第一章 1.出発前夜

「…………だから、僕の名前って、いっそのこと『フロウ』でいいんじゃないかなぁ?」

 のんびりとした就寝前のひととき。リナリアの部屋で、フロラは彼女と他愛も無い話をしていた。

「んー? どうして?」

「だって、僕、チャーリーに、フロラって呼ばれたんだよ!」

 思い出して憤慨する僕。チャーリーは犬のリュートくんのご主人様だ。

 机に向かって勉強をしていたらしいリナリアはペンを置いて顔を上げると、僕に向かって微笑んだ。

「『フロラちゃん』じゃイヤ?」

「イヤだよ! なんだか女の子みたいで」

 即答する僕。

 リナリアは困ったように眉尻を下げる。肩より上に切り揃えられた濃い茶色の髪がさらりと揺れて、僕はそれがキレイだなぁと目で追った。

 そんな僕をリナリアの両手がすくいあげた。

「────フロウは、男の子なの?」

 両手を少し上げて僕と目線を合わせたリナリアは尋ねた。

「えっ!?」

 ――――――そこから!?

 あまりのことに、僕はピンと尻尾を立てて猛然と抗議しようとした。

 …………けど、あれ?

「…………え、えーと…………よくわからない……かも」

 改めて問われると途端に自信が無くなった。

 僕自身は、なのだから、ずっとなんとなく男の子だって思っているけど、本当にそうなのかは僕の周りにマーマンが居ないからわからないのだ。

 空の王国にたった一匹だけ存在する青い鱗のマーマンの仔。

 それが僕だ。

 空の王国と海の国のマーマンたちは敵同士なのだから、本来、マーマンは一匹たりとも空の王国ここに居るべき種族ではない。

 この戦いが国家間の戦争ならまだ良かった。

 だけど、マーマンたちの国を『海の国』と呼びながら、この国の人たちはこの戦いをモンスターによる襲撃であり災厄のようなものだと考えている。彼らの考えに則れば僕は単なる害獣モンスターだ。

 ────なら、なぜ僕がここに居るのか。

 それは、僕の卵が群れとはぐれて流されていたのを『リナリアたち』が見つけ、こっそり持ち帰ったからだ。僕は皆が大好きだからそのことを責めるつもりは無いけれど、ここで孵った僕の存在は世間からは隠されていた。

 僕は、生まれてからリナリアが安全だと判断した土地から出たことが無い。

 空の王国の貴族たちは功績によって、王から鳥の名を戴く慣わしがあって、リナリアの家は『大鷲オオワシ』の名を与えられた大貴族マグナートだ。

 大鷲は貴族の中でも特別に王都に住まうことを許された特別な名の一つで、家の領地の他に王城をぐるりと囲んだ広い土地の一部を王から貸し与えられている。

 リナリアはその土地の中の更に一部、別宅とその周囲の森を治めていて、僕は生まれてからずっと別宅の中で暮らし、稀に広い敷地の中にある温室や使用人たちの家に遊びに行く。例えば、別宅から少し歩いた所にある『お隣さん』や『お向かいさん』はリナリア専属の庭師さんリュートくんの家と執事さんハチベエくんのお家だから僕の冒険できる範囲だ。

 それを体の小さな僕は今まで不満に思ったことは無い。空が飛べるわけでもない僕は短い手足で行ける範囲を楽しみ、そこを超えないことをよくよく肝に銘じていた。

「そっか…………うーん」

 考え込んでしまったリナリアの頬を突く。

「リナリア、リナリアは僕が女の子だと思う?」

 下がってしまった手のひらから伸びあがって彼女の目を覗き込むと、リナリアは僕を膝の上に下ろして、「うーん……」と唸りながら傍らに置いたマグカップを取ろうとした。だが、カップはリナリアの指が触れる前にひょいと机から離れてしまう。

「げ! チョコレートかよ!?」

 タオルを首にかけたレネが、しかめっ面でリナリアのカップの黒い液体を見つめている。

「ちょっと! 勝手に人のものを飲んで何て言い草――――――」

「いや、コーヒーかと思うだろ、普通」

「こんな甘ったるい匂いのするコーヒーあるか!」

「そもそも、湯上がりにコーヒーなんて飲まないよねー」

 これは僕。

「俺は飲むの。むしろ、風呂上がりに何か飲み物のひとつでも用意してくれたって良くない? 女らし――――――」

「うるさい、居候! そういうのはセルフでお願い致しますぅっ――――――っていうか、そもそもここは私の部屋――――――」

「だって、まだ時間も早いのにリビングに誰も居ねーんだもん」

 ドサッとソファに腰掛けるると、レンはマズそうにカップを空けた。

「あれ? レウィが居なかった? 泊まってくって言ってたけど」

 一変して不安そうな表情を浮かべたリナリアが椅子から立ち上がると、彼は意地の悪い表情を浮かべた。

「アクセルが帰って来たらしいからな。出かけたんじゃねぇの?」

「? アク――――――」

 誰? そう聞こうとした僕の言葉は、豹変したリナリアの表情が目に入ったためにごくりと飲み込まれた。

 ――――――リナリア、スッゴクこわいスッゴクこわい…………。

「で、楽しそうになんの話してたんだよ?」

 物凄く不機嫌そうなリナリアをつまらなそうに一瞥した後、レネが僕を見た。正直、レネに対して自分で話を振ったクセに…………と思わないでも無いが、リナリアの不機嫌オーラが怖かった僕は少しホッとして答えた。

「ぼ…………僕の名前変えれないかなーってさ」

 えっと、でいいのだろうか、などと混乱している僕に対し、レネはあきれ顔になった。

「は? 名前? 無理だろ」

 にべもない。

「ちょっとだよ。ちょっと! だって、みんな僕のこと『フロウ』って呼ぶし」

 タオルで荒く髪を拭いながらレネはさも当然とばかりに言った。

「名前ってのは『魂の呼び名』だから、誰が付けようとそれは生まれた時から持ってるモノなんだ。魂に押された烙印みたいなもんさ。だから、周りの人間がどんなに悩んだって最終的には魂の呼び名に辿り着いてしまう――――――」

 マーマンに適用されるかは知らないけど、それが世界の理なんだよ、とレネ。

「…………そう、だから、私が付けた『フロラ』って名前だって、フロウの魂の名前なんじゃないかなと思うわ。

 それに、近所にはフロラくんってちゃんとしたも居るしね」

 男の子だってちゃんといるよ、とリナリアは笑った。

 僕はリナリアがいつもの彼女に戻ったことに心底ホッとして、尻尾を振りながら「わかった!」と頷いていた。

「って、なんでこんな話してんの?」

 髪を手櫛で整えて、面倒くさそうに僕たちの顔を見比べるレネ。

 完全に元に戻ったリナリアは笑顔をレネに向けた。

「フロウが、女の子っぽい名前がイヤだって。まだフロウの性別はわからないけど────」

「いや」

 いつも通りリナリアの言葉を遮ったレネは僕の瞳をひたと見据えた。

 レンとこんなにしっかりと見つめ合ったことの無い僕はなぜかドキドキした。

 そんな僕にレネは断言した。

「コイツは絶ッ対オスだな」

 …………なんだか、男と言われて嬉しい反面、言外に何か訴えかけてくるその眼差しにイラッとしたのは気のせいではないはず。

とかフロウをペット扱いするな!」

 だから、リナリアに小突かれたレネの姿を見て少しスカッとした。

 ────さすが、僕のリナリア! レネなんかやっちゃえ!

 しかし、それもレネの次の言葉が飛び出すまで。

「ってえな…………、ペットだと思わないんだったら一緒にお風呂なんか入んなよ。ペットじゃなくても赤ちゃん扱いだろ」

「赤ちゃん」

 反芻する僕。

 んん、なんか不本意だぞ…………。

「だって、フロウは生まれてまだ二年かそこらよ。赤ちゃんみたいなものじゃない」

「孵って二年だろ。こんなに達者に喋る赤ちゃんは居ねーし、そろそろ子離れしていく時期じゃね――――――」

「子離れってなによ! 別に私は――――――」

 二人の喧嘩を見ながら、僕の胸は理由のわからないモヤモヤでいっぱいになった。

 リナリア、赤ちゃんは否定しないんだ…………。



 軽く悪態をつきながらレネが部屋を出て行った後、僕は早足でリナリアに近づく。そして、ソファに身を預けた彼女の腕にぴたりと寄り添った。冷たい僕の身体が気持ちいいのか、慈愛に満ちた表情で僕を撫でるリナリア。

「ねえ。リナリアは僕のこと、赤ちゃんだと思ってる?」

 僕の質問に彼女は再び困ったように笑った。

「んー、ちょっと前までは。今はずいぶん大きくなって来たなあって思っているよ。マーマンは成長が早いのね」

 言外にまだまだ子供だけどね、と言われた気がしてしゅんとした。そんな僕を見てリナリアはちょっと考えてから僕を抱えあげる。

 そして、小さく微笑んで僕と額をくっつけると内緒話をするように話し出した。

「あなたは卵の中でたくさん成長していたのよ。

 卵から孵ったあなたはね、卵の殻の中ぎゅうぎゅうになるくらい大きく成長していたわ。卵から孵ったフロウあなたはもう充分しっかりとした首を持ち上げて、私に向かってまぶしそうにぱちぱちと瞬きをしたの。

 ――――――覚えてるかな?」

「…………覚えてない…………」

 彼女はうなだれた僕の頬をそっと撫でて笑みを深めた。

「私は覚えているわ。私と同じ緑の眼が私を映した時――――――なんて言ったらいいんだろう? …………すごく感動したの。きっとずっと忘れない。」

 あのね、と彼女は続けた。リナリアの緑の瞳がしっとりと輝いた。

「空の世界で緑の瞳ってとっても少ないのよ。お母様も瞳の色は違うわ。私、ずっとこの瞳で寂しい思いをしていたの。だから、フロウと出会った時、とってもうれしかったのね。

 フロウの……フロラって名前は、もちろん、魂に紐付けされた魂の名前のはずよ。だけど今思うと私は自分の分身に会えたみたいで。それで、フロラって女の子みたいな名前を付けちゃったのかもしれないなって思うの。それは、謝るべきことかもしれない。ごめんね。

 でも、もちろん、今は違うよ。フロウはずっと側に居てくれて、ずっと一緒で、でも、私の分身じゃない、一人のフロウよ」

 うまく言えなくてごめんね…………、とリナリアは僕を下ろして頬をかいた。でも、大好きな大好きなリナリアが僕を分身みたいに思って僕を大切にしてくれたことは伝わったので、僕は構わなかった。そもそも、あまり難しいことはわからないし。

「うーんと、赤ちゃんじゃなくて、僕はリナリアの大切な友達なんだよね?」

「うん」

「なら、うれしい」

 僕なりに納得してホッとしたついでに、もうひとつ気になることを聞いてみた。

「だったらさ、レネはリナリアにとってなあに?」

「ええっ!? ────パートナー」

 戦士が王国から出て外で行動する時、二人一組で『雲』というアイテムを使って戦士をサポートする『翼』と呼ばれる人たちが居る。リナリアとレネは戦士レウィが空を駆ける時に右左に付く双翼、『翼』なのだ。

「パートナーなのはわかってるけど、なんであんなにイジワルなの? いつから一緒にいるの?」

 ついすねたような口調で矢継ぎ早に質問する僕に、リナリアはまた笑った。でも、今度は何かを思い出してつい笑ってしまったようだ。

「――――――そうね。正式には三年前、フロウが孵る一年前よ」


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