死人が口を開いてもいい
仮巣恵司
第一章
『腐水』
腐った水の臭いがした。
どろりとした緑色を思わせる、濃密な汚臭。
そういえば、と思い出す。
学生だった頃に、シンクの生ゴミをそのままにして帰省してしまった。
電源、戸締まりと指さし確認までしておいて、最も分かりやすい処理を忘れてしまっていたのだから笑いものだ。
一ヶ月ぶりに小さな部屋に入ってみれば、ほんの数秒で汗ばんでしまいそうな熱気と共に、陳腐な表現ではあるが、この世のものとは思えない嫌な臭いが襲ってきた。
強すぎる嗅覚によって頭の芯を打たれたかのような錯覚を覚えたものだった。
ちょうど、今のように。
そうだ、昔の失敗談などに気を取られている暇はない。
これではまるで走馬燈。縁起が悪い。
私は絶対に、逃げ切るんだ。
ずっと走ってきたため、寒空の闇に白い息が立ち上る。
肺がヒュウと締め付けられ、冷たい空気が喉を冷やす。
深夜ともなれば、この住宅街に通行人は見当たらない。
私の息だけがゼェゼェ響き、また息が宙を漂っていく。
こんなことになるのなら、もっと日頃から運動しておけばよかった。
酒も煙草もやっていたせいで体力は成人男性の平均を大きく下回っている。
喉がカラカラだ。
唾を飲み込むと、微かに血の味がした気がする。
くそ、妻が言っていたじゃないか。
ちょっとは運動した方がいいんじゃないの、と。
あいつはいつも小言ばかりで、私が何かをすればケチをつけて、何もしないでいれば早く寝ろと文句を付ける。
それで私もついつい頭に来て言い返したりしたりして。
それも全部、私の健康を思ってくれていたんじゃないか。
だから、これに妻を巻き込むわけにはいかない。
腐った水の臭いがする。
それも、もっと濃密に。
そもそもの始まりは、何てことはない。
会社の喫煙室で聞いた話、それだけだった。
どうせ与太話だと付き合ってやったのがまずかった。
――そして、この話を聞いた人のとこには、来ちゃうんですよ。
そんなお決まりの常套句で締められた怪談。
馬鹿馬鹿しいと思った。
なにせ、それを私に話す新人は病気一つしていなかった。
そのピンピンした姿こそが、怪談の余韻をぶち壊してしまう蛇足だろう。
まぁ激務の清涼剤にはちょうどよかったな、と笑ってやった。
新人も笑ったが、いま思うと、どこか怯えた目をしていた気がする。
それからだった。
一人でいるとき、あるいは誰かといるとき。
時間も場所も関係なく、唐突にアレの気配はやってくる。
最初はちょうど、会社から最寄りの駅だったと思う。
仕事が長引いてしまったこともあって相当イライラしていたのを覚えている。
誰に聞かせるわけでもないお偉いさんへの悪態を口の中で反芻しながら電車が来るのを待っていた。
ホームに人はまばらではあれど、誰もが疲れた顔をしていた。
お前らより私の方が疲れているんだぞ、ちくしょう。
そんな子どもっぽいやっかみが過ぎ去るよりも早く、電車が遠くに見える。
さて、席に座れるといいが。
近付いてくる車両、やけに陽気な到着のメロディ。
腐った水の臭いがした。
古い駅だ、下水の処理がうまくいかないこともあるだろう。
だから大して変に思うこともなかった。
けれども。
風が来て、電車が目の前を横切る。
そろそろと速度を落としていく。
あの臭いが強くなった。
下水、という単語が頭の中でふわふわ漂う。
いやに臭うな。そう顔をしかめて私は、とっとと電車の中に避難しようと思った。
扉が開いて中に乗り込んで、そうしてしかめっ面は更に強くなった。
――電車の中から?
もう強烈な臭気だった。
車内の湿気もあって、より立ちこめる。
かといって、電車を一本遅らせようなんてわけにもいかない。
お互い運が悪かったな、そういう思いを込めて他の乗客の顔を見る。
しかし、誰も嫌そうな顔はしていなかった。
普通ならば、ここまできつい臭いなのだ、それらしい反応をしているはず。
もしかして自分だけなのか。あまりいい気はしない。
何か鼻に詰まっているのかもしれない。例えば蓄膿症とか。
鼻腔関連を悪くしたことはなかったのだが、もしかしたらということもある。明日になってもひどいようなら病院へ行こう。いや、病院に行ってる時間なんてないな。市販薬で効き目がありそうなものを買わなくては。
どうにもついていない。
どうして私ばかりこんな目に。
やれやれと首を振って、つり革に捕まる。もう発車だ。
自分が乗ってきた扉を見る。当然のことながら、誰もいない。
扉が閉まる。
その窓に、アレが映っていた。
女、だと思う。
どこかの会社帰りなのだろうか、いかにもOLといった服装だ。しかしその服はずっしりと水を吸っていて、肌にはりついていた。
その肌、というのが。
緑色、淀んだ沼に浮かんでいる水草の色。まばらに見える黒ずんだ赤は、腐った皮膚の下、すなわち肉なのだろう。更に奥の白いものは、骨か。
なるほど、臭いわけだ。マヌケにも最初に抱いた感想はそれだった。
発車する。
腐乱した女の影は、すぐに見えなくなった。
ホームに立っていたのだろうか……いや、その直前にガラガラのホームを見ていたはずだ。あるいは遠くから走ってきたのかも、と考えたけれども。
分かっている、そんな問題じゃない。
少なくとも、生きた人間ではなかった。
そして、新人の話していた怪談に登場するアレの姿だった。
しばらくして、体が震えてきた。
大きく息を吸い込む。
あまりの恐怖に体が停止してしまっていたかのようで、呼吸がひどく懐かしい。気付けばあの臭いもなくなっている。
汗が滲む。
今のは何だったのだろう。
再び周囲を見渡す。
車内はいかにも終電間際といった感じで、つまり、異常を目撃した様子はなかった。
見えていたのは、私だけだ。
幻覚、という可能性に思いを巡らせる。
あの臭いはどう説明するのだ、と首を振る。
いいや、幻覚は五感そのものが狂わせられてしまうのだと聞く。
きっと幻覚だ、悪い夢を見たのだ。
意外にも私は、新人の怪談に恐怖を覚えていたのだ。疲れている中であんな話を聞いたものだから、その印象をそのまま視てしまったのだ。
あいつめ、明日になったら叱ってやる。まさか怪談が怖かったから、などと言えるわけないのだから、何か適当な因縁をつけてやろう。
翌日、新人は会社を休んでいた。
無断欠勤だった。珍しい、とみなが驚いていた。
それから一週間くらいして、彼が失踪したのだと聞いた。
社内が戸惑いに包まれている中、私だけが違うことを思っていた。
なるほど。
新人を殺して、次の目標が私というわけか。
――それから。
一人でトイレに立ったとき、上役相手にプレゼンを行っているとき、再び駅のホームで。
腐った水の臭いがする。
決まって、その原因であるヤツは、こちらを見ているだけだった。
その度に、思う。
あの水浸しの前髪に隠れた顔は、どんな表情でこっちを見ているのだろうか。
何しろ、出現の前には必ずあの臭いがする。
そうなると、こっちも身構えてしまうのだ。なるべく関わらないようにしたい、できれば無視していたい。
あえて直視などできるものではない。
私は決して信心深い方ではない。どころかオカルトなどテレビのバラエティで十分だと思っている。
それでも、新人が失踪したとあれば、さすがに危機感を募らせた。
信頼したわけではないのだが、何かが変わるかもしれない。そんな淡い希望を持って、インターネット上で霊媒師なる人の元へコンタクトを取った。
相談に行った翌日、彼から電話が来た。
絶対に、見ないように。
いわく、まだ探っているような気配を感じる。こちらが無視を決め込めば、アレもいずれ興味をなくしてしまうでしょう。
私も祓ってみるよう努力はしますが、あなたの安全のためには無視が一番です。
よかった、と息を吐いた。
避けよう避けようと心掛けていたのが、思わず正解となっていたようだった。
後は、そう。祓うなんて望まない。どこか別の場所に行ってくれればいい。
そうして昨日、霊媒師も消えた。
昨日の日付で留守電に入っていたのは、逃げろという指示と断末魔。
その現場を見たわけではないのだから消えたと決めつけるのは早計だ、そう考えたりもした。
しかし、あの臭いが来た瞬間、きっと消されたのだろうと直感した。
だから、ひたすら逃げている。
けれど、どこへ逃げればいい?
留守電を確認したのが帰宅途中だった、というのが不味かった。
あるいは会社であれば、残業中の誰かがいただろう。人のいるところにもアレは現れるが、少なくとも一対一で対面するのよりかはマシに思えた。
ただ、一つだけ狙いはある。
愛する妻の元へだけは、行かせない。
彼女にはまだアレの話をしていない。
しかしもし、アレと直面したときに妻が隣にいたならばどうなるのだろうか。今までの経験からして、きっと妻にもアレの姿は見えないのだろう。しかし、もしもということがある。
だから、家とは反対方向へ走っている。
この見知った道を行けば、少なくとも家で襲われるということは無いだろう。
それだけでも、一つの勝ちをもぎ取ったことになる。
次は、もっと大きな勝ちを。私がアレに襲われない、そんな勝ちを。
とはいえ、このまま走っているだけでは何も変わらないだろう。何か、手を打たなければ。
頭の中に地図を描く。疲れで上手く纏まらないが、毎日歩いている道だ、そんなに難しいことではない。
――そうだ、ある。
交番だ。
きっとあそこなら、夜遅くでも誰かが一人はいるだろう。
昔の友人が交番勤務になり、当直で真夜中も交番にいるのだと言っていた。彼と出会うことはなくとも、誰かはいるに違いない。
そうと決まれば、道を変える。
この道を曲がってすぐだったはずだ。
足が痛む。革靴は走るのに向いていない。
体力だってそろそろ限界だ。スーツの下は汗でぐっしょりと濡れていて、そこに冬の夜気が冷たく刺す。
見えた、交番だ。
真っ暗な闇の中、明るい光が中から漏れている。もしパトロール中で誰もいなかったらと思っていたが、その心配は必要なさそうだ。
もちろんこれで何かが解決するわけでもない。だが、少なくとも安心はできる。
交番の入口は扉が閉まっていて、中には誰も見えない。
奥の方にいるのだろうか。あるいは仮眠中かもしれない。それでも、呼べば来る。
この事態をどう説明しようか。もしかしたら酔っぱらいか何かと勘違いされてしまうかもしれない。
一息。深呼吸をする。
腐った水の臭いがした。
扉のガラスに映っている私の姿。
その背後に、影が立っていた。
あぁ、臭い。
そんなに近くに立たれたら。
厭な暖気が首筋にかかる。
ガラスに映るそれは、大きく口を開いていた。
数本の涎が糸を引いていく。
振り返る。
ゆっくりと、ぎこちなく。
せめて顔を見てやろう。
どんな表情で私を見ていたのか。
それには、目なんて無かった。
これでもかと開いた口、腐り落ちた皮膚。
眼窩には、黒く濁った何かがあるだけだった。
どうして私は、こいつに見られているなどと思ったのだろう。
そんな、どうでもいい疑問ばかりが浮かんでくる。
その一方で、どこか腑に落ちる部分もあった。
こいつは人間じゃないのだから、そういうこともあるのだろう、と。
そうして、汚らしい口腔が。
勢いよく、閉じられて――。
腐った水の臭いがした。
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