1-2.大鷲の娘
それは三年前の話────。
王都ユリオプスは、その中心に非常に広大な城を持つ。その広さはすでに街とすら呼べるもので、その中で王城に仕えるものたちが生活していた。
その城の一角に『風切羽』と呼ばれる区域があった。風切羽は『温室』と呼ばれるドーム型の闘技場を内包する巨大な『館』のほか、野外訓練所や寮などがある王国の戦士たちのための区画だ。温室を個人所有するリナリアはともかく、多くの戦士たちはこの風切羽で寮に住まい共に切磋琢磨し合う生活を送る。
その日、リナリアは一人で風切羽の中心である『風切羽の館』を訪れていた。
館はいつもの静謐な空気に満ちている。居住まいを正したくなるこの雰囲気が彼女は好きだ。皺ひとつ無い爽やかなライトグレーの制服を身に着けて背筋を伸ばしてこの回廊を歩くのは、彼女にとっては夢叶って王宮の戦士として働ける喜びに満ちたひとときだ。
────この理不尽な悩みさえなければ、戦士としての生活はもっと満ち足りたものになるのに。
空気に浸りながらそんなことをふと思う。
「来たか、リナリア」
突然、低く太い声に名前を呼ばれてリナリアの心臓は跳ね上がった。
回廊の突き当たりにあるホールはもう目前だったが、入り口のアーチ越しにこちらを見ている体格の良い男性の姿が見えた。それから、その隣に見慣れない細身の男の姿も。
「お呼びですか、バルド様」
焦る気持ちを抑えて温室の中へ入ると、リナリアは尋ねた。緊張のために口の中が少し乾いた感じがした。
逞しい体格の壮年の男性が鷹揚に頷く。若々しく見えるが、確か五十手前だと聞いたことがある。新兵の若さなどは余裕で跳ね返すような強さに漲るその存在は、威圧と同時に安心感を与える。
王国の戦士を束ねる将、バルド。
彼の茶に近い沈んだ赤の生地に同系色の大鷲の刺繍を縫い込んだ制服は、彼が戦士や空の勇者たちを束ねる立場にあることを表す。その制服を隙なく着込んだバルドは、多くの戦士から尊敬を集める王国最高位の将だ。そして、本来なら元帥の地位にあるはずの人。
まだまともな実戦をほとんど経験していないリナリアは彼とは数えるほどしか会話を交わしたことがないが、彼女もまた当然のようにこの上官を尊敬している。
「こちらへ」
バルドはリナリアを隣の男の前に来るよう指図した。
「彼は鴉のデーゲンの息子、レネだ。二年前から『翼』としての訓練を始めたばかりだが、優秀な戦士だ」
役職に就く貴族たちはそれぞれの役職を表す鳥の名を冠する。
例えば、元帥が『大鷲』を名乗るように。
────鴉のデーゲンは大臣の一人か。鴉は確か商人たちの監督と政にも深く関わる重要な立場の役職のはずだ。その息子が戦士とは珍しい。
「鴉のデーゲンの三男、レネ。訓練は十九から始めて、今年二十一歳になります。よろしくお願いします」
少しかすれた低い声と彼の微笑が記憶の中で引っかかった。しかも、それはあまり気持ちのよい記憶ではないような…………。
「初めまして。翼をしています」
「…………」
しかし、今は上官の前だ。戸惑いを隠してリナリアは彼に合わせて会釈をする。
「…………ガージスの家人、リナリアです。訓練は六つから、今年で十六になります。よろしくお願いします――――」
相手の眉がわずかにひそめられたのに気付き、彼女は心の中でため息をついた。
――――――面倒くさいな。
危惧した通り、レネと名乗った青年はその名を復誦した。
「――――大鷲の、ガージス……?」
青年の反応は彼女にとっていい加減慣れたもののはずだった。リナリアは能面のように表情を押し殺してからいつもの台詞を返した。
「ガージスはすでに役から降りておりますし、故人ですので鳥の名は不要です」
いつもならこの会話はここで終わる。
しかし、この青年は少し何かを思案するような様子を見せた。そして、ちらりと隣の上官の顔を盗み見た後、先程までとは打って変わった下卑た笑いを浮かべる。
「…………確か、ガージス様が亡くなられたのは二十年前のはず。ガージス様の娘にしてはリナリアさんはお若いですね」
リナリアの顔色が白くなった。比例して腹の底を焦がすような怒りの炎がのたうつ。
――――――この無神経坊ちゃんが…………。
こんな風に堂々と、面と向かって問いかけてくるような無神経な人間と会ったのは始めてだった。
戒めるように青年の名前を呼ぶ上官の声が遠くに聞こえる。
「………………ガージスが亡くなってまだ十九年です…………確かに、私はガージスとは血の繋がりはありません。本来なら当主として他の親族か夫人の名を名乗るべきなのでしょうが、生憎、そのような方も居りません。夫人も病弱なため、私自身が次期当主――――――」
リナリアは彼女のプライドを総動員して表情が崩れるのを抑えた。そして、瞳にだけは強く力を込めて青年を見つめる。
「私自身が『翼』として独り立ちするまで、ガージスの名を借りているだけです」
力を込めて言い切った後、リナリアは、ああ、空気読めないこのクソバカ無神経野郎をぶん殴りたいな、などと思った。
一瞬の後、ふっと、嗤い声が漏れた。イヤな笑いだ。目の前には先程までのかしこまった青年はもう居ない。
「独り立ちね…………、あんた、優秀過ぎてパートナーが見つからないんだって? いくら優秀でも片翼では空も飛べねぇ――――」
鼻で笑うレネの姿に、リナリアの我慢も限界を迎えた。これまでぎりぎりと悲鳴を上げていた彼女の堪忍袋の緒がぷつんと切れる音がした。
「…………ふ……っざけんなっ、そのクチ閉じろ!」
言うが否や、すでに体が動いていた。小気味よい音を立てて彼女の平手が────青年がかざした手のひらに打ち付けられた。
小気味のいい音が響いた。
眉を顰めるリナリアに対して、レネはニヤリと笑った。それは、さっきと変わらない嫌な笑顔だったが…………。
「やっぱり」
「…………なにが?」
彼は小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「あんた、あちこちでケンカ売ってるの?」
「は? んなワケ無いでしょうが――――」
まぁ、いいやと吐き捨てて、レネは脇に抱えて居た
「俺が」
蒼いふたつの瞳がリナリアをまっすぐに見た。
「俺が、あんたの片翼になってやるって言ってるのさ」
リナリアは頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
たぶん、悪い意味で。
――――――なんだ、それ。
「は? パートナー組む相手にその態度? 頭沸いてるんじゃないの? 見くびらないで欲しいわ、たった二年のぺーぺーに何が────」
しかし、レネはリナリアの罵りなどどこ吹く風とばかりに涼しい顔で言った。
「俺とここで走り比べてみようぜ。ぺーぺーには負けねえよな、優等生」
「────ざけんな、その減らず口を叩き潰す」
レネは、小脇に抱えて居た自分のボードを目の前に持って来た。上から下へ宙に立てるように下ろすと板の下部に翼のように畳まれた仕掛けが開き、同時に風が流れた。
リナリアも腰に下げたホルダーから自分のボードを取り出し、翼を開く。
「…………いい趣味してるわね」
「――――いい趣味してるな」
互いのボードに描かれた模様を見て思わず声が重なる。
レネは蒼い炎と黒猫、リナリアは金の甲虫が描かれていた。揃いの仏頂面を見る限り、どちらも自分のことを棚に上げて同じような感想を抱いたのだろう。
いい趣味している。もちろん、悪い意味で。
「…………というワケなんで、ちょっと走ります」
「――――――いいだろう」
レネがバルドへ声をかけた。その場に同席していた上官の存在を思い出したリナリアは顔を赤らめる。
────すっかり、頭に血が上って…………。
でも、もう遅い。
色々と諦めつつも、彼女は最後の足掻きでちょこんと小さく頭を下げた。
背を向ける直前にちらりと見ると、バルドはいつもの厳めしい顔で立っていた。
「…………すみません、行ってきます……」
蚊の鳴くような声で挨拶をして、リナリアはボードに飛び乗った。
「行くぞ……!」
レネの掛け声でレースは始まった。
ボードの翼から巻き起こる風がそれぞれのボードの上に立つ二人を運ぶ。足運び、体勢、身体全体を使ってふたりは宙を飛ぶのだ。二人が飛んだ後には軌跡の代わりに、それぞれ異なる高い笛のような音がした。
――――――確かに……速い!
リナリアは『翼』としてボードのスピードも『雲』の操り方も現役の戦士たちの誰よりも秀でている自信があった。
彼女は幼い頃から大鷲のガージスの娘として、誰にも負けない『翼』を目指して人一倍訓練を重ねて来ていた。その結果、彼女は念願叶って戦士となることができた。
しかし、実際に誰にも負けない『翼』となった時、リナリアにはパートナーが居なかった。
王宮のどんな古参の『翼』であろうと────たとえ、彼女の意図を汲み彼女の導いた『雲』の軌道を知ることが出来ても、彼女に追いつくためのスピードが足りず、彼女の繰り出す『雲』を受けて織り上げることが出来なかったのだ。それは『翼』としては致命的な問題だった。だからといって、まだ 若いリナリアが戦場でパートナーの動きを読み、相手に合せて手加減して飛ぶのも難しかった。懸命にただ独り誰にも負けない技を磨き続けた結果、その力を抑える術を学んでこなかったのだ。
だから、彼女はどんなに優秀でも戦場に出ることはできなかった。
レネがさっき 言ったように、パートナーの居ない片翼の翼など何の役にも立たない。
リナリアにはそれが自分でもよくわかっていた。
けれども、この現状が誰にも負けない『翼』を目指してきた、彼女の人生を賭した努力の結果であっただけに、否定することも諦めることもできなくて彼女は苦しんだ。
誰にも負けない翼は、そうして────また他にも様々なことを経験して、今も片翼のままだった。
しかし、そのリナリアが、今、初めてあと一歩の所で追い付くことが出来ない。
それも、始めて二年程の、彼女にしてみれば『初心者』の青年に。
レネの乗った黒猫のボードは『温室』ホールの白い内壁に沿ってぐるりと回った後、そのまま扉へ向かう。そして、躊躇なく大きく開いたままの入り口から外へ飛び出た。
一メートルほど離されながら、それを追うリナリアの金の甲虫。
ふたつの板はホールを囲む回廊の屋根をなぞり、壁と板の間にわずかな隙間を空けて、『温室』の外壁を這い上る!
────これで初心者だって言うの?
先を走るレネは何度か振り返り、縮まらない距離を確認するとニヤリと笑った。その小馬鹿にした様子を不快に思いつつも、なぜかリナリアの胸は熱く高鳴った。
────これなら、使える!
リナリアは無意識に腰に巻いたポーチに手をやった。風車の付いた木製の箱型ポーチだ。その側面から手を滑らせ、中を探る。そして、箱の中で織られた『雲』の円盤を掴み、その軌跡を宣言した。
「レネ! 西風の傾き! 四七八!」
精製した『雲』を右腕に付けた発射板から勢い良く撃ち出す!
『雲』は宣言通りの美しい軌跡を描いて、一寸の狂いなくレネに向かって飛んで行く。
────しかし。
リナリアの指先を伝って飛び出した白い塊を見たレネの顔色が変わった。
「えっ────あれ?」
リナリアが注意を促す間も無かった。今までツバメのような滑らかな軌道を描いていたレネのボードは、回しそこねた独楽のような無様な軌跡を描き、 簡単に受け止められるはずの『雲』の円盤は小気味よい音を立てて青年の額に直撃して霧散した。
当然、青年の身体はフラフラとよろめき、ボードから離れて落下する。
「ちょっ…………マズい!!」
金の甲虫は今まで以上に風の唸りを大きく上げて、落下するレネに向かって滑空する。
「レネ!」
元々、離されていたのは一メートルばかりの距離だ。リナリアの指先は、地面に叩きつけられる前に彼の身体の端に触れる。そこから、自分のボードを蹴って身を投げ出して彼の身体を抱き留めた。
ふたりの身体はそのまま空を横に滑って花壇の茂みへ墜落した。
細い木々の折れ、満開だった茂みの花びらたちが、ぶわりと宙に舞う。
「だい……じょうぶ────?」
激突を防いだ安心感から、一瞬安心しかけたリナリアだったが、すぐに慌てて腕の中の青年の様子を確認する。
ぺたぺたと触られて、額に赤い痣を付け呆然としていたレネも我に返った。
「────ばっ……!」
リナリア顎先に、勢い良く立ち上がったレネの頭が掠る。
「ちょっと! 危ない────」
「ばっかじゃねぇの!!? 初心者にいきなりパスなんてよこすなよ!」
「はっ? あれがパス? あんなのパスに────」
沈黙が落ちた。
顔を真っ赤に染めたレネと唖然とするリナリアの視線が絡んだ。彼の様子にリナリアは、まさか、と小さく呟いて唾を飲み込む。
「まさか────あんた、パスできないの?」
「…………できなくは、ない」
「…………」
「ちゃんと、事前に場所を指定して────」
「いや、そんな悠長な戦場なんてないでしょ」
「…………」
「…………」
「────あー……、普通、最初はパスから学ぶよね?」
頭をかきむしって────彼女がこんな仕草をするのは珍しいことだが────イライラしたように叫ぶと、レネが拗ねたように答えた。
「…………軌道覚えたり、面倒くせーじゃん」
「…………は?」
それは、努力家の彼女にとっては信じられない一言であり。
「────翼術、舐めんなー!!」
反射的に、『翼』の戦士専用の薄い鉄板の入った靴での蹴りが唸った。
ホールの窓辺でぽつりと待っていたバルドの元に、細身の青年を引きずったリナリアが現れた。
「ずいぶん、遅かったな」
「────少し、今後の話し合いをしていました」
そう笑う彼女にはもう鬱々とした陰は無かった。むしろ、さらに輝く笑顔を浮かべ、こう言った。
「彼とパートナーになることになりました。彼の身柄を預かりますね」
彼女のその言葉に、バルドもこの日初めての笑顔を浮かべた。
「ああ、楽しみだ」
この時、すぐに戦場を駆ける二人の姿を見ることができるだろう、そう確信したと、後にこの上官は二人に語った。
…………リナリアが出生や珍しい瞳について面白半分にあれやこれやと囁かれたのは大分昔のことだ。今の彼女は年若い少女であることや戦場に出ていないことも、この風切羽でからか いの対象になることはない。夢のため努力を重ねた結果、秀でた能力を得たものの、そのためにパートナーが見つからなかった彼女はすぐさま夢のために行動した。
リナリアはまだ十六歳ながら、更に努力と実績を積んで同期含めた戦士たちを指導する立場に就いたのである。もちろん、その最終目的は己で己のパートナーを見つけ鍛え上げるためである。当然ながら、努力の鬼である彼女からの指導はとても厳しい。
そして、今現在、彼女の指導を受けた戦士たちは次々と能力を伸ばし、無事にそれぞれリナリア以外のパートナーを見つけ一人前になった。
彼女は脱落を許さない「鬼の指南番」の二つ名とともに恐れ慕われて、一目置かれる存在になっていた。
リナリアに引きずられたレネはどうなったのか。
当然、彼女の特に気合いの入った指導を受けて、数ヶ月後には二人で当代最強のペアをとして『空』の称号を持つ勇者レウィの翼となった。
そして、レネはスピードスターとしてだけではなく────かの鬼の特訓を耐え抜き、かつ、未だ彼女へ変わらぬ態度を貫き続ける者として、三年後の今でも同僚や訓練生から一目置かれていることをリナリアだけが知らない。
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