1-12.フロウ

 ────水の中は相変わらず騒がしいな。

 ごぼごぼという音と共にたくさんの細かな泡が身体にまとわりつく。

 海中に身を投げたレウィは水泡のカーテンの向こうで驚愕する男へと手を伸ばした。

「!」

 眉を顰めた男の緑の瞳が怪しく光った。

 ────いけない……!

 反射的に肌が粟立ち、レウィの本能が激しく警鐘を鳴らした。

 だが、男が次の行動に移る前にそれは起きた。

「レウィ!」

 …………なぜ、海の中だというのに、なぜその声はそんなに通るのだろう。

 水中へ落ちた衝撃で力が緩んだのか男の油断か、マーマンの腕から抜け出たフロウが必死でレウィへ向かって泳ぐ。

 それを見た男の顔は驚愕に彩られていた。

 ――――悪い。

 フロウの短い足を右手で引っ掴んで引き寄せるとレウィは胸に押し付けるように抱きしめる。同時に左手の爪を突き出すと、それは銛のように次々と手の甲から射出された。

 ――――彼は、命がけで同胞の仔竜を助けようとしたんだな…………。

 だが、それでも、相手は敵だ。

 苦い思いを抱えながらもレウィは無情に男を撃った。

 水を割くように爪は男の身体に吸い込まれて行く。頬、額、喉…………三本の爪が深く突き刺さったマーマンの瞳は緑の光を失い、リボンのような赤い筋を引きながら海底へと沈んでいった。

 敵が沈んだのを視界の隅でしっかりと確認しながら、レウィは仔竜を抱えたまま水を蹴って海面へ向かう。

 それらは、ほんの短い間の出来事だった。

 水を蹴って海面へ向かうレウィの胸で震えていたフロウははっとする。

「…………レウィ、海に…………」

 王国の人間はゼロ界域に堕ちたら正気を失うのではなかったのか――――。

 未熟な理解力を駆使して辛うじて理解していたレウィの話の一端を思い出して、フロウは顔色を変えた。

「レウィ、ごめんなさい! レウィ…………!」

 激しく手足を動かして腕から逃れようとするフロウを、レウィはそれを上回る力で強く抱きしめ、さらに動けないようしっかりと押さえつけられた。

「────温かい」

 その温もりをフロウは知っていた。

 ────ああ、僕をくれたのはレウィだって、リナリアが――――。

 孵る前のおぼろげな記憶が蘇る。

 静かで孤独な海の中から掬い出してくれた暖かなぬくもり。

 そう、ひとりぼっちな卵を抱えてくれたのは彼女だ。

 大人しくそっと見上げると、ちょうど下を向いたレウィと目が合った。

 太陽の光で明るく輝く海の中。たくさんの泡に囲まれた無音の世界で、水中に解けた金の髪を広げたレウィが柔らかく微笑んだ。

 ぱしゃり、と思ったより小さな音を立てて二人は海面に浮かび上がった。

 頬から髪から流れ落ちる海水を気にせず、レウィは荒い息遣いで必死に空気を肺に取り込んだ。耳元でがなりたてる水の圧迫感が消えて、代わりに心地よい風が頬を撫でる。

 何度目かの呼吸の後、ようやく悲鳴のように自分を呼ぶ仲間の声が聞こえた。

「…………大丈夫だ! ひきあげてくれ」

 足で水を掻きながら、胸に抱えた仔竜を両手で掲げて見せる────その時、レウィはフロウの変化に気付いた。

「フロウ、お前」

「レウィ…………」

 弱々しく彼女の名を呼ぶ仔竜は体をガタガタと震わせていた。

 レネとリナリアが綱のように編んだ雲糸をレウィが片手で巻き取ると、それはするすると巻き上げられてすぐに舟まで昇ることが出来た。舟の縁に片手をかけたレウィはふたりに引き上げてもらうと、フロウを抱えたままぐっしょりと濡れた身体を甲板に投げ出した。海水で濡れた衣服が無様な音を立てた。

「レウィ、フロウ…………!」

「大丈夫か!?」

 動揺している仲間たちへ、レウィは疲労と海水で重い腕を退けてフロウを見せる。

 リナリアとレネが息を飲む音が聞こえた。


 海水がひりひりと肌を焼くようで、体中がばらばらに裂かれそうで。

 僕は顔を目をぎゅっと瞑った。

 ────いやだ、いやだ、いやだ、いやだ! 痛くて、痛くて、たまらない!

「フロウ、フロウ!?」

 悲鳴のようなリナリアの声。

 だいじょうぶだって言いたいけど、言葉は口から出てこない。

「大丈夫か、フロウ! お前、海水を飲んだのか?」

 珍しく僕を案じてくれているレネの問いかけに僕はなんとか答える。

「…………う、ん。しょっぱい…………ねえ、体がイタイ…………痛い痛い痛い!」

 ぶるぶると震える僕の体に触れる細くて冷たい指先。それが触れた一瞬だけ、そこの痛みが和らぐような気がしたから、僕はその指を掴もうと懸命に手足をばたつかせた。

「フロウ!! ────ねえ、レウィ、フロウ、フロウ、死なないよね!?」

 リナリアが悲鳴のような声を上げている。

 がんばって薄く目を開けた僕の瞳にレウィの厳しい表情が映った。彼女は僕の体を調べているようだった。

 彼女は視線を僕から外さないまま答えた。

「落ち着いて。死にはしない。でも、これは少し――――――」


 フロウの青い鱗に覆われた体のあちこちに、薄く茶色の裂け目が出来ていた。激しい痛みによって叫ぶことすらできなく、ぐったりとしたフロウは静かに涙を流し続けた。

「ごめんね…………ごめんね…………」

 全く効かない手持ちの薬を気休めに貼りながら、リナリアは何度も呟いて仔竜をずっと抱きしめていた。

 リナリアが悪いことなんて何もないのに────。

 痛みで混濁した意識の合間でフロウは思ったが、痛みとそれに抗い続ける疲労で慰めの言葉を紡ぐことすらできなかった。

 そんなリナリアの代わりにレウィがレネと組んで漕ぎ手となり櫂を握る。帰路はすでに出来上がった雲糸の軌跡レールを辿ったので漕ぎ手の負担はだいぶ減ったが、それでも、リナリアがレネと組んだ行きよりは、幾分か舟は揺れた。

 それでも、一行は問題なく出発地点の岬まで戻ることができた。

 岬に着くと、三人はそのまま下船せずに舟の中でフロウの様子を見守った。

「何も…………できないの?」

「しっかり傍に居てあげてくれ」

 涙で真っ赤に腫れた目で尋ねるリナリア。尋ねられたレウィは、沈痛な面持ちで励ますように彼女の肩に手を置く。

「…………何か毛布を持ってくる。レウィも一度着替えて来いよ」

 レネは舟を飛び降りると、繋いだ馬の傍に残した荷物を取りに向かった。

 そうして、日もすっかり沈んだ頃、フロウは荒い息を吐きながらようやく眠りについた。

「痛みが和らいで来たようだな…………」

 レウィは片膝をついて仔竜の体に耳を寄せると、整いつつある心音と寝息を確かめる。

 レウィの言葉にリナリアもほっと胸を撫で下ろした。

「でも、どうすんだよ、コレ…………」

 腕を組んだレネがリナリアの腕に抱えられたフロウを顎で指す。

 …………そこには、リナリアよりも大きな青い鱗の竜がすやすやと眠っていた。

 くりくりと愛らしかった緑の瞳は、眠る前には握った拳ほどの大きなものになっていたし、犬歯が並んだ仔犬のような小さな口は、今はリナリアを頭からかじることもできそうだった。フロウを抱きしめていたはずのリナリアは、すでに眠る巨体をにしがみついているような状態。さすがに昼間に戦った青緑色の竜マーマンほどではなかったが、すでに赤ちゃんだとか仔竜だとは言えない体格に成長していた。

「丸太みてえな首だな――――」

「ま、丸太とか失礼なこと」

「じゃあ、イルカみてーな首」

「首がイルカって…………」

 やっと寝付いたフロウを起こさないように声をひそめて一々反論するリナリアへ、レネは冷めたい眼差しを向けた。

「そもそもどうでもいいだろ、そんなこと今は。どうすんだよ、このデカブツ」

「…………ど、どうしようね」

 リナリアとフロウが暮していた別邸では、出入りする使用人たちは皆家族のような信頼置ける人々でフロウのことも一緒に秘密として守っていてくれた。広い敷地だから、もしかしたら連れて帰る事さえできればなんとかなるかもしれない。

「どうやってユリオプスの別邸まで連れて行くつもりなんだよ」

「そっ、それは」

 リナリアの甘い考えを見透かしたレネが釘を刺す。

 確かに、こんな巨体になってしまったフロウを連れて帰ることはできない。なんとか屋敷内に連れ込むことができたとしても、やはり、近いうちに他人の目についてしまうだろう。

「でも――――」

 今回の旅に出てからリナリアははっきりしない自分に失望していた。普段はむしろ周囲を叱りつけてでも先導して動くのがいつもの『リナリアじぶん』だ。だが、この旅で彼女はこれまでの人生すべてを足しても足りないほど何度も途方に暮れて迷っていた。

 しかも、これはその中でも最悪の事態だ。

 …………本当はリナリアもわかっているのだ。

 こうなってしまっては、もうフロウを海へ還すしかない。

 しかし、フロウは空の王国で孵ってからずっと空で暮らし、海の世界を知らない。いきなり海へ還しても無事に生きていくことができるとは思えない。

 そして────何より、リナリアはフロウとの別れを思うだけで心がバラバラに張り裂けそうなのだ。

「どう…………しようね…………」

「そんなの決まっ――――」

「リナリア」

 珍しく、レネの言葉をレウィが遮った。

 ずっと黙って思案していた彼女はリナリアへ手を差し伸べた。

「成功するかどうかわからないが、少し思いついたことがある。悪いが、ちょっとフロウを貸してもらえないか?」

 リナリアの表情が不安で翳ったのを見て、レウィは苦笑する。

「別にマーマンを調べるためにバラしたりはしないよ。もしかしたら、彼がここで暮らすためになんとかなるかもしれない。確証はないが――――失敗した時はどこか人里離れたところに棲家を用意するさ」

「ここ、って」

 反射的に今まで漕いできた岬の先を見るリナリア。

「違う。海ではなくこの空の王国のことだ」

 そして、ばつの悪そうに続けた。

「ただ、これはちょっとふたりには立ち会ってもらいたくない。悪いが、ふたりは何も聞かずに先に街に戻ってもらえないか。私はこのまま舟で出発する」

 その提案にレネは思いっきり不満を顕わにしたが、リナリアが不安そうながらも希望にすがるようにレウィを見つめているのに気付いて不承不承頷く。

「レウィ、そういえば俺はあんたに聞きたいことがあるんだけどね」

 わざとらしいほど大きなため息をついてみせるレネ。

「フロウと戻るまで街で待つことにするわ」

 リナリアが眠ったフロウをもう一度優しく抱きしめた。

「レウィ、フロウをお願いね…………」

 それから、レネと二人がかりで眠ったフロウの太い首を押さえ、それを支えていたリナリアの身体を開放するとレウィは微笑んだ。

「レネ、リア。私の我儘を聞いてくれて、ありがとう」

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