03・望まない状況

 


「ミサト、一日、どこ行く?」

「ん? どこって、そんなに出かけてないよ?」

「違う。朝出て、夜帰る。出かける、違うか?」

「ああ、それは会社、お仕事に行ってるんだよ」



 仕事は理解できているらしいが、何か気になることがあるのか、コーフィンはコテンと首を傾げた。



「何してる?」

「えっとね、チーズケーキを作って売ってるの。そこそこお客さん来るんだよー。今日はね、外国のお客さん来たんだよ。めっちゃスタイルよくてね、銀髪に青い目をしたお兄さんだった」



 少し話をしたが、内容は妹の使いっパシリにされていた感がある。ちょうど焼きあがっていたクッキーの匂いにつられて、「美味しそうな匂いがしますね」と爽やかスマイルで言ってくれた。

 実にいい目の保養であったとミサトは思う。



「チーズケーキ?」

「そ。気になるなら買ってくるよ! 大丈夫、社販で買えるから!」

「しゃはん?」

「えーとね、社販って言うのは従業員割引のことで――」



 続きを言おうとして、ミサトは一瞬止まった。少し先の道の端で、それはそれは熱い抱擁をなさっているカップルが視界に入る。

 いくら人通りが少ないからって、そういう事は他所でお願いします。ばったり居合わせたこっちが気まずい。

 呆れながらも、なるべくその方向を見ないように、ミサトはコーフィンの手を引きながら足早に通り過ぎようとした。



「う、うぅ……」



 後少しでやり過ごせると思ったミサトの耳に、男の呻き声のようなものが聞こえた。妙な声に思わずミサトは顔を向ける。

 視線の先は相変わらず抱き合ったままのカップルで――けれど、男の肩に顔を埋めていた赤毛の女と視線が合った。けして貧弱な体躯ではない男が、音を立てて地面に倒れたのはこの時だ。


 ミサトと目が合った女は、真っ赤に染まった口元を乱暴に拭うと、その形のいい唇を吊り上げた。

 ざわりと、全身の毛が粟立つ感覚。驚きと、本能的に感じた恐怖に、ミサトはコーフィンの手を引いて駆け出す。



「あなた、『アイツ』の匂いがするわ」

「――っ!?」



 いつの間に追い越したのか? 踏み出したミサトの前を塞ぐように女が立つ。微かに揺れる赤い髪、人を値踏みする様に動く金色の瞳。街灯の明かりが、女の唇の隙間から、異様な犬歯を浮かび上がらせた。



「何かしら? 何故かしら? どうしてかしら? アイツの他にも匂いがする」



 歌うように口ずさみさなら、女はミサトが背後に庇ったコーフィンを見て、その目を大きく開いた。



「あら、やだわ。こんなに簡単に見つかるなんて」



 この女は、一体何を見つけたのか。「これならあんなに労力を使う必要なかったじゃない」と、不満気に女は言った。

 何だか、ヤバイ方向に向かっている気がする。ほとんど直感だった。ごくりと唾を飲み込みながら、ミサトは少しずつ後ろに下がる。



「そうねぇ、男は食い散らかしたばかりだし。口直しに女もいいかも。大丈夫、じっとしてればすぐに気持ち良くなるから」



 聞く人が聞けば、色々な意味でぎょっとするセリフを吐きながら、女はミサトが避ける間もなく飛びかる。

 まさに瞬間。一瞬で距離を詰めた女がミサトの肩を掴んだ。女のものとはとても思えない強い力に、掴まれた肩が悲鳴を上げる。音を立てながら皮膚に食い込む爪が痛い。



「――っ!」

「はぁ――やだわその顔、すごくイイ」

「うげっ!」



 見るからに恍惚とした表情の女に、この人絶対Sだ! と、ズレたことを思う。コーフィンの手を放して、女の腕を掴む。ドサリと買い物袋が地面に落ちた。

 その手を外そうとしても、ビクともしない。すごく細い腕なのに、なぜこんなにも力があるのか。


 突如、ぽすんと軽い音をたてて、女の頭に白い何かがぶつかった。役目を終えて地面に落ちたそれは、買い物袋に入った小さな箱で。

 それがコーフィンが持っていたお菓子の袋であると、ミサトはすぐに気が付いた。



「あ……」



 ミサトたちから少し離れたところで、真っ青な顔をしてコーフィンは立っていた。



「忌々しい子供……!」

「逃げて! コ――っ!」



 女が片腕を振り下ろした。風を切るような、という表現が当てはまるような勢いだった。

 ミサトの視界の端で、コーフィンの体が見えない何かに跳ね飛ばされた。砂利の上を滑るような音をたてて、何度も地面を転がる。冗談抜きに何メートルも転がって、その小さな体はようやく止まった。



「コーフィンちゃん!!」



 ガクガクと腕を震わせながら上半身を起こすと、コーフィンは何度も咳き込む。吐き出すような咳き込み方に、妙に赤みのある液体が地面に広がった。

 冷たい瞳でコーフィンを一瞥すると、女はミサトを見てニタリと嗤う。


 ――どこからどう見てもヤバイ目だった。暗に、お前もこうなるぞと言うような、そんな目だ。

 女が掴む手に爪を立てながら、ミサトは必死で抵抗する。



「放してっ!」

「大丈夫、じっとして……」



 明らかにイった目をした女が、ミサトの首筋にその牙を突き立てた。皮膚を破り肉を裂く感覚に、噛み付かれた場所が痛みと共に熱を持つ。

 ざらりと、女の舌が皮膚の上を滑る感触に、ミサトの中で何かが音を立てて切れた。



「いっ! たいってーのっ! この、変態女がっ!」



 叫びながら、ミサトは怒りに任せて女の腹に鞄を打ち込む。手加減なしの勢いだったのに、女にはなんの影響もなかったらしく、そのまま血を舐めとる行動を止めなかった。

 うなじがザワザワと鳥肌を立てている。

 不意に、世界が真っ白に染まった。



「キュー!」

「シラタマ!?」

「ちょっと、何これ!?」



 目も開けていられない状況の中、弾き飛ばされるように体が解放された。

 アスファルトの上に叩きつけられる。正直言って地味に痛い。痛みで目じりに浮ぶ涙を、ミサトは慌てて擦り取った。急いで体を起こすが、正面が分からない。

 早く、コーフィンのところに行かないと――!


 視界が開けたらすぐにでも動けるようにして、ミサトはジクジクと痛む首筋に手を当てた。粘度の高い生暖かい液体の感触、しかも大量だ。――どう考えても血液。目を閉じたまま傷口を強く押えていれば、腕をつかまれた。

 あの女かとミサトは反射的に体が強張るも、聞こえてきた声にその力が抜けた。



「ミサト」

「……コーフィンちゃん、大丈夫? 動いて平気?」

「平気。大丈夫じゃないの、ミサト」



 少し力の入っていない声でコーフィンは答えた。

 やがて瞼を閉じたままでも分かる強い光が収まると、ミサトはゆっくりと目を開く。


 目の前に広がるのは同じ場所の景色で、ただ、呆然としたような赤毛の女が、口から血を垂らしながらミサトを見る。むしろ周囲に変化がないだけに、逆に不気味すぎる光景だ。

 キッと女はミサトを睨むと、その口からとんでもない事を言い放った。



「まっず!! 嘘でしょ!? なんであなた、こんなに血が不味いの!」

「ちょっ、不味いってなによ! 健康診断オールAの私に失礼なこと言わないでよ!」



 なんだろう、被害者なのに酷い言われようだ。人の首筋に噛み付いて、血を舐めておきながら貶すとかありえない。血を吸う蚊なんて、何も言わずに叩かれる運命なのに!



「ああ……そういうこと、そういうことなのね」



 何に合点がいったのか、女は納得したように言うと口元を拭った。すっと姿勢を正すと、恐ろしいほど綺麗に、且つ艶然と微笑む。



「ねぇあなた、後ろの子供を連れて一緒に来なさい。悪いようにはしないわ」



 出てきた言葉はどこぞの悪役のような、まったく信用できないセリフだった。今しがた自分を襲った犯人を目の前にして、ホイホイついていく人間がいる訳がない。

 逃げるにしても、目の前の女は異常なほど素早く動く。ミサトの後など追いつくどころか、追い越した挙げ句先回りをするのは簡単に想像がつく。

 どうする、どうしたらいい。さっきは不意打ちだったから効果があった、恐らく二度目の目くらましは効かない。電話をするような行動をこの女が見逃すはずもないし、なら、どうすれば――



「そこで何をしている!」



 後ろから、男の怒鳴り声と共に強い光が女を照らす。地面に倒れる大きな金属音と近づく足音に、ミサトは咄嗟に声を上げた。



「たっ、助けて!!」

「チッ――!」



 悲鳴に近いミサトの声に、女は小さく悪態をつく。一度睨むようにミサトとコーフィンを見ると、女は人間離れした跳躍力で高くジャンプした。地上から二階建ての屋根の上におり立つと、そのまま走り出す。

 カンカンカンと、ヒールが瓦の上を叩く音が遠のいていくのを聞きながら、ミサトは呆然と女が逃げた方向を見上げた。



「嘘でしょ……」

「大丈夫ですか!?」

「は、はい」



 ミサトを庇うように立った人物の服装が警察のものだと分かると、一気に体の力が抜けた。ぺたりと、地面に腰が落ちる。冷たい感覚が、足から伝わってきた。



「傷害事件発生! 負傷者三名、 至急救急車をお願します! げ、現場から赤毛の女が東方向に逃走。場所は――」



 恐らく、女のありえない逃走方法を見ていただろう警官が、上ずった声で無線にむけて話す。



「ミサト」



 泣きそうな顔で、コーフィンがミサトを見た。どこに忍び込んでいたのか、その肩にシラタマを乗せながら。



「大丈夫、もう大丈夫だよ」



 コーフィンを抱きしめながら、自分自身にも言い聞かせるように、「大丈夫」とミサトは何度も繰り返す。

 べっとりと肩に張り付く服に、微かにする血の臭い。痛みに顔をしかめることすら我慢して、ミサトは彼女の小さな背中をさすった。

 騒ぎに気付いたらしい近所の住人たちが、何事かと声を出し合いながら表に出てくる。にわかに色めき始めた現場、現れる人の山。集団を押し止めるように、警官が奔走していた。


 彼らの視線の先には、地面に横になったまま動かない男と、小さな少女を抱きかかえる、肩を血に濡らした女。

 異様さすら感じるその視線から隠すように、ミサトはコーフィンを強く抱きしめた。

 どれほどの時間がったのか? ようやくミサトの耳に、救急車とパトカーのサイレンが聞こえてきた。



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