1-9.黒の鎧

 空は抜けるように青く、風は穏やかで優しい。

 昼前の暖かな陽射しを受けながら、一行は用意した馬に跨り西風の街ゼピュロスを出た。予定より少し遅い出発である。

「そろそろかな…………」

「だいぶ離れたけど、そのままでいいだろ」

「いつまでもこのままじゃかわいそうじゃない!」

「二人ともそれくらいで。でも、もう少し待って欲しい」

 一見、いつも通りに戻ったようなふたりに安堵しながらもレウィは周囲の様子を伺う。

「────そろそろいいかな」

 さらに街が遠ざかり街道を外れて辺りに人気が無くなると、レウィが呟いた。

 すると、待ってましたとばかりにリナリアのバックパックがむくむくと動いて中から青い鱗の仔竜が顔を出した。

「っぷはあ! ────わあ、ひろーい!」

 フロウの緑の瞳いっぱいにさわさわと風に揺れる新緑の海が映った。

「きゃっ、ちょっと待って!」

 フロウはぴょんと馬の上から飛び降りて草地の上を転がった。

 生ぬるい草いきれに混じった土と緑の匂いまでが今までいた世界とは違うように感じて、フロウはの胸は高鳴った。

「ねえ! リナリアのお庭も広いけどお外はなんだか空気が違うね。すごい────あ、鳥! 鳥がいるよ!」

 旋回する鳥を見てフロウが叫ぶのを見て、リナリアとレウィは顔を互いの顔を見て思わず微笑んだ。

 貴族が鳥の名を冠する慣わしのある空の王国だが、その名の元になった鳥はすでにこの国にはいない。この空の島々を訪れる鳥はほんの数種で、それはゼピュロスもフロウが今まで暮らしていた王都ユリオプスもそう変わらないのだ。その事実を知っているからこそ、外に出てはしゃぐフロウが微笑ましく思えた。

「うわあ、あんなところにお花が咲いているよ! ふわふわのお花…………あ、飛んでった!」

「風が強いねえ、ふん、お花のにおいがするー!」

 一行が通った森の中は、庭師の手が入ったリナリアの庭はとは違って新鮮に思えた。

 駆けだすフロウをリナリアが捕まえ、その身体を馬の上に乗せる。

 それでも、フロウは中々落ち着かない。

「今のざわあってなに!? え、風の音? そうか、そうだよね…………」

 しかし、馬で一時間程進む頃には好奇心で明るく膨らんだフロウの心もしぼんでしまった。

 リナリアもレウィも――――レネは元々だが――――、フロウの驚きに対してあまり明るい言葉を返してくれないのだ。ふたりのどこか浮かない顔とレネの不機嫌そうな顔を見て、フロウは自分の突発的な行動が思っていたよりずっとよくないことだったのだとようやく気付いた。

「…………ねえ、リナリア」

「――――ん、なあに、フロウ?」

 返すリナリアの声はいつもより力ないものだった。

「ごめんね……」

 ぼんやりと何かを考えながら行く手を見つめていたリナリアは、はっとして懐に移動した仔竜を見る。フロウはリナリアの腕の間でしゅんと頭を垂れて大きな瞳をうるませている。

「僕――――ついてきては行けなかったんだよね…………」

「そんな――――」

「そんなの、当たり前だろ」

 瞳を揺らめかせながら何か答えようとした彼女の言葉をレネが遮った。

 フロウの位置からはリナリアの後ろを行くレネの姿は見えないが、いつも以上に厳しい顔をしているのはわかった。

「めちゃくちゃな理屈で、自分勝手に行動しやがって――――」

「レネ」

 遮るアルトの声。先頭を行っていたレウィの馬がリナリアの隣に並んだ。

「同じ話を繰り返しても今更意味は無い。それより、もうすぐ岬だ」

 レウィに促されて、フロウも馬首の陰から首を伸ばす。

 視界に白くうねるが飛び込んで来た。

 自分たちの方へ押し寄せるようにゆっくりとうごめく海のような巨大で大きな雲の固まりが地面より少し下から天へと延びてまた降りて。『岬』と呼ばれたその途切れた地面の下の方へ潜って、砕けて裂けてゆく。

 先ほどまで一行を追うように左右に広がっていた森は途切れていた。茎の太くて短い小さなたんぽぽが岬の先端までの狭い地面を黄色く覆い尽くすように生えていて、雲をうねらせる風がそれを滅茶苦茶に揺らす。

「あっ、あれ!」

 上ずった声を上げるフロウ。

 岬の終わりにもやいづなが巻かれた太い杭が打ち込まれていた。綱の行く先を視線で辿ると小さな舟が雲の中でくるくると回っているのが目についた。

「漕ぎ手は――――なしか。本来ならよその戦士に漕いでもらう予定だったんだぜ」

 レウィは不機嫌そうなレネの呟きに答えるように言った。

「昨夜連絡して舟だけを用意してもらったんだ。同行するはずだった見守り役の戦士たちは他の舟に乗って離れたところで待機してもらっている。

 ────少しの距離だ、問題ない。それに、元々その方が楽だろう」

「そりゃそうだが」

 レネとレウィの会話は自分に向けられたものだと、フロウの幼い頭でもなんとなくわかった。

「レ、レウィ――」

 いたたまれない気持ちでレウィを見やると、彼女は馬から下りてリナリアの馬の横に立った。リナリアの膝にいるフロウとレウィの視線が少し近づいた。

「ずっと考えていたが、私はこれで良かったと思う」

「え…………?」

 首を傾げるフロウと沈んだ表情のリナリアを交互に眺めて、かの勇者は語った。

「今回の任務は危険なものだ。あまり心配し過ぎないで欲しいけれど、万が一、ということがある。私たちがすぐに帰れない何かがあるかもしれないということだ」

「そんなこと、絶対に無い!」

 妙な確信をもって叫ぶ僕をレウィは寂しげに見た。

「私はフロウに謝らなければいけない」

「あやまる────?」

 フロウは自分を支えていたリナリアの手にぎゅっと力がこもったのがわかった。

「ああ。よく聞いて欲しい。お前をこの地に連れてきたのは私なんだ。

 そして、その時の私はマーマンにフロウほどの知能があるとは思わなかった。────もし、わかっていたのならお前を連れて来ることは無かったと思う」

 え? とフロウはリナリアを見上げた。しかし、彼女の瞳はフロウではなく、レウィを真っ直ぐに見ていた。フロウは彼女の自分と揃いの大きな緑の瞳が陽光を弾いてきらきらと光っているのを不思議な気持ちで眺めた。

「昔、王国とマーマンの戦いは小競り合い程度のものでしか無かった。それまで、私たち王国の民は彼らマーマンを海に棲む獣の一種だとしか思っていなかった」

 それは、フロウも知っていた。リナリアがたまに読んでくれる絵本にもそのようなことが書いてあったように思う。

「『錨』の話は知っているな? 三十年前、錨を打ち込んだ私たちとそれに怒るマーマンたちは本格的に戦い始めたが、その時になって初めて私たちはあまりにも彼らマーマンのことを知らないことに気付いた。そう気付いた時、本当なら私たちはもっとマーマンたちを知るべきだったんだ。

 だけど――――、それを許さないほどに三十年前のあの戦いの被害は大きかった。王国の戦士たちは大勢が死に、戦士たちを導き先陣を切って戦うはずの『空の戦士』はすべて滅んだ。

 そして、今に至るまで王国はマーマンを捕虜として捕まえるだけの戦力も無く…………愚かなことかもしれないが、それゆえにその危険を認めない。

 私は王国の剣として戦う戦士だ。しかも、『空の戦士』として確実に敵に斬り込み、誰よりも強い戦士として戦わなければならない。

 …………だからせめて、戦う相手を知りたかった。身体の構造、知性、習性――――」

 フロウは自分を覗き込むレウィの黒い瞳を「寂しそう」だと思った。

「私はマーマンたちを確実に殺すために、三年前、探索中に見つけたマーマンの卵を海から持ち帰った。…………それがお前なんだ、フロウ」

 なんだかとても難しい話をされている気がする、とフロウは思った。

 レウィの語る話は彼には難しく、とてもむごいものであるような気はした。その一方で、いつも穏やかな彼女の顔が苦しそうで、話の内容よりもそればかりが気になった。

 「レネ」

 レウィが声をかけると、レネが大きな皮袋が差し出した。彼女はそれを受け取り中のものを取り出す。

 ────フロウの胸がぞわぞわと騒いだ。嫌な、感じがした。

 レウィが持ったのは黒い鎧だった。空を走って戦う王国の戦士たちが使うのに相応しい、胸元を中心に守るとても軽そうな鎧だった。革製のようでその黒はなまめかしく鈍く光っている。

 フロウだって何度も『温室』で騒がしく『どんがって』いるリナリアたちの姿を見たことがある。リナリアたちはいい顔はしなかったが、それでも、フロウは寂しいと感じた時にはこっそりと温室に忍び込み、彼女たちを眺めていた。『どんがって』いる時の彼女たちは時には鎧を付け鈍く光る刃物が飛び交うこともあったが、幼いフロウは今まで武装した彼女たちの姿を見ても特に何も思わなかった。

 ――――しかし、この鎧は――――とても気分が悪くなる。吐き気がする。

 小刻みに震えているのに気付いたリナリアの手が遠慮がちに仔竜の両肩を包んだ。

 そんなフロウの心境を知ってか知らずか、レウィは淡々と話を続ける。

「初めて王国が錨を打った時、怒ったマーマンたちが錨から伸びる鎖を伝って攻め込んで来た。王国側わたしたちは即座に鎖を空の大地から切り離すことに成功し、攻めて来た多くのマーマンたちはそのまま海へ落下していったが────一匹だけ王国の大地を踏みしめたマーマンがいた」

 レウィは顔を歪めて、その黒い鎧を身に着けた。それは脇のベルトで簡単に装着することができた。

「これが、そのマーマン、黒竜の皮と鱗で作られた鎧だ」

 意味を飲み込むより早く、激しい嫌悪感がフロウを襲った。自分を支えるリナリアの指がとても冷たく感じた。

「これを身に着けて、これから私たちはお前の仲間を殺すことになるだろう。それが、私たち王国の戦士の役目だからだ。

 ――――これが、いつかはお前に話さなくてはいけないと思っていたことだ。

 今から私たちは舟に乗り、錨を繋ぎに向かう。

 その時、舟は海面から三メートル程上空へ停める予定だ。高く思えるかもしれないが、今のお前なら舟を飛び降りて海へ帰ることができる高さだ。

 これから私たちはマーマンとの戦いに敗れて死ぬかもしれない。そうしたら、王国にお前の居場所は無いだろう。

 そして、もし――――私たちが勝っても、実際にマーマンとの戦いを目にしたお前とは一緒にいることは難しいだろうと思う」

 レウィは静かにフロウから離れた。

「フロウ、お前は海へ帰れ。そして、王国や私たちをマーマンとして憎むのなら、海でもう少し大きくなってからマーマンの一人として挑んで欲しい」

 ――――――――。

 フロウは、大好きなリナリアの指がまるで硝子細工を扱うかのようにそっと自分を包んでいることに気付いた。

 レウィからリナリアの指に視線を移す。ぴくりと揺れて自分の身体から少し離れた彼女の指が、白くて少し震えているようだと思った。けれど、同時にいつも身体を包んでいるリナリアのぬくもりが、隙間に出来た空気ごとほんのりと自分を包んでいるような気もした。

 少し不安に思いながらも彼女の表情が知りたくて、フロウは天を見上げた。

 そこには見慣れた緑の瞳があって、緑をにじませ溢れ出しそうな涙のカタマリがよく見えた。

 ────リナリア。

 彼女が涙を零さないよう懸命に努力しているのはすぐに解った。

 今度は首を捻ってレネを見た。レネはいつの間にかリナリア斜め後ろに馬を寄せて、伏せた睫の影からリナリアをそっと見守っているのがわかった。

 ――――だから、いじわるだけど、僕はレネにリナリアを守って欲しいと思ったんだ。

 最後に、フロウはもう一度レウィを見た。

 レウィの顔には先ほどの苦しそうな表情は無い。ただ、冷たくて――――ああ、これが昔聞いた『空の上の恐ろしい彼女』なのかな、と仔竜は思った。

 そして、彼は彼なりに考えて彼女に告げた。

「レウィ――――僕、難しくてよくわかんないよ」

 小首をかしげて答えた仔竜の言葉に、レウィはひとつ息を吐いた。

「――――そうか、難しいか……」

「うん、僕――――、一緒に居ちゃだめ? わかるようになってから決めちゃ駄目?」

 今度はさっきよりもっと大きなため息が漏れた。

 フロウは心細そうにレウィの様子を伺う。

 彼女はまぶたをきつく閉じたまま、口を歪めて笑った。

「――――…………もしも、私たちが戻って来なかったら。フロウは海へ飛び込むんだぞ。見守りの戦士たちはマーマンの仔竜を歓迎はしないからな」

「うん!」

 一際大きな風が吹き抜けて彼らの髪や衣服を揺らした。

 今まで何度も吹いていたその風に、その場に居た一同は初めて気付いた。

「…………考えなしのクソトカゲのせいで、つまんねぇことに時間を割いたな。レウィ、ボンヤリしてたら絶好の風を逃しそうだ」

 レネの言葉にレウィは微かに苦く笑って、傍らの草むらをかきわけた。その先には使い込まれた蹄洗場があって、彼らはそれに馬を繋いだ。

 馬上から下りる瞬間、フロウの視界を光る水滴が横切った。

「リナ――――」

 少女の両手が仔竜を包み、そのまま強く胸に抱く。

「リナリア」

 頭を擦りつけるフロウ。

 慣れた優しい温かさがじんわりと互いの身体に染み込んだ。


 岬を離れ、三人と一匹を乗せた小舟は雲海へと漕ぎ出した。

 漕ぎ手となったリナリアとレネはそれを操り、雲海の中へと滑り降りてゆく。

 舟には小さかった。先日乗った船と同じ風を起こすカラクリはあるものの、帆は無い。リナリアたちは羽根で作られた櫂を手にはしているがだいたいは櫂で空を押して進んでいるわけではなく、『雲』が舟を動かす。

 小舟の先端に並び立つリナリアとレネ。リナリアは左に、レネは右に。

 舟の中央には文字盤の代わりに風車が付いた柱時計のような、木製の装置があった。それから紡ぎ出す『雲』を二人は均一の太さの綱のような形に纏めて、舟を挟むレールのように敷いていく。西の街まで乗ってきた舟とはまったく違って、二人の動かす舟は舟というよりまるで皿の上を滑る氷のように滑らかでわずかな揺れも起こらない。

「この辺でいい」

 いつの間にか雲海を抜けていた。

 レウィの声に従って舟は静かに中空に停まった。

 レウィは素早く仲間たちの様子を確認する。

 「大丈夫」とリナリア。

 レネも面倒くさそうにうなずいた。

「――――無理させてすまない。

 フロウ、下を見ろ」

 リナリアに支えてもらいながらフロウはへりに近付いた。

 覗き込む―――――。

「あ…………」

 さっきまで風の音しか聞こえなかったフロウの耳に潮騒の音が飛び込んで来た。続いて鼻腔をくすぐる甘ったるい匂い。

「これ、お菓子の匂いだ!!」

 フロウはリナリアがたまに持ってくる甘い甘いお菓子を思い浮かべて顔を輝かせた。

 本当はリナリアはそれを仔竜に与えたくないのだが、匂いに釣られてやって来たフロウはいつもこっそりと盗み食いしてしまうのだ。

 甘くてふわふわな幸せのお菓子たち。

 フロウの言葉にリナリアは久しぶりに笑った。

「もう、フロウの食いしん坊────でも、確かにバニラの香りに似ているかもね…………」

 もちろん、舟の縁から覗いた海にはお菓子などはなく、緑がかった青の海水が風に水面を揺らされながらどこまでも続いていた。

「三メートルだ」

 レウィが言った。

「これが私たちが海面に近づけるぎりぎりの距離だ。

 ――――王国の人間は海とは相性が悪い。これ以上近づくと幻覚を見る」

 レネの肩が揺れて彼が動揺したのがフロウにもわかった。しかし、レウィはレネを一瞥しただけで話を続ける。

「ここからも見えるあの金の輝きが、三十年前かつて海に打ち込まれた錨の末端だ。私たちはこれからそこへ向かう。留守番を頼んだぞ、フロウ」

「うん、がんばってね!」

 元気なフロウの声に、レネがうんざりとしたような表情を浮かべ、反対にリナリアが小さく笑ってフロウを抱きしめた。

「行ってくるわ、フロウ。いい子にしててね」

「…………はあ」

 わざとらしいレネのため息。

「行くぞ。リナリア、レネ」

 三人ともすでにあの黒い鎧を身に着けていた。

 その黒は相変わらず嫌悪感をフロウに与えたが、彼はそれを飲み込んで友人たちを必死で見送った。

 ここまでレネが背負って来た大きな皮袋をレウィが受け取り、背負う。

 がしゃり、と音がした。

 そして、三人はそれぞれの腰のホルダー下げていたボードを空に立てるように下ろす。

 リナリアは金の甲虫が描かれた青、レンは蒼い炎と黒猫が描かれた灰色、レウィは無地のエメラルドグリーンのボードが風を孕む。静かにボードの下部で翼のように畳まれた仕掛けが開き、それらは元の二倍程の大きさに変わった。

 ボードの生み出す新しい三つの風と共に、レウィの深いアルトの声が響いた。

「――――空を翔る鳥のように我ら種を守るため、命を賭けて!」

 空の青に吸い込まれるように、ボードに乗った三人は静かに舟から離れていった。

 フロウだけを残して。



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