06・騒がしい部屋

 


「でまあ、そんな体質だからね、その特定の血液を持っていて、尚且つ定期的に提供してくれる人を、花嫁、花婿って言うんだよ」

「なんだろう、微妙に嬉しくない」

「偏食にとっては文字通り死活問題だから、花嫁花婿は大事にされるよ。それこそ異常なほど執着するから。ある意味で、歪みない歪みっぷりだね」



 笑顔で言われるそのセリフに、ミサトは泣きそうなる。歪みない歪みっぷりって、それ結局歪んでる!

 思わず頭を抱えるミサト。自分の常識からなる世界をぶち壊され、新たに建て直しが迫られているミサトを見て、医師はコッソリ笑った。




 にわかには信じがたいが、一部自分が体験し、医師から聞いた話を頭の中で整理をしていたら、時間が経つのは早かった。

 相手が普通の人間と違うのは、ミサトもこの目で見た。あの異常な身体能力は、人間で対処できるのか疑問だ。


 ミサトはコーフィンを診察室に待たせて廊下に出ると、隣の処置室の扉を見る。扉を開け、静かに、滑り込むようにミサトは部屋の中に入った。自分たちがいた診察室と似ているが、部屋に置かれている物は大分少ない。

 壁際にある診察台の上で、レイジは横になっていた。そっと近付くと、だらりと落ちていた腕を戻す。



「……だれ?」

「起こしてごめんなさい、レイジさん。私、ミサトだよ」



 うっすらと瞼を開くも、完全に目が覚めている訳ではないらしい。どこかぼんやりとした様子で、レイジはミサトに顔を向けた。

 ミサトは側にあった椅子に座るとレイジを見る。



「具合、どう?」

「…………お腹、空いた」

「あ、うん。帰ったらおばあちゃんがご飯作って待ってるよ」



 起きて早々空腹を訴えるとは、どれだけお腹が空いているのやら。心配と呆れが半々になった表情で、へこんだトマトジュースのパックを見る。

 室内の照明が眩しいのか、レイジは柔らかさとは無縁の枕に顔を隠す。



「喰べたい……」



 のろのろとミサトに向かって腕を伸ばしながら、レイジは言った。

 お腹が空いて、食べたい。伸びた腕を掴んで元の位置に戻しながら、ツバメがいった言葉を思い出す。まさかと思ってミサトがポケットの中を確認すれば、あの赤い粒が入った小瓶があった。


 ――倒れたりしたら『一粒だけ』、あげてくれればいい。



「…………大丈夫かなぁ」



 いくら何でも知り合いに毒を盛ることはないだろうと信じて、ミサトは赤い粒を取り出す。指先に乗る小さな粒を、レイジの口の中にそっと運び入れた。



「レイジさん」



 疲れた表情でミサトを見返すレイジの瞳、正確にはその虹彩の部分がほのかに緑がかっていることに気が付いた。

 レイジはゆっくりと体を起こすと、ミサトの肩を掴んで首筋に顔を埋める。親しい間柄ならばおかしくはないその動作。けれどミサトからしてみれば、同居人のカテゴリーでしかない唐突なレイジの行動に激しく戸惑う。



「ミサ、ト……さ、ん……」

「ちょ、ちょっと、レイジさん!」



 まるで猫がじゃれるように、すりよるように動くレイジの頭。あの滑らかな質感の髪が、ミサトの首筋をくすぐる。


 喰べたい喰べたい喰べたい……。今のレイジの頭には、この言葉しか浮かんでこない。

 空腹だ。だから喰べたい。腹が減ったら食べるのは当たり前だ。そして目の前・・・に、ご馳走はあるじゃないか。


 ああ、美味しそうな匂いがする――。


 大丈夫、すぐに済む。ほんの少し、齧ればいいだけ。ほら、まだ覚えている、まだ忘れていない。あの、懐かしい感覚を。さあ、口を開けて、その柔らかな肌に突き立てればいいだけだ……。


 ――痛いよ。


 突如頭に響いた言葉と、口の中に広がる暫らくぶりの味に、レイジの体がピタリと止まる。

 そうだ、ダメだ。ダメなんだ。痛いといった、痛がってもいた。ありえないことだった、ありえない事が起きた。信じられなかった、信じたくなかった。

 在るべきはずのものが、なかったなんて……。


 そう、だから僕は――出来損ない。



「レイジさん、だ、大丈夫?」



 なら、今、口の中に広がるこの味はなんだ? 美味しい、もっと欲しいと思うこの味。どこかねっとりとした液体が舌の上を流れる。軽い塩気と鉄の味、そして、特有の匂い。

 その正体と、自分の手が掴んでいる体の持ち主に気が付いて、一気に目が覚めた。ミサトを突き飛ばすように後に逃げ、レイジは壁に背中を張り付ける。


 辺りの物を巻き込みながら椅子は転がり、耳障りな音がこれでもかと鳴った。

 椅子から落ち、したたかに打ち付けた背中を擦りながら、怯えたように早い呼吸をするレイジを見る。



「……い、痛かった?」

「当たり前でしょうが!」



 怒鳴るような言い方に、レイジは子供のようにビクリと肩を震わせた。

 ここ最近こんな目に合ってばかりだと、口の中でミサトは愚痴る。



「まったくもー、今度は何の騒ぎだい?」



 あれだけド派手な音がすれば気が付くだろう。医師がコーフィンを連れて処置室に入ってくると、カエルかヤモリのように壁に張り付くレイジと、床の上に座るミサトの姿に首を傾げ両者を何度も見比べる。

 コーフィンがすぐミサトに駆け寄ってきた。医師はレイジとの間に遮るように立つと、扇子を広げてわざとらしく口元を隠した。



「喰った?」

「――っ!?」



 ミサトには意味が伝わらない医師の質問に、レイジの表情が一瞬で強張った。

 珍しくあからさまな変化を見せたレイジに、「寝ぼけて喰ったか、このアホが」と医師が苦い表情になる。



「お前なぁ、だからあれ程――」



 ため息をつきながら言い始めた医師の脇を、レイジは素早くすり抜け廊下に飛び出した。

 まさに脱兎。一瞬でミサトの視界から消えてしまった。



「え? もしかして、アイツ逃げた!?」



 レイジの行動に三人とも呆気にとられ、ようやく事態を飲み込むと、ミサトは慌てて廊下に出た。それなりに距離のある直線の廊下に、レイジの姿は既にない。

 放っておくことも気が引ける。危険人物がうろつく中、ぶっ倒れでもしたら大変だ。追いかけたほうがいい。

 それに何より、『外に行かなくてはいけない気がして』、ミサトは廊下を走り出した。



「ちょ、ちょっと! 具合悪いんだったら安静にしてないと、レイジさん!」

「逃げるのダメ」

「って、君たちまで!?」



 台風が通り過ぎるように廊下に出た二人の背中を見ながら、医師は場を支配しようと扇子を持った腕を動かす。

 謝罪は後ですればいい。レイジのいない状況で、あの二人を外に出すわけにはいかない。



「待つんだ! 二人と――」



 医師が最後の動作、横一線を引こうと腕を動かした時、処置室の中で影が動いた気がした。自身の『場』の中の出来事に、思わず医師の腕が止まる。

 処置室の影が、床に転がる何かを拾った。



「誰だ!」



 パチリと扇子を閉じ室内へ向けると、医師は声を張り出す。



「そんな大声出さなくたって、ちゃぁんと聞こえているよ。ウサギのお医者さん」

「ツバメ……なんでアンタがここに」

「回収しに来ただけだよ」



 ツバメは唇に笑みを浮かべたまま、医師に向けてあの小瓶を見せた。ミサトがレイジに突き飛ばされた時に落ちた物。カラカラと中身の音を立てながら、小瓶を手の平の上で弄ぶ。

 あの瓶はなんだ? 毒々しい赤い小さな粒、ツバメが回収にきたもの、レイジの動き、それを摂取させることが出来る存在……。



「まさか、彼女の血液――!?」

「君がきちんと保管していたから、ちょおっと取り出すのが大変だったよ」

「アンタ、一体何を考えてる」

「ひっひっひっ。格と名を剥奪された名無しのウサギが、ワタシを理解できるのかい?」



 倒れた椅子を直し悠然と腰かけるツバメに、医師は不愉快だと眉間にびっちり皺を寄せる。誰しも触れられたくないものがある。それを平然と口にするのが、このツバメという男だ。



「狂った道化が」

「やれやれ。ウサギのお医者さん、勘違いをしたら困るよ。ワタシは道化じゃない。愚者ぐしゃだ」

「何の目的があって、彼女の血液を摂取させた」



 しかも、当人にわざと勘違いさせるような摂取方法を使ってまで。



「目的なんてご大層な物はないよ。ただ、時として空腹はこれ以上ないほど精神を追い詰める。ひっひっひっ。いやぁ見ものだったね、あの表情は!」

「悪趣味が過ぎるぞ! ツバメ!」



 目に霞む勢いで医師は扇子を垂直に振り下ろした。一直線に走る風が室内に線を刻み込む。抉れコンクリートを剥き出しにした床に、切り裂かれた薬棚。

 それでも、その直線上にいたツバメは変わらなかった。違うとすれば、二つに分割され倒れた椅子の脇に、ツバメが立っていることだ。

 ツバメの唇が驚いたように小さな声を上げた。目隠しの向こうから視線をめぐらせ、ニンマリ笑う。



「さて、そろそろ行ったほうがいいかな?」

「何をするつもりだ!」



 一歩ずつ医師へと近付きながら、ツバメは小バカにしたように鼻で笑う。足を進めるごとに薄くなっていく身体と存在感。避けることなく、ツバメは医師の身体をすり抜ける。



仮屋ココから動けない君には、話したって無意味だろぅ」



 わざとだ。わざと今の言葉を聞かせやがった。怒りに奥歯を噛み締めて後ろを振り向くと、既にツバメの姿はない。

 姿の消えたツバメに向かって医師は小さく悪態を付くと、無事だった机の上の電話に手を伸ばした。覚えている番号を押せば、受話器からコール音が鳴る。

 そしてその音が繋げている先の携帯の着信音が、医師の後ろからした。顔を引き攣らせながら診察台を見る。枕元の荷物入れにはレイジの鞄が置かれたままだ。鞄から頭を除かせる携帯の、着信ランプがむなしく光る。



「あのバカがっ!!」



 その脇に、あの愛用の手帳があることに気が付いて、医師は声を荒げた。



■□■□■



 効果音で表すならトボトボとした歩き方で、コーフィンはミサトに手を引かれながら道を歩いていた。病院の敷地の外、――と言ってもそれほど離れていないが――に出てみたものの、レイジの姿は見当たらなかった。

 傾き始めている太陽に、帰宅途中の小学生の集団。午前中に来たはずなのに、なんでこんなに時間が経っているのか? おかしい、昼前には帰宅しているはずだったのに。

 レイジの逃げ足の速さに驚かされつつ、色んな意味で起き始めた頭痛に、ミサトはこめかみを揉み解す。



「ミサト、大丈夫?」

「あ、うん。大丈夫だよ」



 コーフィンに視線を合わせるように屈んで、ミサトは安心させるように笑う。



「今日いろんなことがあったから、びっくりしすぎて疲れちゃっただけだよ」



 むしろここ最近驚くことだらけだけど……とは、口が裂けても言えない。他称ではあるが、曰くつき物件で家政婦幽霊なハツエと生活していても、物には限度があると思う。

 はぁっとミサトは息を吐く。不用意な外出は危ない気がする。暗くなる前には室内にいたほうがいい。



「もうちょっと捜して見つからなかったら、大人しく病院戻ろうか。もしかしたら戻ってるかも知れないし」



 落ち着かせるように軽く頭を撫でても、コーフィンの表情は曇ったままだ。きゅっとミサトの手を握ると、何かを言いたそうにするも結局口を閉じ俯く。



「コーフィンちゃん? どうしたの」

「意識干渉しておいて正解だったわ」



 聞こえてきた猫なで声に、ざわりとミサトの肌が粟立つ。背筋に寒気が走る。声の聞こえた方向から、コーフィンを庇うようにミサトは背に隠した。

 声の主を見れば、昨日、人に噛みついてきたあの豪勢な赤毛を持つ女。耳に当てていた携帯を閉じると、恐ろしいほど綺麗に笑う。



「あ、あなた……」



 あの金色の瞳。真っ赤に染まった血が滴る犬歯に唇。唐突に思い出して、無意識に体が震える。治り始めている傷が、痛みを訴える錯覚さえ感じた。

 目の前のこの女が、吸血鬼。



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