04・半端者

 


「へっ……」



 一瞬で変わった視界に、思わず呆けた声が出る。



「あ――。もしかしてこの商店街の中なら、必要のある場所にどこでも繋がるんじゃ……」



 最後に立っていた老人がバスのステップに足をかけたところで、ミサトは慌ててバスに向かう。大急ぎでバスに乗り込んで、



「大人一人と子供一人です!」

「は、はいっ! タッチしてください」



 勢いに任せて言ったことで、運転手が驚いたように応えた。しまったと思ったが時既に遅し。若干引きぎみな運転手に気まずい思いをしながら、慌てて空いている席に座る。

 隣にあの少女を座らせた時、バスの窓ガラス越しに、あの水風船人間がヨタヨタと走る姿が見えた。

 後少しでバスに乗り込んでしまう。ミサトは思わず少女を抱きしめた。

 ――ミサトの不安を他所に、バスの運転手はあの男が見えていないのか扉を閉める。ガスの抜けるような音と共にパタリと閉まる扉に、追いついた男の腕が挟まった。しばらくもがくように動いた後、その腕はゴトリと床に落ちる。



「――っ!?」



 嫌な音が耳に入る。けれど、乗客は誰一人として注目することがない。

 ミサトの視線の先の床で、陸に上げられた魚のようにビチビチと動く腕に――。



「それでは、発車いたします。ご乗車のお客様で、お立ちになられているお客様は、近くの手摺にお掴まりください」



 静かなエンジン音に続き、車体が動き出した。窓ガラスから見えた、藁のような髪が後ろへ下がっていく。

 ミサトの視線の先で、あの腕が徐々に黒ずむ。赤みがかった肌が消え、黒色へと変わると、腕は動くことを止めた。そして、まるで風に吹かれた灰のように脆く崩れ始めると、跡形もなく消え去った。

 床は腕が落ちる前と変わらず、利用していた客が残したいくつもの薄い靴跡が見えるのみ。



「んー!」

「あ、ごめんごめん。苦しかったよね」



 腕の中から聞こえてきた小さな声に、ミサトは慌てて腕を放した。解放されると同時に大きく頭を振る少女。緊急事態だったとは言え考えてみれば、子供一人抱えた状態でよくあれだけ走れたなと、自分に驚く。あれが火事場のバカ力とでも言うのだろうか。

 ほっとしてから少女の格好を見てコレはまずいと思い、ミサトは静かに身だしなみを整え始めた。服の汚れが隠せればいいのだから、サイズ違いには目をつぶってもらおう。少女は特に何も言わず、ミサトのジャケットに袖を通す。

 袖を捲くり始めたミサトの姿を、少女は不思議そうに見ていた。



■□■□■



 外はすっかり日が落ちており、帰宅途中の会社員の姿が多くなる時間帯。

 高級の二文字はつかないがレトロな外観が人気のマンションから、疲れきった表情のレイジが出てきた。仮眠を取っただけの状態だが、見事な夜行性を発揮する知人にはむしろ都合がよかった。

 このマンションの1フロアをまるまる所有している、長い付き合いになる知人との対面には、時間を合わせる都合上仕方がない。ただしそれでも、レイジの訪問にまだ早いと苦情を言っていたが。



「はぁー」



 全力で幸せが逃げそうなため息をついて、レイジは携帯を取り出す。

 資料を鞄にしまうときに気が付いた、携帯の着信ランプの点滅。知人との話が終わっていなかったので後にしたが、その場で断りを入れ電話にでようものなら、散々追求されるのが目に見えていたので後回しにしたと言ってもいい。

 興味のないような顔をして、しっかり聞き耳を立てるのは想像に難くない。


 サイレントとノンバイブに設定してある携帯画面には、珍しい着信履歴。同じ家にいるのだから、連絡をすることなど皆無なミサトからだった。

 そのままリダイヤルを選ぼうとして、レイジは指を止めた。視線だけで辺りを注意深く探る。街灯の明かりに浮かぶ通行人、走行する車。何かに気付いたらしいレイジは、そっと携帯をしまった。

 そして、帰る方向とは違う路線が走る地下鉄へ向かう。


 “意識して使えば”、気配は限りなく薄くなる。赤信号で人が溜まる場へ入り、青になると同時に横断歩道に流れる人込みに紛れ姿を隠す。ぶつかりそうな人を避け、その背に回りレイジは横断歩道を渡りきる。

 等間隔に鳴る電子音を聞きながら、買い物客や帰路へと急ぐ会社員の集団と共に、駅入り口へ直結されている建物に入っていった。



+++++



 やがて途切れた電子音に足を止め、横断歩道の人込みに目を凝らしていた青年は、気まずそうに顔を顰める。赤信号で集まりだした人の波に逆らうように、ぶつかりそうになる体を避けながら人の少ない場所へ行く。

 被っていた量販品のパーカーのフードをおろす。開放感から軽く頭を振れば、少し長い茶髪が揺れた。猫のような目が、前を通り過ぎていく人の塊を無感情に見つめる。

 青年はポケットから、若葉色をしたストレートタイプの携帯を取り出した。数回のコール音で繋がった電話に、少しだけ謝罪の色が入った声音で話し出す。



「あ、もしもし。ナオトです、ヤシロさん。はい、はい。そうです。やっぱり見失っちゃいました。俺は夜目が利かないんで。……ええ、『半端者』は不便ですよ。いえ、すみません。そういうわけじゃないです」



 尾行だから仕方ないとはいえ、やはりいつものライムグリーンのジャンパーでないと調子が出ない。

 そうでなくても、いろいろと制限のある身体なのだ。


 ――文字通り、半端者。


 望まずとも手に入れてしまった力は、常人のそれを遥かに上回る。ただしそれはコピーと同じと言えど、オリジナルより劣化している。“意識して使わなければ”、一般人とそれほど変わらない。

 ある意味便利で、そして不自由。



「予想通り伯爵の所に行きましたから。せっかくヤマを張ってたっていうのに……。もったいないと言うか、今は特に居所が掴めないじゃないですか」



 帰宅途中のOLらしき二人がナオトを見て、興奮した様子で同僚と話しかけるか相談しているのを無視する。耳障りな甲高い声に眉根を寄せた。



「そうなんですけどね……気付かれちゃったみたいで。――『女王のつるぎ』は伊達じゃないってことですかね。分かりました。気乗りしないけど紅薔薇べにばらの後を探ってみます。はい。あ、そーだ、帰る前に食事してっていいですか? ――ええ。いい“餌”が見つかったんで」



 携帯から、ヤシロの愉快そうな笑い声が聞こえてきた。それを了承と受け取り、ナオトは電源を切る。

 まだ話しかけるか迷っていた二人組みに、ナオトは自ら近付いていく。



「ねぇ、お姉さんたちもしかして仕事終わり? 俺は今終わった所でこの後暇なんだけど……よかったら一緒にご飯でも食べにいかない?」



 そう言ってにっこり笑えば、向こうも相好を崩す。話しかけるか迷っていた相手だ。それが向こうから来たのだから、彼女たちから見ればチャンスとしか言い様がない。



「は、はい! 行きます」

「私美味しいご飯のお店知ってます」

「ホント! じゃあそのお店行こうよ」



 二つ返事で了承した二人を連れて、ナオトも人の波の中に消えた。

 彼女たちの食事とナオトの食事が、必ずしも同じものであるとは限らない――。



■□■□■



「ミサトちゃんの隠し子?」



 結局、連絡のつかないレイジと落ち合うのをミサトは諦め、警察へ行くのを嫌がる少女を一晩だけと決め、自宅近くの八百屋に寄り道をしてから、ミサトは自宅に連れて帰った。

 が、玄関扉を開けてミサトを出迎えたハツエのセリフがコレである。



「どこをどう見ても顔似てないでしょが!」

「相手似だったら可能性あるでしょう! わたしはそんな子に育てた覚えはありませんよ!」

「私も育てられた覚えはないよ、おばあちゃん」



 育てられてはいないけど、すっかりお世話になっている自信はある。

 玄関先で入るのを躊躇う少女の手を引いて中へ促す。ハツエにやたらビクビクしているようにも見えるが、相手は健康器具の訪問販売員ですら気が付かない、生きている人間そっくりな幽霊だ。



「帰りが遅いから心配していたらもう、変なことに巻き込まれて……。それで、その子はどうしたの?」



 来客用のスリッパをごく自然に用意しながら、ハツエが訊いた。置いたスリッパが大人用なのは諦めてもらおう。



「買い物行ったら、路地裏で変質者から隠れているこの子を見つけたの。なにか訳ありみたいで、警察行きたがらないから。仕方ないので、レイジさんにお願いしようかなって」



 ほら、と言いながら片手に持っていたトマトの箱を見せる。



「と言う訳で、今夜はご飯を一名分多くしてください。――おいで。ここは私の家だから大丈夫だよ」



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