08・夜の世界

 


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 沈んだ先にあったのは、固まる前の溶けた柔らかい飴のような世界だった。つるりとした表面で反射する、どこか異様な光景に息を飲みながら、その中をミサトはただひたすらに落ちていく。

 生温い、液体とも固体ともいえない感触にミサトは眉をひそめる。ツバメの姿も、あの青年の姿もなかった。今度はどこに行かされるのかと思うと辟易する。

 しっかりしろ、ミサト! どうにかして外と連絡を取らないと、コーフィンが危ない。こんな所で悠長なことはしてられないのに。


 背中にひやりとした冷たい空気を感じたら、一気に身体が重くなった。ああ、これが重力だよねと思っていれば、溶けた飴の世界から、はっきりとした建物の天井が現れた。

 目の前にあるのが天井って事は、今床に落ちようとしてる!?



「ぐはっ!」

「うわっ!」



 想像していたよりも柔らかい感触に、ビクビクしながら下を見れば――あの青年を下敷きにしていた。



「ご、ごめ――」

「何者だ!」

「ひっ!」



 女の声と共に、喉もとに先の尖った棒を突きつけられる。声に人が集まり出し、ミサトを囲うように立つ。その手に持っているものが、この女性と同じように凶器でないことを願う。



「そいつに手を出すな。あいつの餌だ」

「……分かりました」

「でさ、あんたミサトだっけ? 重いからどいてくれる」

「い、今すぐに!」



 何で名前を知っているのか、問えるような状況でもなく、ミサトは急ぎ青年の上からどく。変に距離をとろうものなら、周りの人たちにそのままグサリと刺されそうな気がする。この青年からそれほど離れない場所にミサトは立った。

 周りを見れば、やはりツバメの姿はなかった。



「逃走準備を始めるよう全員に通達しろ! 拠点を捨てる!」



 立ち上がるなり青年は、怒鳴るように指示を出す。指示の内容に戸惑った表情を見せる面々に、畳み掛けるように言葉を続けた。



「紅薔薇に気付かれた可能性がある!」



 その一言に、一斉に周囲がざわつく。「紅薔薇……」「紅薇だと」と小声で話すが、一人が慌てるように駆け出すと、同じように追い始めた。



「ナオトさん、その女は」

「ヤシロさんのところに連れて行く、ヤシロさんは?」



 ナオトに声をかけた男が、一度ミサトに視線を向けると、躊躇いがちに口を開いた。



「……部屋にいます」

「来い」



 言うなりミサトの腕を掴んで、ナオトは歩きだした。それでもまだ加減をしているのか、痛みはあるが痺れる程ではなかった。



「痛いって! ちょっと待って、どこに連れて行くの! 私はコーフィンちゃんを――」

「子供は諦めろ」

「なっ……」



 薄暗がりの廊下を進む。ミサトとナオトの脇を何人も足早に通り過ぎる。

 些細な抵抗なのか? 素直に後をついてこないミサトの腕を引っ張ると、ナオトはある部屋の扉を開いた。



「ヤシロさん。トラブルありましたけど、あいつの花嫁を連れてきました」



 それほど広くはない部屋の中で、初老の男が力なくベッドに横になっていた。

 繋がれた点滴の管、それに入った液体は、赤い色をしていた。



■□■□■



 見上げた先は、腹立たしい程に澄んだ夜空だった。瞬く星に、三日月が辺りを照らす。これだけ空気が澄んでいるなら、明日の朝は少し肌寒いかも知れない。桜が咲きそろい始めた四月の夜。まだ風は冷たい。

 刈られていない、葉の長い芝生に丸まるように座りながら、レイジは頭を抱えた。

 最悪だ。よりにもよって、一番喰べてはいけない人を、喰べてしまった。空腹の時、彼女を喰べたいと思ったことは、正直一度じゃない。けど、喰べれなかった。


 自分の欠陥が露呈するのが恐ろしかった、自分が他と違うのが恐ろしかった。

 彼女が花嫁なのは、逢ってすぐに分かった。あの時は軽い空腹だった。だから間違い様もない。

 何も知らない普通の人間だ。知らなければ知らないままで生きていける。夜の世界を知らず、昼の世界だけに生きる。恐怖も痛みも、与えたくなかった。そんな人を、どうして喰べれる。


 なのに、さっき喰べた時、少しでも美味しいと思った自分が情けない。陛下のもとへ、棺のもとへ行けばよかった。湧き上がる自己嫌悪から吐き気がする。

 どんな顔をして、なんて話せばいい。

 自分が、人間じゃないって事を……。



「だいぶお取り込み中みたいだねぇ」



 そんな声と共に、地面につきそうな程長い裾の隙間から、踵の高い黒いブーツが覗く足が現れた。その足は地に着くことなく中空を浮び、レイジの身体に夜より濃い影を落とす。



「……なんですか、ツバメさん」



 顔を上げたレイジを覗き見るように、ゆらゆらと宙を漂うツバメの姿。不機嫌を絵に描いたようなレイジの様子に、面白そうにツバメは笑う。



「んー。その様子だと、止しておいた方がいいかなぁ?」

「何がです?」

「女王様からの伝言だよ」

「言え」



 決して精神的によくない状態でも、ツバメに向けた眼光は鋭い。頼むものではない、明らかな命令口調。急に雰囲気を変え鋭さを増した視線に、ツバメは物怖じすることなくニンマリ笑う。



「荷物が届いていないそうだよ。正確に言えば箱は届いていたが中身が違っていた。その箱の中身は冷たくなっていた。送り主とは連絡がつかない。協力者たちもなぜ違っていたのか分からないそうだ。今は彼らも、四大公爵家の一つと騒動中。お蔭で荷物の乗った船は、一度沈められている。恐らくはその関係で、荷運びを邪魔されたのが妥当な線。彼らも捜索を始めるのに、時間がかかる。女王様は箱の中身を酷く案じている」

「届くはずだった荷物の中身はなんだ?」

「ワタシは知らされていない。ただ、女王様には不要なものだが、大事な存在」

「……まさか棺か?」

「ひっひっひっ。言っただろぅ、ワタシは知らされていない・・・・・・・・



 ある種の期待が入ったレイジの目をツバメはさらりと受け流し、身体を捻りながらぐるりと回転する。



「ところで、まだ家には帰らないのかい?」

「…………」



 明らかに含みのある話し振りに、レイジは半眼になりながら逆さまになるツバメを見た。あえて何かを抜いたように話すのは、どういった意図があってなのか。



「そう。ワタシは帰ったほうがいいと思うよ」

「何が言いたいんですか?」

「お姫さまは大事?」

「……否定はしない」



 質問に質問を重ねた会話は、すぐに打ち切られた。どうせこの場で正確な答えは、向こうから得られることはないだろう。

 レイジの回答にツバメは唇を歪め嗤う。たんっ! と、何もない空間を足場にするように蹴り、ツバメは滑るように後に下がっていく。



「なら、早く帰るんだねぇ。お姫さまが他者の・・・花嫁になる前に」

「どう言うことだ!」



 ぐにゃりと景色が歪み、溶けるように姿が消えた。

 引き止めるように伸ばした手は、虚しく空を掴む。



「くそっ!」



 レイジにしては珍しく悪態を表に出すと、急ぎ自宅へと駆け出した。

 他者の花嫁。現時点で考えられる相手は月牙だ。ならば動いているのは紅薔薇か。

 紅薔薇の行動が以前と違って早い。いや、確かにその兆候はあった。あの短期間での連続捕食。てっきり初入国に、浮き足立っていたのかと持っていたが、どうやら違ったらしい。……もしかして、月牙の花嫁は相当危ない状態で、それで焦っているのか。


 だが、月牙らしくない。あの男ならもっとじっくりと、それこそ当人の気付かぬうちに外堀を埋めていくタイプだ。下手をしたら囲われたことすら分からぬうちに花嫁になっているのが、あの男の常套手段。

 花嫁が自らその手を取るようにすることで、花嫁の親族から抗議の声を上げられないようにする。


 陛下の伝言も妙だ。なぜもっと早く知らせてこなかったのか? 死んでいるのが分かった段階で、陛下ならばするはずだ。話すことの出来ない中身。陛下が表立って捜すことが出来ない荷物。

 どう考えても、行き着く中身は一つしかない。陛下の少ない手札の一つ。下手をすれば、均衡を崩すきっかけにすらなりうる。



「やっぱり、あの子は棺だ」



 荷物は船で送られてきた。コーフィンも同じだ。協力者たちならば、記録を残さず運ぶことは出来る。場所と名前を知らず、人に会うと言われている。それが陛下の手に引き渡した後、処遇を決める事になっていたとしたら。



「何でもっと早く気が付かなかった」



 微かに、記憶に引っかかることはあった。

 提供者である棺は、総じて感情の大部分が欠落する。出生時に影響が与えられたからなど、様々な意見は出るが憶測の域を超えない。感情の欠落は幼少期から現れ、成人すればより確立されたものになる。

 定期的な提供のために、人である為に必要な感情を殺ぎ落とした存在になった、とさえ言われている。

 コーフィンはまだ子供だ。無表情ではあったが、多少なりとも感情は表に出ていた。


 何度か訪れた棺の代替わり。陛下のもとで会ったことがある。だがその誰もが会った時点ですでに成人しており、子供の棺にはまだ会ったことはなかった。

 荷物がすり替えられていなければ、下手をすれば棺は死んでいた可能性がある。すり替えられた先が、人身売買を行なう組織だったことで、買い手がついて日本に来た。その間に紅薔薇が居所を掴めなかったのは、幸運としか言い様がない。

 ならば誰がすり替えたのか、一番の疑問が出る。考えた所ですぐに答えが出るわけがない、レイジは頭を振って隅に追いやる。


 目下の懸念はミサトたちだ。二人がいるとすれば病院だろうに、なぜツバメは家に戻るように告げたのか。少なくとも紅薔薇が動いていること知っている医師ならば、外に出ることを止めるはず。

 夜間であることをいい事に、人目を気にすることなく移動する。ブロック塀を足場に民家の屋根に乗り、レイジは非常識極まりないショートカットを実行した。身体が軽い。ついさっきミサトの血液を摂取したことが原因だが、皮肉としか言い様がない。



「まさか僕を追いかけた、とかないだろうな」



 口に出してみて、思わず渋い表情になる。いくら何でも、自分に噛み付いてきた相手を追いかけるのはありえないだろう。

 見えてきた日本家屋の屋根。窓ガラスから、明かりが漏れていた。その玄関の外で、なぜかハツエがウロウロしていた。昨日の今日で、今回もまた非常識な帰宅方法をするのではないかと思われていたら心外だ。……半ば実行してしまったが。



「ハツエさん!」

「ああ! レイジくん、よかった帰ってきたのね!」



 頭上からかけられた声に、まったく動じることなく見上げたハツエの前にレイジは着地する。玄関扉の脇に、鉈が立てかけられていたのは見なかったことにした。

 ハツエはレイジの肩を掴むと、身体を揺さぶり始める。……どうやら単に動じる余裕がなかっただけらしい。



「ミサトちゃんたち、一緒じゃないの? まだ帰ってきてないのよ!」

「……帰ってきてない? 病院に連絡は? それと、ミサトさんの携帯!」

「携帯は繋がらないし、病院に連絡したらレイジくんを追いかけたきり、戻ってこないって」

「追いかけた……っ、何で!?」



 ミサトたちが追おうにも、医師が外に出すとは思えない。ならなぜ、外に出れた。

 そもそも、どうして追いかけた?



「……誘導と干渉か」

「どうしましょう、レイジくん」



 ハツエの動揺している姿は、本当に生きている人間と勘違いしそうだ。ハツエの手を肩からはずしながら思う。



「ハツエさん、とにかく落ち着いてください。僕はこれからミサトさんたちを捜しに行ってきます。ハツエさんはミサトさんの携帯に、五分おきにかけ続けてください」



 恐らく状況から携帯は病院の可能性が高いが、今は何かさせていた方がハツエも多少なりとも混乱が収まるはずだ。

 いいですねと、ハツエに念を押し、ぎこちなくハツエが頷き返すのを確認すると、レイジは大きく跳躍をして下りたばかりの屋根の上に飛び乗った。



「――まだ、『目印』は切れていない」



 まっすぐに前を見つめ、レイジは呟いた。

 少し考えれば、ツバメに言われた時に目印を捜せばよかった。すぐに出てこなかったことに、自分でも思った以上に動揺していたらしい。



「確かに、ツバメ・・・の言うように腕が鈍っている」



 目印としてつけた、加護のまじないですら驚くほど薄くなっている。

 人に文句は言えないな。自嘲するような笑みを浮かべると、レイジの姿は闇夜に消えた。



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