1-13.秘密と選択

 船べりにちょこんと乗って、はらはらしながら遠い景色を僕は眺めていた。視線の先ではたんぽぽの花ほどの大きさになったリナリアたちが空を飛びながら右往左往している。

 さっきまでそこで暴れていた大きな竜の姿はもう無い。

 ――――もう、リナリアたちはだいじょうぶなの!?

 どんがんと派手な音を立てて行っていた温室での鍛錬とは違い、距離があろうとも実戦は眺めていて心臓が苦しくなった。

 けれども、彼女たちが僕の仲間であるマーマンと戦っているというのに、不思議なことにレウィが危惧したような怒りや絶望は感じなかった。

 これは、距離が現実感をなくしているのだろうか。

 ただ僕は『彼女たちの敵であるマーマン』が早く居なくなることを、それだけを心から祈っていた。だから、レウィらしき人影がマーマンの巨体と一緒に滑り落ちた時など心臓が止まるかと思ったのだ。

「…………レウィ!」

 そして、レウィがボードに乗ってふわりと浮かび上がるとようやくほっと息をついた。

「もう、だいじょう――――」

 べちゃり…………。

 その時、水音がして舟が微かに揺れた。驚いて飛び上がった僕に誰かが声をかけた。


「だれだ?」


 言葉! と僕は嬉しくなった。レウィの仲間だ。頭の中では王都から西の街への船を漕いだふたりの見習い戦士たちの姿が過ぎる。リナリアやレウィやレネに笑顔を向けるあの人たち――――船上では僕は隠れていて直接会っていないし、彼らはレウィが見つかってはいけないと言った王国の人間であるにも関わらず、僕は彼らなら安心だと思ってしまったのだ。…………だが、あとで思えば幸いと言うべきか、振り返った先に居たのは思い浮かべた王国の戦士たちではなかった。

「なんで…………ここに居る…………?」

 信じられない、という顔をして、よろよろとそこに立っているのは、僕と同じ緑の目をした始めて見る男。青黒い肌をしていてぎらぎらと光りを弾く抜き身の剣を握っていた。

「囚われたのか…………?」

 一歩二歩…………フラフラと歩いてくるその姿に僕は怯えて後ずさるが、その長い腕は僕を捕らえようと真っ直ぐに伸びる────。

 何度か聞いたことのある、金属を叩くような大きな音がした。






 ────甘い甘い香り。ココナッツのような……そうだ、これはレウィの匂いに似ている。


 そっと、目を開くとそこは薄暗く群青色に染め上げられた部屋だった。静謐な空気の中に甘い香りが漂う。

「リナリア…………?」

 不安を感じて、僕を抱いていたはずの人の名を呼ぶ。しかし、僕の身体はすっかり冷えてあの優しいぬくもりはない。

「起きたか」

 ぎゅっと革の鳴る音がして、群青の中で色あせた金髪が揺れた。

「レウィ…………、ここは? リナリアは?」

 僕は黒と白のグラデーションに染め上げられたラグの上に横たわっていた。レウィは僕の真横の革張りのソファーに横たわっていたようで、今は半身を起こして少し眠そうな目で僕を見ている。

「ここは私の家だよ。リナリアは先に西の街に戻っている。

 ずいぶんよく寝ていたようだけど、痛みはもうひいたか?」

 そういえば、もうあの地獄のような苦しい痛みは無い。そして、少し目覚め始めた頭でもう一度部屋を見渡して、この部屋を群青に染めているのは夜明けの光だと言うことに気付く。

「僕はずいぶんながく眠っていたのかな。レウィの家ってことはここは王宮…………?」

 僕の問いにレウィは少しだけ目を見張った。

「へえ、よく知ってたね。確かに普段私が使っている部屋は王宮の風切羽の館だけど、ここは違うよ。そうだな、隠れ家、みたいなもの」

「レウィの王宮のお家のことは、以前、リナリアがレウィを待っていた時に話してくれたの。それとは違うんだね」

「そう。ここは隠れ家だから、このことはリナリアにもレンにも内緒にして欲しいな」

 レウィは自分の前髪を払う。その一瞬、迷いが過ぎったように思えた。

「リナリアやレネにも?」

「そう。リナリアやレネにも。必要になったら私が自分で伝えるから」

「────? わかった」

「いいこだね」

 柔らかく微笑む顔はいつものレウィだ。続けて、いつものように優しく「何か飲む?」と僕に尋ねて、僕が頷くと席を立った。彼女の姿が部屋の奥の紗幕の向こうに消えると、好奇心に負けた僕は部屋をきょろきょろと見回した。

 窓から忍び込んだ夜明けの群青色の空気も落ち着いて、本来の色を取り戻した彼女の隠れ家は至って普通の部屋だった。さっきまで黒と白だと思ったラグは濃い青と薄い黄色のグラデーションで、彼女が座っていたソファーは青みがかったグレー。壁は白ときらきらした砂の混じった砂壁だった。テーブルは無く、代わりに木製の小さな書き物机があり、その上で深い赤色の硝子で覆われた細いランプが焔を抱えている。

 ――――あんなに細いランプ、初めて見た。

 それをよく見たいと思って、いつものようにテーブルへ駆け上ろうとしたが、自分の身体が異様に重いことにその時初めて気付いた。

「あれ?」

 何気なく自分の身体を見回し、深く暗いため息を吐いた。

 ――――これ、僕の身体なんだ……。

 それは巨大なトカゲのような、あの遠目で見たマーマンに良く似た僕の姿。緑の尾ひれは以前のような柔らかさは消えてギザギザと尖り、手足には若木くらいなら簡単に裂いてしまいそうな太い鉤爪が伸びている。呼吸のたびに喉の奥がごろごろと不穏な音を立てているのにようやく気づいた。

「…………」

 大きくなるのは仕方ない。

 どこかで自分の身体に成長が訪れることは気付いていた。でも、それがあまりにも突然に訪れていて理解も納得も出来なかった。

 ────こんな身体じゃ、もうリナリアに飛びつくことも抱きかかえてもらうこともできないや。

 それがどうしようもなく切なくて、胸が痛んだ。

「僕…………殺されるのかな?」

 僕は紗幕の向こうのレウィに尋ねた。薄いそれが揺れて、じっと僕の様子を見守っていたらしい彼女は少し困った顔をした。そして、静かに水をたたえた大きな深皿を僕の前に置いて、僕の鼻筋を優しく撫でた。

「私が殺されることはあっても、私がお前を殺したりなんてしないよ」

「でも、僕…………もうここへは居られないんでしょう? 僕には、皆と別れて海へ行くなんて無理だよ」

 「それは」とレウィが言いよどむ。そして、またしばらく言葉を探してから、もう一度僕に尋ねた。

「フロウ、さっきから話していて思ったんだが、今のお前は以前より物事の判断がつくようになったと思う。ほんの少し前の出来事だというのに」

 指摘されて僕は気付いた。そういえば、いつもより会話がスムーズだし、以前より相手の言っていることが深く理解できているような気がした。僕の顔つきを見てそれを察したらしいレウィは、神妙な顔をして口を開いた。

「やはりそうなのか。たぶん、それはその身体の成長の副産物だと思う。

 今のお前にもう一度尋ねるよ。

 同属のマーマンを殺す私たちの下で身の危険に晒されながら再び王国に住むか? それとも、故郷たる海へ還るか?」

 僕は自分の身体が大きくなったのを忘れて、いつものようにレウィに飛びついた。身体を揺らしながらも、そんな僕をレウィは困ったように抱きとめた。

「レウィのいじわる、いじわる! 僕は独りぼっちで海に行くなんて嫌だよ! みんなと居たいに決まってるのに!!」

 思わずこぼれた涙がこぶし大の水玉になって床に墜落した。それに気付いて僕は慌てて目をぎゅっと瞑った。真っ暗になった僕の視界の向こう側で、レウィが長い長いため息をついた。

「────ごめん。そうだよね。わかってた…………」

 再び鼻筋を撫でる優しい手の感触。ゆっくり目を開くと、少し泣きそうな顔でレウィが笑っていたので、僕はぎょっとした。まるで泣き虫になった時のリナリアみたいな、そんなレウィを見るのは初めてだったから。

「フロウ、確証は無いがひとつだけ試せる方法がある。だが、それが失敗した場合、お前は王国に残れてもこの家から出ることはできなくなる。恐らく一生な。もちろん、可能な限りリナリアたちは私がここへ連れてこよう。

 それに――――もし、この方法を試みなくても、その姿でいる限りお前がここから出られないのは変わらないんだ…………」

 僕はきょとんとして彼女を見た。

「ねえ、レウィ。それって、ひとつの方法じゃなくて『それしかない』って言うんだよ!」

 僕の言葉に、レウィは一瞬黙った後で大笑いをした。

 失礼だな。

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