red crystal②

 消毒液アルコールの匂いが漂う空間を走る。ただ走る。

 後ろの赤い光景からただ逃げる中、俺の手は目の前を走る金色に引かれ続けていた。


 頭の中は混乱。そして、自分の両目で見た光景が事実ではないと頭の中の冷静な一部分が告げている。いや、事実ではないというのは間違いだ。目で映し出した光景は紛れもない現実。

 ただ、それが現実ではあり得ないものであったに過ぎないだけであるのだから。


 俺の視線が向いていた廊下の一番奥の部屋から出ていたのは小学生の頃に自分の手で造ったモノによく似ていた。

 ドラッグストアで買った粉と液体を混ぜ合わせる夏休みの自由研究にピッタリの存在。絵具で赤い色を付けてお粗末なレポートと共に提出したアレと、先ほど俺の目に映った存在はとても似通っていた。


 だが、アレは勝手に動かない。何かの干渉がない限りは重力に従い垂れるぐらいしかできない存在でしかないというのに、部屋から出てきた赤いモノは意志があるかのように蠢いていた。そして、その赤いモノの狙いは廊下の先にいた。俺とエレインだ。

 目が合った訳じゃない。奴には目らしきものはなかった。だが、なぜか分かった。奴は俺たちを認識し、そして、襲うために動いたのだと。


「こちらです!」


 エレインに手を引っ張られ、小部屋へと入り込む。フローラルな香りが俺の鼻をくすぐった。小部屋の中には更に小さな部屋が三つほどあり、その中には白い陶器でできた椅子のようなモノを見ることができた。

 ここは、男である俺には入ることは絶対に許されることのない花園だった。もし、入れば危険人物の誹りを避けられないし、下手をすれば臭い飯を食うことになるかもしれないが、初犯だし、後ろから怪物が襲い掛かってきている状況だから、きっと裁判官も許してくれるだろう。

 『怪物に追われて女子トイレに逃げ込みました』っていう俺の言葉を信じてくれる裁判官がいればの話であるが。


 未来について不安……ってか最早、絶望を覚えていると俺をここに引きずり込んだ下手人が静かに口を開いた。


「イチロー、あなたは魔法を使えますか?」

「いや、無理だ」


 使えません。

 このまま後10年ちょっと純潔を貫けば使えたかもしれないが、30歳になっていない今は使えないし俺としては魔法を使うことができるようになるよりは使えなくなっても愛を知りたい。愛を知りたいとか詩的な表現になってしまったが、簡単にいうと女の子とイチャコラしたいのである。それはもう、盛大に。


「そうですか。では、私が囮になります」

「それは……」


 赤いヌルヌルに全身を覆われ、涙目で悲鳴を上げながらやがて嬌声に悲鳴が変わっていく様子を思わず想像してしまった。それはそれでアリかもしれないと思ってしまい、言葉を止めてしまう。

 静かになった俺を振り返りながらエレインは俺を安心させるように笑みを浮かべる。


「大丈夫です。あんなスライムなんかには負けません」


 『私は勇者ですから』と言って拳を握るエレインだが、長年の経験(大魔王からは逃げられない的なお約束でゲームオーバーになってきた経験)から彼女を見送ったら、赤くヌルヌルで動きが早い怪物、エレインが言うにはスライムに負けるだろう。

 フラグまで立てているし、まず間違いなくR18的な展開になるに違いない。しかし、それは俺にとってはまだ早いと思う。CEROとか青少年保護法とかPTAの圧力とかの観点から、美少女がスライムに襲われるのはやっぱりマズイと思うんだ。


「いや……逃げる時は一緒だ」


 それに、男が女の子を囮にして逃げるなんてカッコ悪い。羞恥心が人一倍強い俺には、女の子を置いて一人だけ逃げ出したことが多くの人に知られたら恥ずかしさで死ねる。


「しかし、あのスライムは私が魔王を倒した時に居たものです。私と共にニホンに飛ばされた可能性があります。……私の責任です」


 形のいい唇を噛みしめ、エレインはトイレのドアに手を掛ける。

俺は何も言わずに、その手に自分の手を重ねる。


「イチロー?」


 小首を傾げて俺を見るエレインは可愛かった。それはとてつもなく可愛かった。だからこそ、俺はエレインをスライムに送り出すことなんてできない。


「前準備を何も行わずにバケモノに向かうのは勇者ではなく愚者だ」


 少しカッコつけた言い回しになってしまったが、まぁ、スライムなんてモンが出てくるような病院だ。ファンタジックな言い回しの方が合っているといえば合っている気がしないでもない。


「イチロー。あなたの言う通りです。ですが、私は勇者なのです。例え、敵に対して打つ手段がなくとも、私は立ち向かわなければならない。愚か者と言われようが、守り抜くことが私の使命なのですから」


 綺麗な蒼色の目で俺を真っ直ぐに見つめるエレイン。手を重ねて、視線を合わせる今の状況。エレインの蒼い目の中に俺の顔が映っているこの状況。

 マジでキスする5秒前じゃないかい! 


 映画でよく見るような光景だろう、いや、違う。女子トイレでキスするような映画は正直に言って観たくない。

 自分の置かれている状況を改めて把握し、興奮していた気持ちが一気に冷めた。


「手を離してください。あなたを守ることができません」


 冷めた気持ちでエレインを見る。怪物に立ち向かおうとする俺より頭半分ほど小さく、一部分のボリューミーな所を除くと華奢な女の子。


 そんなエレインに守って貰うことしかできない訳はない。


「いったハズだ。俺は逃げる時は一緒だと」

「しかしッ……」

「それに、策はある」

「え?」

「スライムに関しての策がある」

「しかし、あなたは魔法を使うことができないと言っていたのに、どうやって? それに、敵はスライム種の中でも最も凶暴なビッグ・レッドスライムですよ。魔法や水属性の装備がなくては太刀打ちできません」

「スライム程度、殺すのには魔法は必要ない」


 だって、スライムだし。日本で一番有名なRPGではザ☆雑魚だし。ヒノキの棒とかでも倒せそうだし。

 だが、俺は分かっている。この病院の中を徘徊している奴はヒノキの棒程度じゃ倒せないし、お金も経験値も落とさないってことを。アレは捕食者だ。俺たちを狙い、喰らおうとする存在だ。

 そのような奴に馬鹿正直に正面から挑んだところで返り討ちにされるのは目に見えている。ならば……。


「魔法はなくてもスライムに傷を負わせることはできる」


 夏休みの自由研究がこんな所で役立つとは。エレインに出会ったことといい、本当に人生は何が起こるか分からないものだ。

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