第18話

 窓を開けると、さわやかな空気が入ってきた。温かい日差しも体に当たる。きっと綺麗な青空なんだろう。


「空……もう一度、見たかったな」


 ガラスの冷たい感触を確かめながら、シェーナはポツリと呟いた。

 その時、軽いノックの音が部屋に木霊する。


「シェーナ。僕だけど、入っても良いかな?」


 後ろの扉からアシスが声をかけた。ああ、来たんだと。どこか冷静に理解する。


「はい、どうぞ」


 そっと窓を閉めるのと、扉が開くのは同時だった。


「空気の入れかえでもしてたの? でもまだ少し寒いから気をつけて」

「そうですね。あ、座って下さい。今、お茶入れますから」

「誰か呼ぼうか?」

「大丈夫です。何回もやったから、これだけはできます」


 この日のためだけに、これだけは何度も何度も練習した。震えながら、それでも何回も練習した。

 自分はうまく笑えているだろうか。彼を騙せるほどに。


 器にお湯を注ぎ、先に温める。このまま、今、自分は死ねないだろうか。そんな考えばかりが、シェーナの頭をよぎる。


「以前の話の続きになるけれど……君は、自分が原初の一族の末裔であることを知っているんだよね?」


 いつもと変わりないアシスに、ホッとしたのと同時に、強い罪悪感が沸き起こった。


「やはり、知ってらしたんですね……はい、私は原初の一族の末裔であり、王族の血も引いています。私も驚きですが、命注ぎし原始の王、ファルゲーニスの守護も受けています」

「直系の家系なのかな?」

「いえ、千年ほど前、原初の一族が滅びに瀕した時、第二、第三あたりの王位継承権を持っていた者の血筋です。直系の方は、若くして子供もなく亡くなられたと聞いていますから」


 もちろん純粋な血の原初の一族でもない、と告げると、アシスは少し考え込んだ。


「レイア、という名に心当たりは? 一族の人だと思うんだけど」

「ああ……最後の女王、レイア・フィル・ジ・アレネス様のことですね」

「最後の女王?」


 この話はいつも聞かされていた。寝物語にもなっていた、一族を守った悲しき女王。


「先程言った直系最後の方です。一族を守るため、皆を逃がし、たった一人国に残って戦ったと。まだ、十代の女王だったそうですが」

「戦ったって、何と?」

「その辺は詳しく分からないんです。私達も口伝で知っているだけで。人であったとも、他の種族であったとも伝わっています。それに打ち勝ち、彼女は世界を守ったのだと」


 どういう状況だったのかは分からない。伝わっているのはその話と、一族が国を持っていたと思われる場所だけ。それも、西大陸と東大陸を隔てる山脈の北側。途切れることのない霧がかかった場所だ。

 人間はもちろん、魔族も神族も近寄れないという。


 頃合いを見計らって、シェーナはポットにお湯を注いだ。茶葉が開くのを待つ。


「逃げた一族は分散し、その中で、私の家はまだ濃い血が残っていたようです」

「そのブレスレットは?」

「これは……」


 お前が持つべき物だ、と十歳になった時父から渡された。


「レイア様が身に着けていたらしいのですが、なぜか、いつの間にか私の家系の手にあったそうです。私が生まれることが、分かっていたのかも知れませんね」


 茶葉が開くまで後どれくらいだろう。分かっているのに、もう少し、もう少しと願う自分がいる。

 アシスは、へえっと呟き、身を椅子に沈めた。


「それにしても、よく分かりましたね。私が原初の一族だって」

「最近解読の進んだ本の中に、原書の一族のことが書いてあってね。そうだ。じゃあ、リーファ・エルリストっていう名前は知ってるかな? レイアと仲良かったらしいけど」

「リーファ・エルリスト……その人、もしかして魔導士ですか?」

「うん、知ってる?」


 名前を聞いたことはない。だが、両親から聞いた寝物語に魔導士が出てくる。

 突然現れた流れの魔導士。力が強く優しい人で、しばらく原初の一族の国に滞在していたと。そして――


「レイア様の、恋人だった方だと思います。最後の最後まで、彼女を救おうとしたって」


 子供ながらにレイアの境遇に涙し、彼のような存在がいたことを羨ましいと思っていた。


「でも、守れなかった」

「はい……」


 レイアは、一人亡くなったと伝わっている。


 茶葉が開き、良い味が出る時間が経った。器の湯を捨てる。

 震える指先はばれていないだろうか? 決心したはずなのに、ばれてしまえば良いと、そう考えるもう一人の自分を無理やり閉じ込める。

 アシスに背を向けたまま、シェーナは小瓶を取り出した。そしてその中身を半分、一つの器に入れる。


(誰でも良い、今すぐこの器を壊して、消してっ)


 胸の奥から悲鳴が聞こえる。そして、それを打ち消すような声もまた響く。


(ダメ、仕方がないの。そうするしかないの)


 震えているのを悟られぬように、シェーナはポットを持つ手を深く握りこむ。食い込む爪の痛みさえ、胸を打つ痛みに敵わない。

 傾け、注ぎ、戻す。二つの器にそれを繰り返す。

 ゆっくり、少しずつ、けれど確実に入っていく。

 傾け、注ぎ、戻す。

 ポットの重みが、落ちる雫の音が、なくなる。


 シェーナは目を閉じた。仕方がない、仕方がない、と何度も頭で繰り返す。それに従うように、手はカップをトレイに乗せた。

 アシスのいる方向を振り向き、ゆっくりと歩く。こけないように。


(こけてしまえば良い)


 どこかから聞こえるその声を振り払って、シェーナはトレイをテーブルに置く。


「すみません、お待たせしました」

「いや、ありがとう」


 出した手は震えていなかった? 顔は笑っていたか? それすら分からない。

 崩れ落ちそうになる膝に鞭打って、シェーナはアシスの向かい側に腰を下ろす。もう、後戻りはできなくなった。


「ねえ」

「は、はい!」


 すぐに始まり、終わるかと覚悟していた時の不意打ち。不審なほどにシェーナは飛び上がった。


「そんなに緊張しなくても。ちょっと聞きたいんだけど、レイアってどんな人だったの?」


 優しく問いかけられているはずなのに、歯の根が震える。


「あ、あの、えっと、とても素晴らしい方だったって……民のことを第一に考えて、本当は争いも嫌いで、でも女王として威厳があって、凛としてて、誰もが彼女を慕ったって」


 あともう少し。そうすれば町助かる。だから、だから――


「そう、じゃあシェーナに似てるんだ」

「……え?」

「誰かのことを一番に考えて、争いなんか嫌いで、でも、芯はしっかりしてて、誰もが君の笑顔に惹かれる」


 柔らかい声と、優しい視線。彼は今、どんな顔をしているんだろう。アシスという人はどんな姿で、自分を見ているのだろう。

 叶わないと分かっていても、見たいと望む自分は、きっと愚かだ。


「私はそんな……似てません。そんなことないです。リーファ様みたいな人もいないし」

「そういう存在、欲しい?」

「あ、憧れはしますけど……無理ですから」


 そう、無理だ。これが終われば自分は。


「僕ならなれるかな? 君のそういう存在に」

「え?」

「僕と彼、似てるんだって。ま、同じ魔導士だし、伝わっている彼の外見は金髪に青紫の目。僕は金髪で赤紫の目。あれが体の中に入ってなかったら、目はもともと薄い紫だしね」


 ほら、似てるでしょう? と問いかけるアシスに、シェーナは何も言えなかった。

 だって、どう答えれば良い? なってもらうことなどできないと、そう知っているのに。そう仕向ける人間なのに。

 固まったままのシェーナの耳に、クスリと笑い声が聞こえた。そして――


「お茶、頂くね」

「あっ!」


 ダメッ、という叫びが、喉の奥に空しく響いた。

 直後、器の割れる音が、悪夢の様に耳に入る。


「っ!」


 声なき声がアシスの口から漏れた。倒れこむ音、苦しみ、もがき、何度も咳き込む彼が見えぬ目に浮かぶ。

 耳も塞ぎたかった。何もかもを遮断したかった。

 けれどこれが自分のしでかしたこと。いけないと分かっていながらも決断したこと。それから目を逸らすわけにはいかない。逃げて良いはずがない。誰かを犠牲にして、楽な道を選んではいけない。


 どれ程時間が経ったのか分からなかった。いつのまにか、部屋には静寂が満ちている。


「……っ、はっ……っく……」


 シェーナはソファから崩れ落ちた。

 もう戻れない。自分の持つ治癒能力でも、全てをなかったことになどできない。

 アシスはもういない。自分が殺したのだ。命を秤にかけたのだ。


「ごめっなさ……ごめんなさいっ」


 謝って何になるのか。誰も許すはずなどないのに。

 彼の屋敷にうまく入り込めたのが間違い? 彼の内面を知ってしまったことが誤算?

 違う。出会ってしまったことが、自分が生まれてしまったことが間違いだ。


 シェーナは小瓶を取り出した。まだ中身は半分残っている。

 それで何が変わるわけでもない。許されることもない。分かってはいるけれど、今の自分にはもう生きる意味も意志もない。そして、この力を他の者達に利用されるのも嫌だ。

 いつかまた、誰かの命を奪うことなど、絶対に嫌だ。だから――


「同じ、場所には……きっと行けないだろうけど……」


 蓋を開け、シェーナは一気にそれを呷ろうと口につける。液体が舌につこうとしたその刹那、強く腕を引かれ、


「毒殺されるより、シェーナに死なれる方が僕には大打撃になるんだけど」


 あり得ない声が、耳元でした。 

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