05・名前のつづり

 


 しばらくミサトとハツエを交互に見比べていたが、ハツエが「お上がりなさい」と微笑みながら言うと、おずおずと靴を脱いでスリッパに足を入れた。

 廊下を歩く少女の足元からパタパタと音が立つ。



「ところでミサトちゃん、この子の名前は?」

「……あ! まだ訊いてないや」



 まさに今、気が付きました! と言わんばかりの表情に、隣のハツエからブリザードが吹き付ける。本当に寒気を感じるのだから恐ろしい。

 いろいろ恐ろしくも奇妙な事態に巻き込まれて、それどころじゃなかったのだから見逃して欲しい。

 ひょこりと少女の前で屈むと、ミサトは握手を求めるように手を差し出す。



「紹介遅くなっちゃったね、私はミサトだよ。あなたの名前は?」

「…………コーフィン。みんな、そう呼ぶ」



 そう言うと、差し出されたミサトの手に軽く触れる。



「コーフィンちゃんね。隣にいるのは、ハツエおばあちゃんだよ」

「ハツエよ。よろしくね」



 ミサトに送っていたブリザードをあっさり引っ込めると、人の良さそうな笑みを見せながらコーフィンの手を握った。

 ハツエの手は冷たくはないだろうか? と思ったものの、コーフィンは特に驚くこともなかったらしい。あっさりと握手をする。

 ミサトがハツエを見ると、軽くウインクで返された。どうやら体温を感じられるように調節をしたようだ。



「もう、こんなに体を冷やして。ささ。お風呂の準備はしてあるから、先にこの子を入れてきちゃうわ」

「あ、うん。お願いします」



 こういう時は、子育て経験のある人に任せた方が安心できる。あっさり後のことをハツエにまかせてミサトは台所に向かうと、テーブルの上にトマトの箱を置く。

 視界に入る、食器棚の隣に存在するダース単位のトマトジュース。鞄の中の携帯を取り出してみるも、メールと着信の知らせはなかった。



「む……。レイジさんに仕事があるのは良いことなんだろうけど、早く帰ってきてほしいな」



 困ったように呟いて、ミサトは白粉おしろいを取り出しながら居間へ入った。



「シラタマー。ごはんだよー」



 一時的な避難場所となっている小物入れの中を覗きながら、ミサトは声をかける。くすんだ灰色にやや青みがかった毛色に変化はなかった。良くはなっていないが、悪化してもいなそうなことにほっとする。

 さっそく箱から出して、買った白粉をシラタマの側に置いてみる。近付いて匂いを嗅ぐと――食べ出した。



「……やった! シラタマがご飯食べた!」



 勢い良く食べているわけではないが、食欲は戻ってきたらしい。食事の邪魔をしないようにひと撫でして、シラタマが最初に入っていた漆の小箱も蓋を外しておいて置く。

 人間と同じか分からないが、食べたら眠たくなるかも知れないし……。


 ミサトが居間でシラタマの体調に一喜一憂していた頃、コーフィンはハツエによって全身洗われていた。

 体を冷やすわけにはいかないと、手早く洗って湯船へと促し、ハツエは脱衣所に戻った。少し緩くなった襷を締め直し、コーフィンの脱いだ服を纏める。



「ちゃんと肩まで浸かって暖まるんですよ」

「ん」

「着替えは持ってきますから、それまで寒いから外に出ちゃだめですからね」

「ん」



 コーフィンが着ていた服のタグを確認しながら、ハツエが言う。返ってきた返事は実に短いものだが、湯船に入る音が聞こえたので、了承はしたらしい。

 洗濯機のボタンを押して、「さて、着替えはどうしましょう」と呟きながら、ハツエは脱衣所の扉を閉めた。濡れていたはずのハツエの着物は、廊下に出る頃にはすっかり乾いていた。

 遠ざかる足音を聞きながら、コーフィンは口元までお湯に浸かる。



「……グランマ、同じ。でも違う」



揺れる水面を見ながら、短く言った。



+++++



 コーフィンの服を探し、ご飯を食べさせ、寝る場所の準備をしてと、久しぶりにミサトは慌ただしく動き回った。正確にはハツエに扱き使われた、になるが。

 やっと一息ついた頃、ようやくレイジが帰ってきた。



「迷子? ミサトさんの隠し子とかじゃなくて?」



 怪訝な顔でトマトに手を伸ばしながらレイジが言った。なんだろう少し前に、ハツエが言ったセリフと変わりない内容に、ミサトは額に血管が浮かんだ気がした。

 ペコリと、軽くチューハイの缶が凹む。



「トマトを没収されたいらしいね」

「すみませんでした……」



 引き気味に言うレイジを、ミサトは据わった目で見る。こっちはいろいろと混乱する事態に巻き込まれたというのに、どうしてこうも笑えない冗談を言うのか。

 帰ってきたレイジに小声で手短にコーフィンの話をし、トマトが依頼料と言えばあっさり快諾。相変わらずトマトには目がないなと、おつまみの柿の種を食べながらミサトは感心する。

 トマトがあれば他に何もいらないと、豪語するだけのことはある。



「それであの子を連れてきたんだ」

「そ、だから私の子ではありません」

「うん。まあ、顔似てないから予想できたけど」



 分かっているなら悪ノリすんなよと、ミサトは心の中で抗議する。

 台所から、ハツエが注意を促す声が聞こえてきた。一足先に夕食を済ませたミサト達の食器の片付けを、無言で手伝い始めたコーフィンは、やや危なげな手つきで皿を拭き始めていた。


 食事の間もジェスチャーと短い返答でやりとりが続いていたが、まったく喋れないわけでもないらしい。

 訳ありなのは分かるのだが、どうしたものかと考えること十数回。

 何しろ、事件事故に巻き込まれた可能性があるのだ。もし、迷子届けやそういった連絡が出てなかったらどうしようと、不安が頭を掠めたがここまできたら仕方がないと腹を括った。最初から誘拐犯扱いはしないハズ……、そうだと信じるしかない。そうであってほしい、切実に。



「それにしても、凄い名前付ける親がいるね」

「ん? どう言うこと?」

「コーフィンって多分さ、綴りがこうだと思う」



 言いながら、レイジはテーブルの上で指先を走らせ文字を書く。

 coffin――。

 書かれた文字は英単語だとミサトにも分かった。が、いかんせん日本語訳が分からない。



「えっと、意味は?」



 さっぱり予想のつかない単語に、あっさり匙を投げたミサトにレイジは苦笑する。コーフィンの耳には入れたくないのか、レイジはミサトの耳元で小さく言った。



「……棺って意味だよ」

「――!?」



 「本当に?」と視線だけでミサトは問いかけ、その視線にレイジは一度頷く。

 こっそり息を吐きながら、レイジは台所の踏み台の上に立つコーフィンの姿を見る。

 側で見ていると造形の整った顔立ちに、どこか人形めいたものを見ている気がしてくる。表情の変化には乏しいらしい。ミサトの話では、こちらの質問に短いながらもきちんと応えている。けれど、自分から多くを話す様子はないらしい。


 ――何処かで、とても近い存在を見た気がする。

 思い出そうと何度も頭をフル回転するも、どうにもソレらしいものが出てこない。

 ほんの少し頭の中に引っ掛かる感覚に、レイジは首を捻る。



「それで、その変質者っていうのは?」



  向けられたレイジの質問に、ミサトは一度コーフィンに視線を向けた。落とさないように大分集中しているらしく、こちらに視線を向ける様子はない。それを確認すると、小さく話し出す。



「――と、まあそんなところです。未だに悪い夢みたいな現実だ」



 ぼそりと呟きながら、その時の感触を思い出したのか、ミサトは腕を擦った。



「水風船みたいな人間ねえ。とてもただの変質者とは思えないね」

「あれがただの変質者なら、世の中の変質者を見る目が180度変わる自信がある」



 そもそも人間のカテゴリーに入っているのかすら疑いたくなる。



「入り組んでいるうえに変な場所だったし」

「ああ、あの場所ね。店には無事に行けたんでしょ?」

「あれを無事って言えるのか気になるけど……とりあえず行けたよ。白粉買ってきたし。シラタマが問題なく食べた」



 さっきミサトが小物入れを覗いた時には、最初にシラタマが入っていた小箱にちょこんと収まっていた。寝ているのか起きているのか謎だが、毛色が少し白く戻ってきていたので、体調はよくなってきているらしい。



「それにしてもミサトさん、あの子が虐待とか誘拐とかで逃げていても、それを警察が関知しているとは限らないわけでさ。そのときはどうするの?」

「…………訊かないで」



 長い間を空けて言うなり、ミサトはテーブルに突っ伏した。そんなミサトを横目で見ながらレイジは続ける。



「最近はそうでもないけど、虐待は明確な証拠がないと、躾ですって逃げられちゃうこともあるし。誘拐だって、警察に連絡していなければ、事件にすらなっていない事になる。そう言ったことを踏まえると、迷子届けといったものが出ている気が、僕はしない。だって出したら、何が起こっていたかバレちゃうでしょ?」



 レイジのセリフは実に分かりやすく、ミサトの逃げ道を塞いでいった。

 代わりに、可能な限り避けたい可能性が、どんどんと高くなっていく。赤の他人の家に、人様の子供預かっている状態。一時的にはいいとしても、長期間になるのは問題でしかない。

 冷たいというなかれ、世間の目とはかくも厳しいものなのだ。



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