04・密談の場所
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ピクリと動く指先に薄く開く瞼。戻ってきた触覚。頬が冷たい何かに接していた。
意識が浮上するなり、レイジは盛大に咳き込んだ。
「お疲れー」
重病人のような咳き込みに方に、肺の空気は吐き出される一方だった。
リノリウムの床に爪を立て、背中を丸めるように激しい咳を繰り返すレイジを、閉じた扇子を口元に当て、医師は冷ややかに見る。
「だから言わんこっちゃない。その状態で干渉するからそうなるんだよ」
「黙れ――っ」
ヒュウヒュウと喉を鳴らしながら、レイジはギロリと医師を睨みつける。医師は肩を竦めると、呆れつつもレイジの背中をさすった。
「んで、干渉相手は紅薔薇?」
「ああ……」
体を起こし立てた膝に頭を乗せ、レイジは胸元を軽くさする。急激な咳き込みに喉が痛い。まだ収まってはいないらしく、小さな咳が出てくる。視線を横へ動かせば、動揺した少女の表情が見えた。
なんだ、ちゃんと感情が出せるじゃないか――。
「戻りが遅いねえ。ちゃんと引き上げたんだろ?」
目の覚めないミサトを見ながら、医師が言う。
「ギリギリまで引っ張りましたよ。ただ、最後は自力になるので……」
長く息を吐きながら、声を絞り出すようにレイジは言った。このまま一寝入りできそうな気がしてくる。というか、本当に寝たい。今はもう、考えることすら億劫になってきている。
酷い倦怠感と眠気、いっそう強くなる空腹。まずい。後三週間も持つ気がしない。
それでも、早めるという選択肢がレイジには選べない。“目の前の”ご馳走に、口をつける気はもっとない。
「じゃあ、念のため彼女診ておくか。お前はどうする?」
「ここで寝てます……」
言うなりぱたりと廊下に横になるレイジに、医師は呆れ顔だ。床に倒れたままのミサトを抱え上げると、コーフィンを手招きして診察室へと連れて行く。
扉が閉まれば音はなくなる。自分の呼吸音だけが虚しく響く。平日だ、それもまだ外来が行なわれている時間。なのにこの別棟は、そんな雑然とした在るべきはずの音が存在しない。
ある意味で寝るには最適な環境。体温で暖まってきた床に、今度こそ本当に体を預ける。
――あの場所と、似ている気がする。
医師は別として、この病院は居心地がいい。静かで、聞こえてくるのは自身が発する音だけで。鎖が這うあの部屋に行っても、それは変わらない。いつも案内をかって前を歩く女性は、異様なほど気配を感じず。足の動かし方一つとっても、“彼女は”音を立てることを極力控えていた。
表情の変化もなく、ほとんどの感情を持たず、その心を冷たく閉ざす。見ているはずの女性の瞳、けれどそこには何も映らない。
静謐が支配する暗い部屋、そこに立つ一人の女性の姿。不意にその姿が、コーフィンと重なった――。
「もしかしてあの子は……」
ずっと感じていた違和感。爪で引っかかれるような、ほんの小さな刺激。
そこでようやく、レイジのおぼろげな記憶のピースがカチリと嵌った。
そうか、前から見ていたからか……。気配のなさ、感情の変化に乏しい表情、あの時の瞳。一瞬、体が硬直したのはあの女性が原因だ。まるで条件反射のように身構えた、自分にとって必要な存在だと無意識に反応して。
「棺……なのか?」
もしそうなら、名札をつけて歩いている状態に疑問を持つ。あの少女は、果たしてそのことに気付いているのか。
どこまで知っていて、どこまで知らされていないのか。人に会うことは知っていた、けれど名前は知らされていない。
一番確実なのは
いやな予想だけは当たってくれるなと思いながらも、頭の中では女王に面会の取次ぎをしなければと、矛盾したことを考え始める。
「彼女は異常なしだったよー」
診察室から出てきた医師に、レイジは億劫そうに視線を向けた。
逆さまに見える医師は床に横になるレイジを引っ張り上げて、腕を自分の肩に回す。そのまま体を支えると、レイジを連れて処置室の中に入る。
「で、どーすんの。今の君、激ヤバでしょ。間違いなく、消費を減らすための休眠状態に身体が誘導している。ヘタしたら数年棺桶の中だよ」
部屋に入るなりレイジは、診察台に投げ落とされた。寝るには硬い診察台の上に放り出されたわけジだが、床よりマシだと思って文句も言わず体を横にする。
「今時棺桶で寝る奴は、人間ぐらいだ」
「寝るのは生きてる人間じゃないだろが、たく。のん気に寝てみろ、またゴルフクラブで殴り飛ばされるからな」
レイジの頭の横に紙パックのトマトジュースを置くと、医師は身体を調べ始めた。
「陛下の棺、そろそろ危ないのか?」
「もっても二十年が限界だろう、早ければ十年もたない。すでに七十年以上提供しているんだ、無理もない。それに彼女の提供先は、僕だけじゃない」
「あっちの偏食者は、昼にも夜にも殆んど出てなかったな」
医師は把握している、もう一人の偏食者の顔を思い出す。最後に会ったのはいつだったか? すでに顔もうろ覚えだ。
「新しい棺は見つかってないみたいだしな」
「……今のところは」
確証はないが候補は見つかった。それも、目と鼻の先で。
ただ、それを医師に話す気はない。言ったら最後、ほぼ間違いなく喰って確認しろと言う。コイツはそういう男だ。
「なにしろ条件が条件だ。昼に出るような話じゃない。感動的な話になるより敬遠する。とくに向うは、気味が悪いといって隠す家が多い」
「……臨月を迎えて死んだ、妊婦の腹から生まれた子供、だもんな。確か母体は死んでから時間が経っていることと、赤子は呼吸が止まった状態で産まれてこないといけないんだっけ」
「そう。今は、どちらの条件も満たす事態は滅多にない」
「そこまで分かってるなら、諦めて花嫁迎えろよ。このままだと本気で棺桶コースになるぞ、お前」
「無理だ」
「彼女、花嫁なんだろ。だからお前は傍にいる、違うか?」
レイジは深く息を吐いた。血の気のない肌を見せる顔に、疲労の色が濃い。見かけは青年なのに、急に老け込んだ気がしてくる。
「……否定はしない」
「呆れた奴だな」
医師の手が離れると、レイジはトマトジュースのストローに口をつけた。腹を擦るレイジの腕を見て、間に合わせにもならない様子に、医師の不安が首をもたげる。
あっという間に潰れたパックに、医師は諦めにも近いため息をつく。
「いい加減腹を括れ。陛下の剣でいたいのなら」
「……死体から補えれば、まだマシだったのにな」
そう、皮肉げにレイジは呟く。 棺ではなく死体と、レイジは言った。まるで試したことがあるような、そんな口ぶりに医師は引く。腐敗が始まっていなければ、ギリギリ摂取できるかも知れないが、それにしたってえらくグロイ手段だ。
だが、偏食者が死体を試す理由が分からなくもない。棺はその出生条件から、内包者と呼ばれている。
死を内包した存在。故に棺――。
だから、それに最も近い死体を選んだ。
そして死体は、生きて死を内包している訳じゃない。死を体現しただそこに在る、朽ちるのを待つだけの存在。
「彼女たちはどうする?」
「…………」
医師が声をかけても、レイジは答えを返さない。静かに目を閉じる様子は、一見すると死んでいるかのようにも見える。浅く小さな呼吸とともに上下する胸を見なければ、勘違いをしそうだ。
「仮休眠に入っちゃったか……重傷だね、君。前も同じ事やっただろうに」
医師はレイジとの付き合いは長いが、目の前で仮休眠にまで入ったのを見るのは初めてだ。
「……君には説明責任があると思うんだけどねぇ。仕方ない、目が覚めたら私が代わりに話しておくか」
彼女たちにどこまで話すべきか……。気の重いまま医師は、レイジの眠る部屋を出た。
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ごぷりと、大きな空気の塊が上へと向う。
目には見えない水のようなものを掻き分けながら、ミサトも同じように微かに明るい上を目指す。手足を動かすが、まるで体中に蔦か何かが巻きついている様で上手く動かせない。途中でレイジの手が離れてから、ひたすらもがくように動いている。
――ここまで来たら大丈夫、あとは上に行けばいいだけだよ。
離れる寸前に耳元で、レイジのそんな言葉が聞こえた。見上げれば確かに、上と思われる場所は明るいのだ。離れたレイジの姿を捜すも見当たらず、仕方なくミサトは一人で上を目指すことにした。
「やぁ。ちょっと前ぶりだね、お姫さま」
聞いたことのある耳に絡みつく低い男の声に、ミサトは思わず振り返った。振り返った先にある姿は、ミサトの予想通りで。
あろうことかツバメは、上下逆さまになった状態で立っていた。逆さになっているくせに、あの長い髪や服の裾がひっくり返っていないとはどういうことか?
「こ、この間はどうも。えーと、なんでここに?」
「ここは夢と現実の狭間。渡れる者には来れる場所」
「はぁ。夢と現実の狭間ですか。つまり私は今、半分寝てるってことですか?」
「正解。だから早く起きないとね。お姫さまはお寝坊さんだ」
あの不気味な笑い方をしながら、ツバメはどこから取り出したのか、小瓶を手の平に乗せた。中にはやたら毒々しい、赤い小さな粒がいくつか入っている。
「そうそう、お姫さまにお願いがあるんだ。今ね、レイジ君物凄く調子が悪いんだよ」
「そう言えば、昨日今日ってやけに眠そうな感じがしてましたけど」
思い出すようなミサトの口ぶりに、ツバメは満足そうに頷く。
「でね、コレ、あげてくれないかな?」
「何ですか、コレ?」
「レイジ君が元気になる薬だよ」
指先で摘むように小瓶を持つと、ミサトに中を見せるように揺らす。瓶の中であの粒が、カラカラと小さな音を立てる。その動作に、ミサトは胡散臭そうにツバメを見た。
「怪しい薬にしか見えないんですが……」
「ひっひっひっ。酷いなぁ、そんな
「そうですけど。でもその見た目じゃねえ」
「倒れたりしたら『一粒だけ』、あげてくれればいい。あげすぎはダメだよ。身体によくない」
やけに一粒だけを強調して言うなぁと、ミサトは思った。ただまあ、毒々しい見た目の割に味はいいのかもしれない。ほら、どっかの児童小説にも、変な見た目と名前を持ったお菓子があったじゃない。
するりと近づくと、ツバメはミサトのポケットに小瓶を入れた。ツバメはぐっと顔を近づけて、
「お腹が空いて喰べたいって、お姫さまにオネダリしたらでいいよ」
「後半を付け加える意味があります?」
コテンと首を傾げると、ツバメは口角を上げた。
「男女の機微は、ワタシが理解したくない程に複雑だよ」
「なんでそうなるの! 言っておきますけどね、私とレイジさんはそんな関係じゃありません!」
「うん、知ってる。お姫さまはただの花嫁だもんね。じゃあ後よろしくねぇ~」
「はぁっ!? ちょっと待って! 花嫁ってなにそれ!? 違うって! そんなんじゃ――っ!」
「七ヶ月と九日前、彼氏と別れたでしょ?」
「――なっ!? 何でそれを!?」
「しかも電車の人身事故で、十一分三十七秒の遅刻が原因」
「なんでそんな細かい単位で知ってるの!?」
一体どこで見ていたのか。ツバメの言葉は的確にミサトに突き刺さってくる。
ああ、そうさ! 別れたさ! 僅か一回の遅刻でフラれたさ!「そんなことも想定出来ないのは、だらしがない証拠だ」とか言われたよ!
だいたい自分の乗った路線が、線路にダイブな人身事故に遭うかどうかなど、予期出来るか!!
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