■五章 01・色あせた世界の棺
■□五章
薄気味悪い子供。そう言われたのは、多分、物心がつく前からだった。
父親はいつも嘆いていた。妻は死んだのに、なぜお前は生きているのだと。他の子供と違い、無表情で感情のない子供。まるで人形と暮らしているようだと、うわ言のように繰り返す。
周りの人間は言った。顔は似ているのに、全然性格が似ていない。早く再婚すればいい。そうも言っていた。
ただ、子供が問題だったそうだ。こんな生まれの子供がいて、家に来る女がいるのかと。
それからすぐだった。気がつけば、子供は遠縁にあたる老人に預けられた。少ない荷物を抱え、子供は老人の家の前にいた。
子供は扉を叩いた。もしかしたらその扉が開く事はないのかもしれない。子供はそれが恐ろしかった。行く場所はない、どうすればいいのか分からなかった。
そんな子供の気持ちを知ることなく、目の前の扉が開いた。中から出てきた老人は、子供が出した手紙を読むと、たった一言口にした。
「入りなさい」
扉を開け中に促す老人に、子供の目から水が出た。判らなかった、どうして目から水が出てくるのか。抱えていた荷物を老人は持つと、子供の背中を押し家の中へと入れた。老人は、子供に椅子に座るように言う。
テーブルには、先客がいた。奇妙な生き物だった。服を着た大きな羊のぬいぐるみのような生き物が、椅子に座っていた。目が大きく開いた。驚く、とはこう言うことなのだろうか?
羊は子供が泣いていることに気付くと、器用にハンカチを取り出し子供の顔を拭くと、その手から鳩や花を出し始めた。羊は眠そうな顔なのに、手品は凄く上手かった。
しばらくすると老人は、子供に飲み物を渡し自分も空いている席に座った。それを見計らったように、羊が席を立ち家を出た。老人は顔を向けるだけで羊を見送ると、持っていたカップに口を付ける。それを見て、子供もコップにクピリと口を付けた。
何の変哲もない、普通の牛乳を温めたものだった。けれどそれがとても暖かかった。子供は夢中になって飲み干した。
「美味いか?」
「おいしい」
その日から、子供と老人の奇妙な生活が始まった。
老人はあまり喋らなかった。子供に必要なことを教え、何が大丈夫で、何が危険なのかを身につけさせた。
老人は変わり者らしかった。訪ねる人はほぼおらず、定期的という程ではないが来ていたのは、あの羊ぐらいだった。子供は老人と同じように、羊のことを『はくしゃく』と呼んだ。
二年ほどそんな生活をしたある日、はくしゃくは老人と子供に、子供の体質のことを教えた。
子供は、普通の子供ではなかった。
子を胎に宿したまま死んだ母親と、声を上げることなく産まれた赤子。その子供が、棺と呼ばれる存在になるらしい。
それ故に、感情が現れず表情を無くす。味覚も徐々に変化していくらしい。一度、指を切り血が出たとき、とっさに口にくわえた事があった。だがあまりの苦味に、思わず吐き出したのは今でも覚えている。それからだ、ある種類の食べ物を口に入れたときに、その味と同じように感じるようになったのは。特にトマトは酷かった。すぐに嫌いなものになった。
子供は他の子供と違う。そしてはくしゃくは、いずれ夜の世界の住人が子供を浚いに来ると告げた。はくしゃくがある人の所で保護してもらおうと言った。
子供はまたどこかに行くことが嫌だった。嫌だ嫌だと首を振り、老人の腕にしがみついた。はくしゃくは、ある人を優しい人だと言った。けれど、子供は嫌だった。はくしゃくは無理強いはしなかった。根気強く、何度も子供を説得した。
薄気味悪い子供、棺と呼ばれる子供。他の、普通の子供と違う。怖かった。優しい人でも、受け入れてくれるか分からないから。また、居場所を失うのが怖い。
嫌だと言う子供を諭したのは老人だった。その優しい人は、老人も知っている人だった。老人も、その人の所ならば安心できると言った。老人は子供の頭を撫でながら、いつもの口調で言葉を紡ぐ。
「世界には大勢の人がいる。善人も、悪人も、無関心な人間も。世の中悪い人だけではない」
詭弁だと、はくしゃくは言った。老人もその言葉に頷いた。
「だが僅かに、それこそほんの一握り程度だが、拒むことなく、すべてを受け入れる存在がいる。自己満足の固まりで、善人でもなく悪人でもない」
そんな人がいるものか、子供は不満気に老人を見た。
「きっと、お人好しや良い人と言われるんだろう。世界はここよりずっと広い、だがここでそれを教えることは出来ない……だから、外の世界を見ておいで」
本当に、外の世界は広かった。箱に入り船に揺られ、子供は思った。それと同時に、子供は眠気も空腹を感じなかったのが不思議だった。たぶん、棺としての身体が原因なのだろう。
子供には名前が無かった。老人もはくしゃくも、名前を呼んだことはない。船着き場に運ばれる途中で、誰かにcoffinと呼ばれた。どんな意味なのか知らない。呼ばれるから返事をする。
そうだ、帰ったらミサトに訊こう。きっと調べてくれるはずだ。そう、ミサトの所に帰らないと。グランマに話しをして、ミサトを助けてもらわないと。
グランパ、わたし逢ったよ。お人好しの人間、ミサトっていう女の人だよ。ミサトの家は不思議なんだ。ghost(幽霊)のグランマ。人間じゃないレイジ。ミサト、気にしないで一緒に住んでる。
頭が引っ張られてズキズキとする。両足が何かに擦られる。痛い。小石か何かがあたったのか? 目を開けば、板張りの床が見えた。頭は相変わらず痛い。そうだった、あの女が自分の髪を掴んで引きずっていたんだった。
力が入らない。いったいどこに行こうとしているのだろうか。ゆるゆると視線だけを動かせば、床に寝ている人と目があった。
ぼんやりとした意識の中でも、コーフィンにはその人が死んでいるのが分かった。どこを見ているとも分からない虚ろな瞳、血走った瞳。身体の下から、真っ赤な色が広がっていた。
……吐き気がしてきた。抵抗することも、吐き出すことも出来ない中、コーフィンは死体に見送られるように女に引きずられていった。
□■□■□■
こんなに嬉しくないお茶会は初めてだ。連れてこられた一室で、ミサトはそこはかとない空気の悪さに、引きつりそうになる頬を必死で抑えこむ。
気を抜けば沈みそうになる革張りの椅子に大人しく座り、ミサトは目の前のカップを見た。強引ではあるが、一応は客人という扱いだと思いたい。ならば、出された紅茶に口をつけるのはマナーなのだろうが……。手を出したくないと思った自分は悪くない。
「毒は入ってない」
「そ、そうですか。わざわざ教えて頂きありがとうございます」
なぜ、考えていることが判った。やや不満気な表情で、ミサトはナオトを見る。紅茶を一口飲むだけなのに、こんなにも神経を使うとは。カップを取る時、手が震えなかった自分を褒めたい。
「それで、そちらがその言葉を言うまで、私は黙っていればいいんですね」
「ええ。こちらも手荒な真似はしたくないので」
「コーフィンちゃんの事も話してはダメなんですか?」
「申し訳ない。こちらの話が終われば、すぐに解放しますので」
そのセリフの何を信用しろと言うのか。わずかに寄ったミサトの眉に、ヤシロが気付き苦笑する。
「本当はあなたにも、彼を説得するのに協力して欲しいのですが」
「黙っているだけでも、私にとっては最大限の譲歩です」
不承不承従ったと暗に告げるミサトに、ヤシロは半ば諦めるように肩の力を抜いた。
偏食者は、提供者の奴隷である。
ヤシロがイギリスにその身を置いていた時、知人の医師がそう言ったの思い出す。偏食者は歪んだ執着から、提供者を手放さないために提供者のありとあらゆる望みを叶える。その時はそんなバカな話があるかと、ヤシロは聞き流していた。
長く生きるうちに、多くのことを知り、それが事実であると信じるに至った。だが、ほとんどの偏食者は、提供者の心を縛った。提供者が自ら偏食者の手を取ることは多くはないからだ。だから偏食者は、提供者が長く生きられないと知っていながら、精神に干渉し逃げられないようにする。提供者が自らの意志を持って動いているのは少ない。
もっとも、棺になるとまた話は別になる。そもそもあれは、感情が存在しているのかすら怪しい。
「あなたが説得してくれれば、彼も承諾してくれると思うのですがね」
半不死となっている知人の医師が、棺が現れたことを知らせなければ。半端者になる前に患った病が、緩やかに、だが着実に進行していることが重ならなければ。きっとこんな大それた事をヤシロは実行しなかっただろう。
とうの昔に諦めていたはずの感情が、再燃していた。人間という型から外れてしまい、小さな世界で人の真似事のように生きているだけの存在になれていただろうに……。
「妙なことに彼女を巻き込まないでもらいたいのですが」
「おや、随分とお早い。さすがレイジさん――いや、レイジ様と言った方がいいでしょうかね?」
「おべっかは結構。彼女を返してもらいましょうか」
椅子に座るヤシロを一瞥し、レイジは一歩前に出る。血液の摂取をしている今ならば、後れをとることはない。
ミサトの姿にレイジは胸を撫で下ろす。拘束されていないし、意識や精神に干渉もされている様子もない。
「ミサトさん――」
「紅薔薇を仕留めて頂けないなら、『花嫁』を取り返すことに協力して欲しい」
「……お断りします」
「言っておきますが、
「月牙の花嫁か?」
「ええ、娘が五十年ほど前に」
流れから出した名前だった。そしてヤシロの返答を聞いて、レイジに出てきた言葉は面倒。それも厄介極まりない面倒事だ。当初からの目的はこれだったらしい。
五十年前に月牙が迎えた花嫁の父親が、目の前にいる。それも、半端者になって。望んでその身を半端者にしたのか。それとも、望まずしてなったか……。どちらにしろ、扱いに困る立ち位置だ。
「この間と同じです。お断りします」
「彼女、ミサトさんが大事ですか?」
「当たり前でしょう」
「……『餌』としてですか?」
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