1-10.金の楔
遠目にただ輝いていた『錨の
近づくとそれは海に浮かぶ巨大な金の硬貨のようだった。それも、人が駆けまわれるような大きさの。くすんだ表面には細かな紋様が彫り込まれていて、絶え間ない波に洗われてもゆらぎなくしっかりと海面に固定されている。
「『錨』はあの印の下だ」
この派手な硬貨は浮標に過ぎない。目的の切れた錨の先端はこの浮標の遥か下に沈んでいるのだ。
「………………」
「………………」
近づくほど、胸の中が妙に騒めく。
近付いてはいけない、そう本能が警告しているかのように。
レウィを含めた三人は反射的に周囲を見回したが、緑の海は穏やかで今のところ変化は見られない。
海面で弾かれた太陽の光が三人を焼く。
熱い。
だが、同時に風が海からの涼風を届けてくれる。
ボードが吐き出す不規則な風が海を渡る自然の風を捕まえて、乗る人間を繭のように包んでいるのだ。
「もっと上へ」
レウィの声に彼女の後ろを飛ぶ双翼たちは従う。
高度が上がると、ほっとレネが短い息を吐いた。リナリアも汗をぬぐう。
「無理をさせて悪かった」
レネが不機嫌さを露わにした。
「ゼロ界域を抜けれるのはレウィくらいなもんだぜ」
王国の人間が不調をきたす海抜三メートルの空間は『ゼロ界域』と呼ばれている。そこに踏み込んだ王国の人間は五感が狂い、やがて幻影を見て────海へと引き込まれてゆく。
マーマンと戦う戦士たちは特別な訓練や経験を重ねることによって幾分かゼロ界域の耐性を持っているが、それでも、この距離へ近づくことは避けている。
耐性を持っていても影響はゼロではない。
また、ボードも停泊させた舟でさえ操り手とリンクしている。ややもすれば、彼ら自身が自我を失うより先にそれらに影響が現れてコントロールが狂うことすらあり、その場合はいくら耐性をもっていても、…………本物の鳥のような翼を持たない彼ら人間はゼロ界域と海へ堕ちるしかない。そして、堕ちた者たちのほとんどは助からない。
「悪かった。────でも、ありがとう」
「…………礼を言われることじゃないけどな」
小さく舌打ちするレネ。
海面から視線を外さないままでレウィは微笑んだ。
本当はもう少し近場まで舟で近付き、そこを拠点にする予定だった。その方がゼロ界域の影響を減らして楽に動ける。
だが、レウィはフロウを安全な場所に残すために予定より早い位置で舟を停めた。それは三人の中で特に耐性の低いレネには辛いことであったが、彼は何も言わなかった。
レネにとってもあの仔竜は仲間なのだ。
「でも、いいのか? 戦士の弱点をマーマンに教えるようなことをして」
「このまま戦いが長引けばいずればれることだ」
「正しい判断だとは思えないけどな。珍しく」
醒めた目が勇者を映した。
「…………そろそろ、錨が見えてきた。火輪の広がり、二、四、八、六」
レウィの指示に従って、レネとリナリアのボードが左右に別れる。
翼たちは
「右に」
「左へ」
翼の二人は腰に付けた風車の付きの木製箱型ポーチへそれぞれ手を伸ばす。
からくりから糸状の細い『雲』を、逆の手で白く渦巻く雲の円盤を掴む。
そして、腕の発射版から互いに向かって弾き出した。
直後に糸を掴む手を風を切るように動かす。
すると、放り投げられた円盤はその糸に絡め取られ、そこを起点にいくつもの尾を持つ蛇のように更に広がった。
そして――――ほんの数分でそこにはすり鉢状の白い『雲』の網が出来上がっていた。
レウィは、ボードから飛び降りて出来たばかりの『雲』の網に飛び降りる。
鮮やかな緑のレウィのボードは彼女の頭上をそのまま旋回した。
「ゆくぞ!」
危うげもなく雲の糸の上を駆けながら、レウィは背負った皮袋に手を伸ばす。片手で底に縫い付けられたボタンを外すとその中から金色に輝く楔を引き抜いた。
一本。
右手に楔を持ち、ハンマー代わりに左手の人差し指と中指のみ真っ直ぐ伸ばして、小皿のように広がっている楔頭を打つ。その瞬間、金の楔から甲高い音が放たれ、彼女の右手から海に向かって楔が打ち込まれた。
「エウロスよ!」
かつん!
もう一度、海中に沈んだはずの楔から甲高い音が鳴る。その音を耳に捉えながら、レウィは走る。そして、皮袋から引き抜いた新たな楔を同じように打ち込んだ。
放たれた瞬間、また音が鳴る。
「ゼピュロスよ!」
再び、答えるように海中からかつんという音。
そして、また放たれる金の楔。
音。
「ノトスよ!」
――――かつん!
続いて、大きな地鳴りのような呻き声、そして穏やかだった海面が激しく渦巻く。
「レウィ!」
異変を察知したリナリアからレウィに矢のような白い『雲』が放たれる。
レウィは細い雲の糸の上で
「────っ!」
その足先を青緑の巨大な物体が掠めた。
ざぶん、と大きな水しぶきを上げながら、その巨体は海面に沈み…………弾丸の如き勢いで再び海面へと上昇してくる。
「西風の傾き! 四七八! 」
声と共にリナリアが続けざまに放った雲塊を、素早く先回りしたレネが雲糸を使って弾く。
大きく盛り上がる海面。
鯨のような巨体が雷鳴のような声を上げて飛び出す。
「東海の昇り、八九五!」
凄まじいスピードで弾かれた雲塊は真っ直ぐ海へ突進したかと思うと、海面すれすれから跳ね上がる。
もはやその化け物は海上にその姿を晒した。
青緑の苔のような鱗と鮫のような歯を持つ巨大な竜────それは、雲糸で織られた網を破って戦士たちに喰らいつこうと真っ赤な口内を晒して海中から飛び出した。
レネが軌道を変えた雲塊は、出現した竜の更に上へと登って行く。
砕けた雲の残骸を縫ってリナリアの次の一打がそれを射抜いた。
「烈日の檻!」
声と共に射抜かれた雲塊が棘のある幾多もの銛に変化し、青緑色の竜へと降り注いだ。
『──────…………!!』
鋭さの無かった雲塊はたちまち氷の矢となり海より飛び出した竜の鱗を貫く。勢いを殺された巨体は辛うじて残っていた雲糸の網へ落ちたが、糸の細さのせいで受け止めた網はぶつぶつと切れて竜の身体を絡めとった。傷も相まって動くこともままならないようだ。
網の上部へと逃れていたレウィは竜の突撃によって破壊され緩んだ雲網を駆け下りる。彼女の左手の甲からはいつの間にか鋭く長い爪のようなものが伸びて、
気付いた青緑色の竜は避けようと竜は瞼を閉じて身体を捻った。
「――――――!」
もう一度、絶叫が海と空を揺らした。レウィの右手に握られた剣が竜の大木のような首を貫いたのだ。
だが、竜は剣を喉に刺したまま苦しみながらも身体を激しくうねらせた。
その振動で雲糸はさらにぶつぶつと切れてゆく。
「────っ、待て!」
「レウィ!」
悲鳴のようなリナリアの声と重なるレウィの怒声。勇者は滑落する竜に止めを刺すべく左手の爪を振り上げる。それが届く寸前にレウィの足元の糸が解け、竜の巨体とレウィの身体は海中へと投げ出された。
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