1-7.指輪

 灯りを抑えた店内は、まだ早い時間だというのにすでにすでにだいぶ席が埋まっていた。ふたりが選んだのは二階の隅のテーブルで人もまばらで比較的静かな場所ではあったが、そもそも店の造りが吹き抜けであるために混み合う一階の賑やかな喧騒が途切れることは無かった。

 ことり、と入店時に言いつけたふたり分の酒がテーブルに置かれる。

「ずいぶん、暇な人が多いのね」

 持ってきた給仕が去ると、彼女はにこやかに言った。

「みんな、あなたたちみたいに仕事熱心じゃないのよね」

 レネは黙って彼女────ルピナを見る。

「お仕事だなんて、わたし、聞いてないわ。ユリオプスを離れるなら一言言って欲しかったわ」

「…………悪い。急な出発で伝えるチャンスが無かった」

 レネの言葉にルピナは微笑んだまま、軽く首を傾げた。柔らかそうな明るい茶の髪が、ふわりと揺れる。

「…………本当に悪かったと思ってる」

 気まずそうに俯いてレネは目の前のグラスを掴む。

「一緒に居たあの子が大鷲ガージスの?」

 レネの動きが止まる。

 少し間を置いてからルピナはゆっくりと、しかしはっきりとした声で尋ねる。

「一緒にお買い物? ずいぶん、なかよしさんなのね?」

 口元に運んだグラスを一気に飲み干すレネを見て、彼女は目を細めた。

「明日、大きな戦いに行く。そのための新しい装備を取りに行ってただけだ」

「そう? いいわ。でも────忘れないでね」

 ルピナのふたつの白い手がグラスからレネの右手を引き剥がす。彼女の細い指先がゆっくりと彼の筋張った指を撫ぜると、不思議なことにそこに深く紋様が刻まれた指輪が現れた。

「…………────」

 指輪と自分を見つめて微笑む女の顔をぼんやりと眺めながら、レネは呟くように言った。

「風を見て、二、三日中にゼピュロスの錨を繋ぐ。エウロスの錨を繋いだアクセルたちは死にかけた。俺たちも死ぬかもしれない」

「そう────」

 彼女は微笑んだまま、彼の指に這わせていた指で優しくレネの顎先を捉えた。軽く力をかけ、彼の唇に自分のそれを重ねる。

「────おまじないよ」

 薄暗い店内の灯りの中、女は淡く微笑んだ。


 初めての外界に興奮気味のフロウを寝かしつけた後、夜着に着替えたリナリアは寝室に備え付けられた小さなキッチンで湯を沸かしていた。いつものお気に入りのチョコレートは無いが温かい紅茶でも飲まないと眠れない気がしたのだ。

 いつもなら、こんなことはない。任務の前にはきちっと早めに眠り、翌朝、出来るだけ早く起きて風をみるのだ。

 しかし、今日はどうしても眠れない。いつもは落ち着くはずのフロウの寝息さえ耳障りだった。

 ────フロウが付いて来たりするから調子が狂ったみたい。これから大切な役目があるのに…………。

 ほうっとため息をつき、なんだかここ数時間ため息ばかりついていることに気付く。これではいけない、とキッチンの火を止めて沸騰する寸前の小さなケトルを取り上げた。その時。

 ────────…………。

 微かな物音が聞こえた気がして、廊下に通じるドアを振り向いた。

 とん、とん…………。

 遠慮がちなノックの音。貸し切ったこの階には自分たちしか入れないはずだから、きっとレウィか────。

「…………誰?」

 こんなノックなんて彼の柄ではないが、なんとなく予感がして誰何の声をかけてみる。

「…………リナリア」

 ドアの向こうから聞こえたのは、やはりレネの声だった。

 リナリアがそっと扉を開けると、昼間の服装のままのレネが立っていた。

「フロウは?」

「もう寝たわ。それよりも、あんた荷物を私ひとりに────ちょっと!」

 文句のひとつでも! と口を開いたリナリアのノブにかけた手を掴むと、レネは廊下を歩き出した。咄嗟のことで部屋から強引に連れ出された形になるリナリア。慌ててレネに掴まれた手とは逆の手で彼のそれを引き剥がそうとし、その手が妙に温かいことに気付く。

「レネ! あんたってば、酔ってるでしょ!? 信じられない!」

 ――――風向きがよければ明日にでも、王国の命運と自分たちの命をかけた重大な任務があるというのに!

 しかし、振り払おうともがく彼女の手はがっちりと掴まれており、どんなにもがいても自由を得ることは叶わなかった。そのまま廊下の突き当たりまで引きずられて行く。

 これ以上先に進めないところまで辿り着くと、彼はようやく彼女の手を離した。背の高い窓から月の光がよく差し込み、レネの顔を明るく照らした。彼の顔がいつもより白くまるで見知らぬ人間のように見えるのは、月光のせいというより飲みすぎた酒のせいに違いないとリナリアは思った。

「酔ってるわね…………この────」

「リナリア」

 今度こそ思いっきり毒づこうとしたリナリアだったが、またしてもそれは叶わなかった。レネが彼女の目の前に拳を突き出したからだ。それはさっきまで彼女を引いていた反対の掌で、ふとそれをずっと握っていたのかとそんなことが気になった。手のひらはリナリアの目の前でゆっくりと開かれる。月の冷たい光に鈍く光るもの――――それは、装飾のほとんどない細い銀の指輪だった。決して安物ではないだろうが、選び抜かれた一品というよりどこの店でも必ず何個かは扱っていそうなシンプルなものに見えた。

「なにこれ?」

 不思議に思って、リナリアがそれをつまみあげた――――瞬間。

 突然、その両腕を掴まれ、リナリアはレネに強引に口付けられた。酔ったせいで力加減ができなかったのか強く掴まれた二の腕が千切れそうなほど痛い。振りほどく間もあらばこそ。

「リナリア、好きだ」

 かすれた声が零れ落ちる。微かに唇を離したレネがリナリアを見つめる。

 ────酔っているんでしょう。

 喉まで出かかかった言葉を飲み込む。間近で覗き込む切なく歪んだ蒼い瞳がそんな言葉を吐くことを許さなかった。代わり飛び出したのはリナリア自身も思ってもいない言葉だった。

「────昼間の、女の人の名前を教えて」

 両腕を掴んでいた力がさらに強くなった気がした。

「もう、関係無い奴だ」

 ────ほんとうは、あの女性の名前なんて知っている。街で彼が呼んだからだ。それでも聞いたのは、彼の口から教えて欲しかったから。しかし、その機会は永遠に失われたようにリナリアは感じた。

 骨ばった手が腕から頭に移動し、再び強引に口付けられる。今度は深く。アルコールを含んだような彼の口付けのせいで、リナリアは質の悪い二日酔いのような、鈍い頭痛を感じた気がした。

 月光に照らされたリナリアの脳裏にレウィの言葉が浮かんだが、それはすぐに崩れ落ちてわからなくなってしまった。



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