1-8.恋人たち
青年は窓にかかった薄いカーテンをめくって空を見上げていた。空には一匹の鳥がぐるぐると旋回していたが彼は鳥を見ている訳ではないようだった。彼の纏った薄い水色のローブがカーテンの隙間から差し込む陽の光を弾く。
「レウィが心配か?」
急にかけられたくぐもった声に青年は振り返る。フードを下げて露わになったその黒い瞳に冷たい光が差したが、すぐに柔和な微笑みに変わった。
部屋の扉の陰には体中を包帯で覆った一人の男が立っていた。
「勝手に部屋に入らないでもらいたいな。私にもプライバシーというものがあるからね」
相手は短く唸る。少し暗い部屋の入り口に立つ男はその奇妙な姿と相まって不気味に見えた。
「レウィが心配なんだろ? 彼女に会ったアクセルがほだされてるんじゃないかと思ってな」
「────へえ、個人主義の君らがそんなことを言うなんて珍しいね。レウィのこと詳しいの?」
アクセルの返答に彼は鼻先でふんと笑う。
「オマエが近づけさせない癖によく言う。すべて知っている通りさ」
「ふうん、どこも同じで安心したよ」
逆光でアクセルの銀髪に影が差す。先日レウィに会った時よりもだいぶ湿布や包帯も無くなっていて、その整った顔がはっきりとわかる。二十歳になったはずだがアーモンド形の心持ち吊り上がった黒い瞳や薄い唇、見方によっては女のような白い肌、そして小柄な身体とそれらが相まって、一見して彼は年よりずいぶん幼いように思われることもある。しかし、彼の黒い瞳に宿る独特な強い光と柔和だが毅然とした態度によって、この勇者は年上の戦士にも侮られることは無かった。
「…………ゼピュロスの錨は繋がれると思うか?」
男の問いにアクセルはつまらなそうに答えた。
「繋げるさ。レウィは優秀な空の戦士だから」
そして、もう一度、空を見上げる。さっきまで空を舞っていた鳥は居なくなっていた。
「馬鹿どもが邪魔をしなければね────」
――――失望した。
明るくなった自室の中をリナリアはうろうろと落ち着きなく歩いていた。視界の隅で少し怯えた目で自分を見るフロウの姿にも気付いている。でも、どうしても納得できなかった。
「あああっ、もう!」
勢いよく、本日何度目かの拳をクッションに叩き込んだ。
────なんなんだろう、なんなんだろう、なんなんだろう! 何でレネとキスなんか…………。
自分はこんなに流されやすい奴だったのか。そんな自己嫌悪と同時に胸には締め付けるような切ない感情が渦巻いている。
リナリアはもう一度、思いっきりクッションを殴った後、散々当り散らしたそれに顔をうずめた。
「…………何やってんだよ、オマエ」
突然、背後からかけられた声に心臓が止まりそうなくらい驚いて、思わず、変な叫びを上げる。振り返れば、いつの間に入ってきたのか、呆れ顔のレネがこちらを見ていた。
「ほれ、フロウが怯えてるぞ」
「きゃっ」
部屋の片隅を指差そうとレネの手が動いた瞬間、反射的に身体を縮こめるリナリア。そんな彼女を見てレネはきょとんとする。そしてもう一度、先ほどと同じ問いかけをした。
「…………なにやってんの、オマエ」
「────そ、それはこっちの台詞でしょ! レネこそ何を考えてるのよ。一体…………」
しかし、そう言って拳を振り上げた彼女を見て彼はにやりと笑った。
「指」
「えっ?」
彼の視線が示したのはリナリアの振り上げた拳とは逆の、クッションを抱えた方の手のひら。薬指に銀のシンプルな指輪がはまっている。
「────っ!」
「つけたんだ」
「それは…………ってなにそれっ!?」
馬鹿にするように腕を組んだ彼の左手の指に光るシンプルな銀の輪。それはまるで…………。
「何ってこういうものは揃いでするもんだろ?」
「そういうものは、相手の了承を取ってからするもんじゃないの!?」
「了承なら…………」
小さく笑って、もう一度リナリアの指を指す。
「今、取れた」
しがみつくようにクッションを抱えたまま、リナリアはレネに背を向けた。頬が────いや、体中が熱くて仕方ない。
「何、にやにやしてるんだ、レネ」
背後からアルトの優しい声が聞こえ、リナリアは慌てて後ろに振り返る。身支度を整えたレウィの姿が戸口に立ったレネの向こうに見えた。
「今日は風もいいし、午後くらいから出てちょうど────」
「…………」
「…………」
レウィの頬が強張ったのがわかった。
クッションを抱え、顔を真っ赤にして振り向くリナリアと、ばつの悪そうな顔をするレネ。
部屋の片隅に避難していたフロウが、ようやく助けを得たとばかりにたたっと軽い身のこなしで彼女へ駆け寄る。
「レウィ! どうしよう、朝起きたらリナリアがずっとヘンなの!」
「…………なにやってんだ…………」
足元に駆け寄ったフロウを抱き上げることすらせずに、レウィは額を押さえた。
そんな彼女の様子を身ながら本当になにやってるんだろう、と火照った頬でリナリアは思った。
「これから鎖を繋ぎに行くとわかってるだろう…………」
リナリアの部屋のソファに浅く腰を下ろしたレウィは、左手を額に右手でフロウを抱えてため息をついた。
「それがどんなに危険かもわかっていると思う…………」
「そりゃあ────」
レウィの前に思わず背筋を伸ばして
「そんな任務の前に、なにやってんだ? レネ」
「ええっ!? 俺だけ?」
「そう、特に俺。この事態を引き起こしたのはレネの方だろう」
「えっと…………そういうわけでは…………そういうわけかもしれないけど────」
「リナリア…………」
レウィにばっさりと切り捨てられて素っ頓狂な声を上げるレネとおどおどと歯切れが悪いリナリア。フロウはいまいち状況がわかってないなりに心配そうに見守っている。
もじもじとはっきりできない自分を歯がゆく思いながら、リナリアは密かに「今回の西の街とは相性が悪いのかな」などとと思ったが、たぶんそれはレウィも同様だったろう。
また小さくため息をつくとレウィは額を押さえていた手を外し、つ……と流れるような動作でリナリア、そしてドアを指し示した。
「午前中になんとかしてくるように…………」
「えっ、なんとかって────私?」
「………………あー……、はいはい」
納得した様子のレネは頷くと混乱するリナリアを引っ張って部屋を出た。扉を閉める直前にちょっとだけレウィに頭を下げて。
ふたりが去った後、レウィは今までで一番大きなため息をついてついに頭を抱えた。
「────私、今回は死ぬかもしれない…………」
「レウィ……?」
しかし、心配そうに見上げるフロウに気がついて、レウィは慌てて仔竜に微笑みを向けた。
「ああ、ごめんごめん。冗談だよ。大丈夫」
困ったようにおろおろする仔竜の頭をゆっくりと撫でながら、もう一度、今度は心の中でレウィはため息をついた。
今まで、レネとリナリアが互いを憎からず想っていることはレウィも知っていた。しかし、あんなにうろたえているリナリアを見るのは初めてだ。
…………戦士を導き雲を操る双翼たちは何よりも連携が大切だ。あんな状態でいきなりマーマンとの戦闘になったらどんなミスが起こるかわからない。
────しかし、レネは何を考えているんだ? フロウに煽られたから動いたわけじゃあるまいし…………。
無意識にフロウの頭をぐるぐると撫でながらレウィは不思議に思った。
────死ぬかもしれない戦いの前に想いを告げたかった――――、レネはそんなタイプではないように思っていたのだが。
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