04・ある雨の日の出来事

 


■□■□■



 不快ではないものの、そこは湿った匂いが充満していた。雨音は次第に強くなり、車の屋根を容赦なく叩き始める。通りの激しくなってきた幹線道路を、車は水を跳ねさせながら進んだ。夜になるにつれ、雷も引き連れて悪化してきた天候に、後部座席に座っていた少女は天井を見上げる。

 小学校に上がるぐらいだろうか? 幼い少女は無表情ではあるものの、その大きな瞳を不安げに揺らしていた。色素が抜けたような薄い茶色の髪は、猫の毛のように柔らかそうな質感だ。色白というよりむしろ血色が悪そうな顔色の少女は、やがて視線を膝の上へ落とす。



「――ああ、そうだ。中尾から話を聞いている。……奴が運べなくなったんで、俺たちが運んでいる。――ああ。報酬は以前提示したとおりだ。割増料金をふっかける気はないさ、減らされるのがお断りなだけで」



 助手席の男が携帯で誰かと話し始めると、車内にピンとした緊張感が張り詰めた。

 乗っている大人三人は全員スーツで身を固めていた。少女の隣に座っている男にいたっては、やたら厳つい顔だ。その男に限らず三人とも、傍から見れば立派なその筋の人に見える。少なくともスーツを着こなし、時間に正確なサラリーマンの類でないのは確かだろう。



「着いた。場所は? ……東B5? から、店内? ああ、先に報酬でいいのか? いや、構わない。わかった」



 電話の受け答えをしている男の言葉に、運転をしている男が目的の場所へとハンドルを動かす。電話の相手が指定した駐車場は少し離れていた。



「向こうの都合が悪くなったらしく変更だ。これからの流れは、報酬の先渡し、それから俺たちが客をここまで連れてきて、ガキを渡す。いいな。俺たちは客に会ってくる、お前はそのガキが逃げ出さないように見張ってろ」

「分かっている。気をつけろよ」

「ああ」



 買い物に向かう色とりどりの傘を持つ家族連れの中で、真っ黒なコウモリ傘を差した男二人は、周囲から思い切り浮きつつ店内へ吸い込まれた。

 車内に残された男は横目で少女を見た。俯いたままで表情は分からないが、実に大人しい少女だった。あまりに大人しすぎるが故に、“普段の商品”の扱いのように、腕を縛るなり猿轡をさせるようなこともしなかった。

 そんな少女が、今までの取引の中で最も高い値が付いた。やたら詳しく容姿の詳細を聞いてきた客だったのを覚えている。世の中にはいろんな趣味を持つ人間がいるよなと、男は冷めた目で思った。


 港で『荷物』として船から下ろされた幼い少女は、外見上の変化はなかったが戸惑っているような気がした。端正な顔はいっそ無表情で、動作の端々に品を感じさせる所作。海外のどこぞのお嬢様が借金のかたに売り飛ばされたのだろうか。

 そんな生まれだから性格も軟弱なのかも知れない。日常の生活から切り離された出来ことに、きっとどう動けばいいのかも分からないのだろう。それにまだ子供だ。逃げだされてもすぐに捕まえられる。

 そんな男の思い込みと、物音一つ立てず、少女の、まるで車中の備品の一部にでもなっているかのような存在に、次第に男は注意を払わなくなっていた。


 少女が、自分の異質な体質を正しく理解しているとも知らずに――。


 煙草を吸おうと、ほんの少しだけ窓を開ける。副流煙が周囲にどんな影響を与えるか全く考慮せず、男は煙草を味わう。ゆらゆらと立ち昇る細い煙は、窓の隙間から外へと流れていく。かわりに、雨の匂いが混じった。

 時計を見れば、いつもより話に時間がかかっていることに気が付く。ここに来て客とトラブルということはないだろう。こちらは商品を持ってきているし、なにより先方が報酬を先払いすると言っていた。この仕事で先払いというのは珍しい。大抵が商品と同時の受け渡しなのだから。

 ならば客と一杯引っかけているのかも知れない。なんとも羨ましい限りだ。


 男はいつの間にか、緊張感を薄くし始めていた。少女の監視は続けているが、普段の、あの張り詰めるような空気が今はなくなっている。

 相変わらず、少女は俯いたままだった。少し前に見た時と、全く姿勢は変わっていない。気が付けば、吸い始めていた煙草は短くなり終わる所だった。新しい煙草を取り出し火を点ける。雷が鳴って、風が雨とともに車に吹きつける。微かに揺れる車体に、今夜は大荒れになりそうだと窓を見て男はぼんやり思った。

 目の前を大型トラックが通る。また車が揺れて、今度は風が入ってきた。ぬるくなってきた車内に、冷たい風が心地良い。


 アナウンスを知らせる音が響く。雨粒とは違う窓を叩く音がしたのは、そのアナウンスの直後だった。男は反射的に窓を見たが、雨粒が吹きつけたそこは、人影があることを教えるだけだった。

 警備員だったら面倒だなと思っても、下手にあしらって大事になっても困る。渋々男は窓を開けた。

 吹きこむ雨を我慢して窓を開けた先にいたのは、随分と若い男だった。傘を差しているせいか、暗くてはっきりと見えなかった若い男の顔を、雷が照らし出す。青年と言っても問題ない顔付き。撥水加工がされているらしい、ライムグリーンのジャンパーは目に痛い。

 傍目に見ても嘲笑と分かるくらい、青年は口元を歪めた。



「どうして目を離した?」

「――は?」



 一瞬、何を言われたのか分からなかったが、青年が指先を自分の後方へと向けていることに気付く。慌てて振り向けばそこに――あの少女はいなかった。完全に閉じられていないドアの隙間から、雨が入りこみシートを濡らしていた。

 いつ、そこからいなくなった? それも、隣に座っていたはずの自分に気付かれることなく。

 そしてなにより、この青年は、あの少女を買おうとしていた客、なのか?



「あーもー、だから言ったじゃん。『棺は死体と同じ』なんだから、くれぐれも視界から外さないように、って」



 呆れた様にため息をつき「死体なんだから気配がある訳ないだろが。だからちゃんと目で見てろって言ったのに」と、ぶつぶつ文句を言う。

 確かに電話口で客は『棺』だ『死体』だと言ってはいたが、死体ならば動くはずがないだろうに。あの少女は確かに自分の足で歩いていた。理解が追いつかず車内で呆然としている男を無視して、青年は若葉色のストレートタイプの携帯を取り出した。



「もしもし、はい、今来てます。ええ、ええ。それでですね、見張りの人、目ぇ離しちゃって……」



 軽い口調で話し出した青年は、すぐに携帯を耳から離した。途端響いた怒鳴り声に、しかし青年は面白そうに笑っている。



「あはは。そんなわけで、逃げちゃいました。ハイ」



 驚くほどあっさりと、受け取り失敗の報告をしたというのに今度は静かだ。

 その言葉で、男は目の前の人物が客の一人であると確信した。一気に背筋が冷たくなってくる。今回は異例な事態が重なったものの、これは明らかに失態だ。商品に逃げられるなど、本来あってはならないことなのだから。



「ええ。じゃ、探しに行きます。紅薔薇べにばらに見つかったら台無しだし。こっちは? はい、了解」



 さっさと通話を切って携帯をズボンのポケットにしまった。



「俺たち“棺”を探しに行くので、取引不成立ってことで」

「――っ! だ、だったら自分も捜しに行きます!」



 商品を逃がしたのは自分だ。捜索に手を上げるのは当然。男は急ぎドアを開けようとしたが、その動きは青年に止められた。

 驚くほど冷たい、雨に濡れた手が男の首を掴んでいる。



「いえ、いえ。大変結構です……」



 片腕一本だというのに掴む力は強力で、肉がミシリと音を立てながら、男の気道を塞いでいく。

 その腕を外そうと男が腕を必死に掴む。自分の鍛えた腕と違い、その腕は細かった。苦しさから狭まる視界で、男は青年の顔を見てゾっとした。


 ――笑っていたのだ。この状況で。

 もしかしたら……戻ってこない仲間の二人も、すでにこの青年に殺されているのかも知れない。酸欠で薄くなった頭でそう思った。



「くっ、そ……がっ!」

「逃がした人間が何言っても信用ゼロ。さっきも言ったように不成立、今回の取引はなかったってことで」



 青年が一方的に宣言すると、コキッと小気味いい音と共に男の両腕はだらりと落ちた。今まで生きていた男をシートの上に放り投げると、まるで何かを探すように目を凝らして辺りを見た。

 アスファルトの上に落ちる雨の中を暫らく見回すと、やがて諦めたように目頭を押える。



「はぁ。また探しに行くのか……」



 あからさまに面倒だと分かる表情で、青年は傘をさし直すと一緒に来ていた仲間が待つ店内へと戻った。

 ちょうど青年が店へと向かった頃――老夫婦が乗った一台の軽トラックが駐車場を出ていった。今日の晩ご飯は温かい鍋にしようと、楽しげに会話をする老夫婦は、荷台の緑色のシートがいつの間にか広がっていることも、そのシートの下に少女が身を隠していることも気付かなかった。



■□■□■



 雷は引いたものの、未だ雨は降り続く。ひと気のない小さな港の地面を、わずかな照明が照らしていた。建物の窓からは明かりが漏れている。外にはいないが、有事の際には対応できるよう何人か泊り込んでいるようだ。

 だが窓辺に人がいる様子もなく、いたのならば、これから起きる異様な光景を目にしていたことだろう。


 港の入り口を施錠する背の高い門、脇にある警備員のいる詰め所。

 その門から少し離れた場所に、女が一人立っていた。この雨の中傘もささずにいる女は、じっと門を見上げていた。

 仕立ての良さそうな滑らかな光沢をもった服、磨かれた踵の高いヒール。よく見れば高級ブランドとわかる代物を身に纏う女の姿は、今はとても場違いだ。


 どうやって来て、どれくらいそうして立っていたのか? 女が身に付けているものは、大量の雨を吸いぐっしょりとしていた。袖やスカートの裾からは、雨粒に混じって止めどなく水滴が落ちていく。

 緩いウエーブは雨に濡れ落ちかけ、真っ赤な長い髪は酷く重そうだ。その髪とは対照的に、服は水を含んでも、女の動きを妨げることはなかった。

 暗闇の中で爛々とした金色の瞳が、一点を見つめる。軽く膝を曲げると、女は自分の身長の倍はある塀を飛び越した。予備動作をほとんど見せることなく、非公式ながら女子高跳びの世界記録を叩き出した女は、軽やかな着地をし、港の奥へと進んで行った。



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