F.O.G.
ジョージ・ドランカー
第1話 伊東新輝の悩み(1)
どこまでも深く、どこまでも暗い空の元、戦っていた。
淡く輝く光の剣を手に、戦う。
剣は闇を切り裂き、眼前の敵へと吸い込まれる。
激しい怒りを胸に、だけど何かを伝えたくて、叫ぶ。
対峙するのは細身の人物で、暗がりのせいか細かいところは良く分からない。
顔も暗くて分からない。
だけど、何故だろう、そいつの事を良く知っているような気がして……。
闇の中、舞うような光が幻想的で、どこか懐かしい。
二人の実力は拮抗していたけど、結果は直ぐに表れる。
そう、二人の剣戟は互いの心臓を切り裂いたのだ。
地に伏す中、不思議な心境だった。
楽しい時に満足を覚え、同時に虚しさ、寂しさを感じていた。
そして闇が降りてくる。
そして気が付く、ああ、これは夢だったのだな、と。
ノートPCの激しく回転するファンとマルチプレイヤーの作動音によって伊東新輝(いとうあらき)の意識は現実へと引き戻される。
モニタからもたらされる鈍い光によって暗闇に浮かび上がった青年のシルエットは大きく伸びをすると画面へと視線を向ける。
(変な夢の原因はこれか)
ノートパソコンのモニタには宇宙戦争を題材としたSFファンタジーとも呼べる超大作映画が垂れ流しになっていた。寝落ちしてしまったはずみかいつの間にかループ再生がオンになっている。
新輝は少しぼやけた意識のまま、映画は別の日に改めて見ることにしてソフトを終了させる。再生ソフトが終了し、画面上から消えると起動時のデスクトップ画面が現れる。
画面右下に小さく表示された時間は深夜の二時を少し回ったくらい。
(明日も学校有るし、寝なおすか)
新輝は寝ぼけつつモニタを閉じた。
が、結局寝つけずに朝を迎えたのだった。
○
伊東新輝は十七歳、市内の県立高校に通う学生で成績は上の下。得意科目は特になく、平均してまんべんなく点を取るタイプだ。
真面目で成績はソコソコ良くて無愛想な事もあるが悪い奴ではない、というのが周りの評価だ。だが、彼と親しい者がいるかと尋ねられれば皆口を揃えて、「そう言えば誰か居たっけ?」と首をかしげる。
本人としては別に人付き合いを避けている訳ではなかったが、世間の流行に興味もなく、自然と人との会話も減って行き、気が付けば一人になっていて自分を良く知る者がいないだけに過ぎないのだが。
そんな新輝が精を出す事と言えばバイトくらいだろうか。
日の暮れかけた時刻。青字に白抜きの看板で有名なとあるコンビニチェーン店。
掻き入れ時にひたすらレジを打つ新輝の姿があった。
高校一年の頃から始めたバイトだったが、業務にも慣れレジ打ちも淀みなくこなす。長蛇の列ができても素早く捌き、学校のクラスメイトには全く想像もつかない笑顔で接客をする。
「お買い上げ三点で九百八十円になります。……千円からお預かりします。お釣り二十円とレシートです。ありがとうございましたー」
最後の客にお釣りと商品の入った袋を笑顔と共に手渡す。普段は大人びて見える顔も笑顔になれば年相応、幼さが垣間見える。
新輝は商品を受け取った客が出て行くのを見届けると、店内をぐるりと見回す。雑誌コーナーにまだ客が居る様だが、まだまだ立ち読みを辞める気配はない。小さく息を吐きだすと大きく伸びをして、盛大に欠伸をする。
「ふぁ、あ~あ」
咽喉の奥から音が漏れる。
「今日は随分眠そうだね」
狭いレジカウンター、隣のレジで接客していた肩から発注用の端末機械を下げた人の良さそうな中年男が新輝を見る。この店の店長だ。
「あまり眠れなくて」
新輝は再び欠伸をすると、眦に涙が浮かぶ。
「そうか。眠そうな所悪いんだけど、夜勤の一人が少し遅れるって。伝えるのを忘れていたよ。少し残れるか?」
「それくらいなら、構いませんよ」
寝不足とはいえ、業務に支障はない。
「助かるよ。店頭のゴミ箱チェックしてから十分ぐらい休んでていいから」
店長は言うとレジに立ったまま端末で発注を始める。
「はい、ありがとうございます」
新輝が早速レジカウンターから出ようとした時だった。
店の外から勢いよく最後にレジを打った客が駆け込んでくる。
何か渡し忘れでもあっただろうか、それとも買い忘れか、新輝はレジに戻ろうとするも、店長が目くばせするのを見てそのままレジから出る。
新輝は何か声を掛けようとして身を固くする。
駆け込んできた客の表情が尋常ではなかったからだ。
顔面蒼白となり、表情は引きつり呼吸も荒い。
「大丈夫ですか?」
尋常でない様相に店長もカウンターから身を乗り出して声をかける。
「そ、外に……」
客は震える声で店先を指さすが、決して振り返ろうとはしない。
新輝は訝しがり、視線の先に眼をやる。
沈みかけた紅に照らされて駐車場に一つの影が浮いていた。
大人の背丈ほどもある何かがじっと店内を見ているのだ。
目を凝らせばそれが犬だとわかるだろう。犬種はシェパードに似ているだろうか。だとしてもその体躯は余りにも常軌を逸脱している。
「魔獣、こんな街中に?」
新輝は緊張のあまり咽喉を鳴らす。
「早く、警察に連絡しないと」
店長は手を震わせポケットからスマホを取り出す。
そんな店長や客をよそに新輝は一歩前へ出て扉へと近づく。特に何かを意識していたわけではない。ただ、目を離すことの方が恐ろしかったのだ。
巨犬はじっと店内睨み微動だにしない。
後方では店長が警察に早く来てくれと懇願する声が響き、店内放送のラジオがのんびりとした曲調でリクエスト曲を垂れ流しているが、新輝の耳には既に届いていなかった。
たった数分にも満たない時間、巨犬は新輝を睨んでいたが、やおら頭をもたげ左右に振ると、ある一点へと視線を向ける。
帰りがけだろう、近所の中学校の制服に身を包んだ少女二人が楽しげに会話をしながら小道から出てきたところだった。二人はまだ巨犬の存在には気が付いていない。
新輝の表情が固まる。
巨犬が素早く身を低くしたのだ。
新輝にはその時、巨犬の口端が喜悦に歪んだように見えた。
少女二人がその存在に気が付き短く悲鳴が響き渡るのと新輝が店を飛び出したのは同時だった。後方から店長の慌てた声がするが、新輝は一顧だにせず走る。
奥歯を噛みしめ、硬いアスファルトを蹴って走る。
巨犬との距離は数メートルも離れてはいない。
数歩の距離を消し飛ばし、新輝は獲物に跳びかかろうと身を浮かせた巨犬へと肩からぶつかっていく。
タイミングが良かったのだろう、巨犬は上体を揺らしよろめくとその場に踏みとどまる。
「早く逃げろ」
新樹は叫ぶと、忌々しげに振り返った巨犬を睨みつける。巨犬の身体は見た目以上に固く、重く、ぶつかっていった肩が痺れていたが、気にしている余裕は無かった。
巨犬は狩の邪魔をされた事に怒っているのか、低いうなり声をあげ新輝を睨みかえす。
その時になって新輝は自身の置かれた状況に冷静さを取り戻す。
運動は苦手ではない。武道の授業もそれなりに良い成績を出している。だが、それが出来たからと言って現状役に立つ知識や技術がその中にあるとは思えない。
特に目の前の存在には無力だろう。
今できる事と言えば、この巨犬との睨み合いを続ける事だ。
巨犬は値踏みするように新輝を睨み、円を描くようにゆっくりと動く。新輝は自然とそれに合わせて間合いを保ちつつ足を動かし間合いを保つ。
不思議と緊張は無かった。体はリラックスしていて普段以上に頭はクリアだった。目端にはじりじりと、ゆっくりではあるが少女二人がこの場から離れていくのを捕えつつ。
間合いを保ちつつ、ぐるりと一周回った所で巨犬が跳ねた。
その巨躯からは想像もできない程の身軽さで新輝へと凶爪を閃かせる。熊の爪の様に発達したそれが迫るのを新輝は動きを止めず素早く身を捩る。
イメージの中では完璧に避けた、そう確信していた。
が、現実は違った。胸部にジワリと熱が走る。
爪先によって切り裂かれ、制服が徐々に朱に染まっていく。
ジュクジュクとした痒みに似た疼きを傷口が伝えるが、新輝はそれでも巨犬から目を離さない。すれ違い、巨犬の背を目に胸ポケットからボールペンを手に間合いを開ける。
無言のまま、足を止める事もしない。
巨犬は素早く振り返ると、忌々しげに唸り声を上げ、再び跳ねる。
新輝は目だけでそれを追い、鋭い爪による一撃を同様に躱すが、巨犬は分っていた、と言う風に短く着地をし、切り返しから咢による追撃を放つ。開かれた咢が迫る。
新輝は避けようとするが体が付いて行かない。
舌打ち一つ漏らし、避けたままの身体を更に倒す、自然地面へとこけるように倒れ込む。寸前まで半身のあった場所を巨犬の咢が通り過ぎた。
新輝は短く息を吐き真横を通り過ぎる巨犬の眼を見た。怒りの感情に満ちたそれは、予測外の動きだったのか新輝の姿を捉えて離さない。一瞬が数秒にも感じられる。
ボールペンを手にした腕が自然と動く。
鋭い先端は最短距離で魔獣の瞳を穿ち、生々しい確かな手ごたえを与え、同時、腹部に衝撃が走る。
巨犬は右の爪、咢に次いで三段階の追撃を用意していた。
左前足による蹴撃。
激しい衝撃と共に新輝は跳ね飛ばされ、コンビニの壁に背中から叩き付けられる。
肺からは空気が押し出され、頭を強く打ったせいか視界が歪む。
片目を潰された巨犬は憎悪に満ちた咆哮を上げた。空気が震え、建物の窓をも震わせる。
新輝は何とか立ち上がろうとするが、自分で思うよりもダメージは大きいらしい、体が思い通りに動かず、壁に手を付いて漸く立ち上がれる程度だった。
ふとガラス窓から店内に視線を向けると、何かを叫ぶ店長と逃げ込んできた客の姿が目に映る。スローモーションのように映るそれは、身振り手振りを交えて何かを伝えようとしているが、ガラス越しの為か何を言っているのか分からない。
それから窓際の雑誌コーナー、立ち読みをしていた少女が目に映る。
まるで外の事を気にもかけていない様子で仕切りにファッション雑誌を読みふけっている。
(凄い集中力だな)
新輝は危機に瀕していながらも全く関係ない思考が浮かぶ。
そんな新樹の視線に気が付いたのか、少女が顔を上げる。
肩口まであるサラリとした艶やから黒髪がゆれ、アメジストのような瞳が新輝を捉える。だが、少女は視線を落とすと再び雑誌へと意識を埋没させていく。
ああ、彼女は集中しているわけじゃなくて興味がないんだ、新輝は何となくそんな事を思った。
よそ見をしていたわけではない、立ち上がり、体を巨犬に向ける間に加速した意識が見せた一コマ。
外から見たら一瞬の出来事だ。
新輝が立ち上がり、振り返ればそこには大きく開かれた咢が鼻先まで迫っている。避ける事は叶わないだろう。
それすらスローモーションに見え、そして、自分の運命を悟った。
きっと即死だろう。
無残な自らの死を予測して、それでも新輝は心を乱さなかった。
自分はそんなに肝は太くないと思っていたが、意外だったな。他人事のように思い、その時が来るのを待った。
だが、それは訪れる事は無かった。
眼前に迫った巨躯が霞む。
一瞬にしてその巨躯が消え去ったのだ。
いや、そうではない、視界の外から犬の、今にも泣きそうな鳴き声が聞こえる。
目を剥ければ駐車場の脇、胴体にこぶし大の穴を幾つもあけ、転がる巨躯があった。力なく横たわり、穿たれた穴からは、遅れて赤が溢れ出す。
瞬く間に血だまりに沈み、それに合わせてパトカーのサイレンが茜空に響いた。
新輝は自身が生き残った事に実感がわかなかったが、よろよろと庇の下から歩み出ると巨犬の躯を一瞥し、視線を上げて離れた場所にあるマンションの屋上を見た。
理由は分からないがふと気になったのだ。
薄暗くなりはじめた建物の影に、キラリと何かが小さく光ったように見えた。
○
巨犬の脅威がなくなったせいか、それともパトカーのサイレンに惹かれてか、いつの間にか巨犬の躯の周りには人だかりができていて、現場を保存したい警察官が人だかりを離そうと必死になっている。何度もスマホのカメラだろう、シャッター音が聞こえて来る。
そんな中頼りない足取りで
「新輝君、大丈夫か?」
店長は真っ青な顔をして、店先で応急の手当てを受ける新輝の前にやってくる。
巨犬が死に、外が安全になっても直ぐに外に出る事は叶わなかった。恐怖に体が支配され、立ちすくみ、新輝の無事を確かめる事も、声をかけに行くことすらも忘れていた。そうこうしているうちに警察がやってきて気が付けば聞き取りを受けていて、先程ようやく解放されたのだ。
「ええ、こんなですけど」
新輝は苦笑を浮かべ包帯の巻かれた自分の胸を指さす。傷は浅いが広範囲に切れていた為出血もそれなりに多く、白に赤が滲み始めていた。
「さて、もう仕事に戻りましょうか。手当ありがとうございます」
新輝は制服を手に立ち上がると先程まで傷の応急手当をしてくれていた救急隊員に礼を言う。その救急隊員は困り果てた顔で店長に助けを求めるような視線を投げかけている。
新輝は何度も救急車に乗るように促されているのだが、まだバイトが終わっていないと固辞し続けている。
「ですから、決まりなんだって、何度言ったらわかるんだ……」
年若い隊員は今にも泣きそうな声音で投げやりに訴える。既に何度か交わされたやり取りだった。
「何度も繰り返さなくても大丈夫ですよ。明日学校が終わったら行きます。店長からも何か言って貰えないですか」
新輝は困ったように言うが、本当に困っているのは隊員の方だろうと店長は何となくだが状況察した。店長は一年近く雇い一緒に働いた経験から新輝は自分の決めた優先順位を決して崩そうとしない事を知っている。きっと梃でも動かないだろう、若い隊員には苦笑を返す事しかできなかった。
「明日じゃなくて今、今すぐ乗ってくれって言ってんの」
隊員は最早体面を気にする気もなく声を荒げる。既に若い隊員は怪我人を気遣う必死さよりも聞き分けのない怪我人に対する怒りの方が勝っていて顔を真っ赤にしていた。
そんな怒りを向けられても新輝は気にすることもない。
「おいおい、そんな大声出して、どうした?」
そのうち警官の中から大柄な一人がやってくる。近くの交番に勤務する巡査でコンビニへの通り道にあるので新輝は顔だけは見知っている。因みに彼は暇だったので事件を聞きつけて物見にやってきているだけだ。
「……ん? コイツか、命知らずの馬鹿は」
巡査はしげしげと新輝をみる。
「別に命知らずって訳じゃない」
無意識に身体が動いただけに過ぎない、確かに死にかけたが、それでもあの時は何とかなると思ったのだ。実際は何ともならなかったわけだが。
新輝は苦い顔をして視線を逸らす。
「少しは自覚があるようだな。お前は人助けしたつもりだろうが、一つ間違えれば命を落としてたんだぞ。そうなったらお前の両親は悲しむだろうが」
そう続けた。
家族、という言葉に新輝は更に視線を落とす。
巡査はその反応を見て満足そうに表情を緩める。
「だが、良くやった。男を見せたんだ。褒められても良い事だと思うんだがな。それに、どうせアイツらから散々お小言貰っただろ」
ニヤリと笑い、パトカーの傍でどこかへ連絡を取り続けている警官たちを顎で示した。
「まぁ、少しは」
新輝は歯切れ悪く答える。
「それと、この若い兄ちゃんの事だが決まりでな……」
と救急隊員の方へ顔を向ける。
若い隊員はやっと助け舟が出されたと分り安堵を浮かべる。
巡査が何か言葉を続けようと口を開くが、中々次の言葉が出てこない。
新輝は疑問に思い巡査を見上げるが、その眼は虚ろとなり、口を開いたまま動かない。
そして、今まで騒がしかった周囲が嫌に静かになっている事に気が付く。
無線で連絡を取っていた警官は動きを止め、野次馬達やそれを制止する別の警官も微動だにしない。店長や救急隊員も同じ表情を保ったままだ。
まるで時が止まったような状況に新輝は身を固くする。巨犬に対峙していた時とは違い得体の知れない不安が湧き上がる。
視線を巡らせれば動かないのは人ばかりで、パトランプは相変わらず点滅を繰り返しているし、吹き付ける風がノボリを揺らしている。
時が止まったわけではない。
そんな中、一人、自分以外の動く人物を見つける。
店内に居たもう一人の客だ。
年のころは十四、五歳。あの時は気にもしなかったが、色白で同世代でなくてもすれ違えば振り返ってしまうぐらいには人目を引く容姿をしていた。
少女は店内からゆったりとした足取りで出てくると新輝の視線に気が付く。
「あら、生きていたのね」
少女は新輝の傍まで来ると興味深そうに顔を近づける。紫の瞳が新輝の瞳を覗き込む。
「それに動けるなんて、珍しい」
少女は前かがみになると新樹の胸元、傷に鼻先を近づけてスン、と匂いを嗅ぐ。
「ふーん、変な匂いが混じってるけど只の人間、か」
体を起こすと再び新輝の瞳を覗き込み、小さく首をかしげる。
「変わってるのは確かね」
それだけ言うと先程と同じようにゆったりとした足取りで去って行った。
新輝はただ、少女の去る姿を目で追う事しかできなかった。
少女の姿が消えると同時、再び人々の活動が再開される。まるで自分達が停止していた事に気が付いていないように。
音がぶり返す中、新輝は少女が去っても道から目を離すことが出来なかった。
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