返るようなバニラの甘い匂いが広がり、細かな水煙が視界を覆う。

「レウィ!」

 駄目だ、駄目だ。糸は間に合っていない。リナリアの思考が悲鳴を上げる。

 水煙が収まり視界が戻ると、すぐに影が見えた。

「レウィ…………!」

 雲糸で両腕を絡められてぶら下がるレウィ。左腕はリナリア、右腕はレネの糸が幾重にも絡みついて伸びる様はトンボの羽のようだ。

「よかっ、たぁ────」

 安堵とともに、焦りのせいか鉛ようだったリナリアの腕がようやく感覚を取り戻して、掴んだレウィの重さをリナリアに伝えた。

 レウィの爪先は握りこぶし一個分ほどの差で海面についてはいないものの、明らかにゼロ界域を超えている。

「レネ!」

「ああ」

 海水でずぶ濡れのレウィを見て、細い糸とレウィを介したレネの緊張が伝わった。向こうもまたこちらの怖れを感じているのだろうか。

 ――――正気を失ったレウィが暴れだす前に引き戻さなくては。

 雲糸を操る両手に力を込める。と、レウィの左手首の糸がぐっと引かれた。

「リア、私のボードを…………」

 ぼたぼたと雫がしたたる前髪の向こうからレウィが苦く笑ってこちらを見上げる。

「レウィ! 大丈夫なの!?」

「おい、気をつけろ────」

 驚き戸惑うリナリアとレネの声が重なる。

「大丈夫だ、それより────」

 すぐに意図を察して、リナリアは自分の両腕にしっかりと巻き付けた雲糸を数本解く。動かせるようになった片手で腰の風車から糸を引き出し、上空で旋回しているレウィのボードへと投げた。狙い過たずにそれはエメラルドグリーンの板を捉え、海上のレウィへと導いた。リナリアの動作の為、一瞬体勢を崩したレウィだったが、レネの糸に自重を移す。そして、滑り降りてくる愛機との距離を測った。

「動かすぞ」

 両腕を糸に絡み取られたまま大きく身体を揺らし、その反動でボードの上に飛び乗るレウィ。彼女が飛び上がるのと同時にレネとリナリアは全ての糸を切り離した。

 さあっと、視認できる風のようにレウィの両腕から幾本もの糸が流れ落ちた。風を捕らえてうまく上昇した彼女は指先で残った糸をぷつぷつとむしり取る。

「ありがとう、助かった」

 前髪から光る雫を幾筋も落ちる。

 空の世界へ戻った勇者は優秀な双翼へ晴れやかな笑顔を向けた。

「――――なんでそう無茶を!」

 思考を侵し飲み込もうとする、ぐちゃぐちゃとした混乱を無理やり押しとどめたリナリアは、代わりに込み上げて来た怒りと涙を隠そうとせずに叫んだ。

 レウィは優秀な戦士だ。『空の戦士勇者』である前に、ただ一介の戦士としても他とは一線を画す力を持つ。────むしろ、それ自体が『空』として持つ特質なのかもしれない。

 しかし、能力以上に、レウィが勇者として周囲の人々を惹きつけるのは、空での自然さだ。

 レウィは海を臨む空の上でも地上と同じように躊躇いなく動く。恐れず、頓着しない。雲糸の上での戦い、ゼロ界域、正体不明のマーマン…………それらと相対する時に懸念が一切ない。だから、今回のように最後まできっちりと止めを刺そうとギリギリの行動を取るのだ。

「………………あー、オカエリ。でも、さすがに最後のアレは無茶しすぎだろ」

 白けたようなレネがレウィとリナリアを交互に見た。

 咎められて居心地の悪そうなずぶ濡れのレウィに対して、リナリアはぼたぼたと涙を零している。

「でも、仕留めた感覚が今ひとつ無かった。――――アクセルの件でもわかるだろ、錨のマーマンはその辺の敵と同じ強さではないはずなんだ」

「うわぁ…………、物足りないってわけね…………」

「いや、そうじゃないんだけど」

 レネとレウィのやり取りの間に涙をぬぐって平静を取り戻したリナリアは────声はまだ震えていたが────、精一杯の不満を鳴らす。

「一旦引いて、それからもう一度止めを刺して欲しかった。そのために私たちは動いたし、チームなのだから、誰もが危険の無い一手を打てるのならそれを選んで欲しかった」

 リナリアにとってレウィは勇者である以上にだ。こんな時でもリナリアはレウィに対しては希望として伝える。そんな彼女に、レウィは前髪から雫をこぼしながらにっこりと笑いかける。

「悪かった、次からはそうするよ」

 それで、リナリアはもう何も言えない。

「────それにしても、あれで仕留めたとは思えないが…………全然浮き上がってくる気配が無いな」

 荒れた波も収まり、元の凪いだ姿へと戻った海を見てレウィが眉をひそめる。

 ゼロ界域と距離を取り、滞空状態を保って様子をみたが何も動きは感じられない。

「いいんじゃないんですか、やっちゃって」

 ぶっきらぼうなレネの言葉に、釈然としない表情のままでレウィは再び金の楔を手に取った。

「火輪を。途切れて三つ」

「…………了解」

 剣の言葉に、双翼たちはそれぞれの位置に飛び上がる。先ほどと同じような動作を繰り返し、さらに空から海へ向かって大中小と縦に並べた円環を三つ作る。

 それが出来上がると、レウィは警戒しながらも最初の大きな輪に降り立つ。

 巨大な竜の身体が飛び乗ることを防ぐため、細い雲糸によってレースのように編まれた輪だ。

 爪先でそっと糸を撫で、それから太陽と金の浮標の位置を確認する。

 しばらくそのままで様子をみて、異変がないことを確認するとレウィは左手の甲に目を落とした。

「よし」

 軽く振ると、伸びた爪が擦れた金属音を残して彼女の手甲へ収まった。

金の楔を片手に短く息を吐くレウィ。

「────いくぞ」

 リナリアとレネが頷いた。

 軽い身のこなしで円環の縁を駆け、輪と輪の間を軽々と跳び移る。

 そして、遂に一番下の小さな円環に辿り着くと、楔の楔頭へ左手を打ち付けた。

 甲高い音と共に海面へと撃ち込まれる光。

「ボレアースよ!」

 水中から応えるように音がした。

「アネモイよ、ケラウノスの雷霆を盗みて墜とせ!」

 勇者の言葉が終わるか終わらないかのうちに、海面が激しく波打ち、ぐわあああん、と重く音が鳴り出した。海面に浮いた金の浮標の下から叫び声のように、激しく、何度も。すると、つられるように波間からも弾けるようなパチパチという断続的な音があちこちから聞こえ出した。

「雷霆の結界は完成した。これで、錨から数キロの間はマーマンたちは近寄れない」

 レウィの言葉にうなづくと、リナリアとレネが再び雲を紡ぎ出す。

 やがて、先ほどよりずっと大きな雲塊を作り出すと、ふたりは浮標の周りをゆっくりと回る。

「――――風の傾き、海の昇り―――― 」

 歌うように声を掛け合いながら、ふたつのボードはゆるゆると宙に円を描く。

「────」

 慎重にタイミングを合わせて、ふたりは左右から雲塊を金の浮標の同じ場所へと狙って放つ。次々と。雲塊は空に向かって糸を吐き出しながら標の様々な場所へと撃ち込まれていく。

 そうやってゆっくりと丁寧にたくさんの糸が標を空へと縫いつけた。


 すべてが終わると三人は大きく息を吐いた。海の反射と太陽のきらめきの中で、振り仰ぐと幾本もの透明な糸が雨のようにきらきらと空へ伸びている。


「ゼピュロスの錨を取り戻したな。…………これで繋がった錨はふたつ」

 レネがつぶやく。

 彼らが繋いだ雲糸の綱を手蔓として、いずれ、より強い鎖が造られる。そうやって、ゼピュロスの街は海へと繋がれるのだ。

 三人は顔を見合わせ、自然と微かな笑みを交わした。

 レウィはそっと自分の腰の雲を生成する箱に手を伸ばす。それはリナリアやレネのそれと比べてとても小さい。手をかざし小さな雲を引き出し、それを空に打ち上げる。打ち上げられた白いの塊はそのままスズメほどの小さな鳥となって飛び立った。

 空の向こう、恐らく離れた所で待機している見守り役の仲間たちへ悲願の成就を伝えるため羽ばたいた小さな雲の鳥を見て、レネはぼそっと呟いた。

「下手くそ…………」

 レネの顎先に小さな白い塊が打ち込まれた。

「あんたに言う資格無――――」

「はあ? 俺、あれよりはうま――――」

「当たり前でしょうが! 伝書雲も作れない翼なんか聞いた――――」

「レウィが何年戦士やってると思うんだよ、俺なんか二年前は作れ――――」

「いばんな――――!」

 いつも通りのじゃれあいを始めた二人をちらりと見て苦笑を浮かべたレウィは、さっさと自分のボードを反転させた。

「先に戻るよ――――フロウが待ってる」

 はっと身を固くしたリナリアの肩をそっとレネが押す。

「――――しょうがねぇ、続きは後だな」

 そう言って、レネは胸の前で握り締めた彼女の手を優しく取った。

「行くぞ」

「うん――――」

 戦いは終わり、錨は繋いだ。

 だが、戦いの一部始終を見ていたフロウが舟にそのまま残っているとは限らないのだ。

 不安で少し震えたリナリアの指先を、レネの温かい手がゆっくりと暖めた。



 金の楔を打ち込だことで生まれた海面のいかずちが爆ぜる音は、ずいぶんと小さくなっていた。別に効果が落ちたわけではない。耳に雷と波の音が馴染んで来たのだ。

 もはや海も空も静かで穏やかなものに思えた。

 その空を出来の良い紙飛行機のようにエメラルドグリーンのボードが滑らかに一直線に飛んでゆく。それは行きよりはるかに早いスピードで空に停泊した一艘の小舟に戻った。

 舟を見下ろして、レウィはほんの一瞬躊躇した。後からゆるゆると追う二人が気付かない程の短い逡巡。

 そして、ボードを蹴り、飛び降りた。

「フロウ――――」

 優しいアルトの声が仔竜を呼ぶ。

 刹那、白刃のきらめきが彼女を襲った。

 飛び散る赤とリナリアの短い悲鳴。

「…………くっ、マーマンか!」

 左の下腹部を抑えた右手の指の間から鮮血が滴り落ちる。

 偶然か狙ってか。刺客の刃は正確に黒の鎧の隙間を突いていた。舟に移った瞬間、戦士としての本能で身をひいたレウィだったが避けきることはできなかった。

 ────油断した…………。

 レウィは左手の爪をぎらつかせ威嚇しながら後退り体勢を立て直す。同時に指先で浅い傷であることをそっと確認しながら、敵襲を予想できなかった自分の迂闊さにほぞを噛んだ。

「…………――――」

 目の前の敵が呻くように何かを呟く。

 血走った緑の瞳と黒い髪、青白い肌をした体格の良い男だった。苔むした流木で作ったような不思議な材質の鎧で首から足まで全身を覆っており、片手で不器用に剣を構え、猫背気味にゆらゆらと立つ。

人型ヒトガタか……珍しいな」

 王国の人間とよく似た人型のマーマンの報告は過去にもあった。しかし、それは滅多に現れることはない。もし、現れたとしても竜や獣のようなマーマンに比べれば脅威ではなく、大抵は鍔迫り合いの末に撤退することがほとんどだ。

 しかし、このマーマンは何かおかしい――――レウィがそう思った時、白い塊が彼女の頬を掠めた。

「風の奔り!」

 球体を追って、その行く先を示す声が遅れてかかる。

 ────本末転倒だろ、とレウィは心の中で苦笑した。

 しかし、投球の主が取り乱した理由はすぐにわかった。

「レウィ! リナリア!」

 不器用に剣を持ったマーマンの右肘を支えるように添えられた腕の中から、仔竜の悲鳴が聞こえたのだ。

 見れば、男の腕と腹に挟まれてフロウが抱きかかえられている。

 このマーマンは舟にひとり残ったマーマンの子供フロウを見て、王国に攫われた同胞と勘違いしたのだろうか。

 自分がこのマーマンに感じた違和感はフロウを抱えた不自然な体勢のせいか?

 ────それとも?

「いや――――そうだ、ここはまだ雷霆の結界内だ。お前は、なぜ居る? それに…………」

 先程、リナリアから放たれた氷のように固められた雲塊は、ふらりと避けたマーマンの足元で弾けただけだ。だが、今度は細い雲糸が引き絞った矢のように真っ直ぐに舟の周囲を縫いとめ始めている。あのマーマンを逃がさないために、舟内の範囲に囚われないレウィの動きを可能にするために、翼たちは雲糸で小舟を囲むつもりだ。

 ぐっと力を溜めたレウィの身体が軽々と宙に舞う。否、空に張られた雲糸の上に着地したのだ。そのまま、左手の爪がマーマンの首を狙って閃く。

「!」

 その一撃は存外うまくいった。相手の体制を崩すために放った牽制のための一撃は、そのままマーマンの首から胸を切り裂いた。吊るされた生肉を刺したような感触に、男だけでなくレウィも顔を歪める。だが、驚くべきことに男はそのまま舟の床を蹴り、背中から倒れこむように海に身を投げたのだ。

 リナリアたちの糸はまだ張り終わっていない。瀬戸際で間に合わなかった。

 二、三本の糸はマーマンの男が振り回した剣で切れた。男が振り回した剣は手からすっぽ抜けて男を掴もうと飛び出しかけたレウィに飛ぶ。

「くっ!」

 敵の剣を爪で叩き落したレウィが再び伸ばした掌は届かず虚空を掴んだ。

 男は海へと落ちる。

 ――――フロウと共に。

「助けて、レウィ!」

 フロウの叫びとリナリアの悲鳴が重なって、静かな空に響き渡った。

「レウィ!!」

 レネの叫び。

 海面に広がる鮮血。

 水飛沫が、二度起きた。

 一度目は男と彼に抱えられたフロウのもの。

 二度目はそれを追ったレウィのもの。

 ゼロ界域を越えた海中へとマーマンとフロウ、それを追ったレウィの姿が消えた。

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