第17話
この日、シェーナは外に出る気になれなかった。体が重い。それに両眼の痛みが昨夜から続いている。
じくじくと、まるで針で刺されるような痛みが延々と。
「痛い……」
ベッドに転がりながら、シェーナはそう呟いた。
目の痛みは時間がないことを告げている。だが、酷い痛みはそこだけではない。
目よりも胸がずっと締め付けられている。自分がしなければならないことに、しでかすことに、残る良心がずっと締め付けている。『やめろ』と。
シェーナは目を腕で覆い、痛みを押しつぶすように強く当てる。暗い瞼の向こうに、最初に映るのは亡き父母だ。
とても優しく、また厳しくもあった。たくさんのことを二人から教わった。もちろん、原初の一族のことも。
いつか自分は激動に巻き込まれるだろうと。だからこそ強く、そして、自らの意志をしっかりと持てと。
「私の……意志……?」
次に浮かんだのはブレアシュの人達だった。十二で両親が事故死し、一人取り残された時に温かく迎え入れてくれた人達。我が子のように育ててくれた領主夫妻。自分の大切な居場所。
そして、その次に浮かぶのは――
「アシス、さん……」
最初はとても冷たい人だった。声に抑揚がなくて、寂しい人だと思った。
次に会った時は、何て失礼な人だろうと思った。ああ言えばこう言う、人を見下した物言い。両親のことまで持ち出され、咄嗟とはいえ初めて人に手をあげた。
だが、それは彼のほんの一面。
「素直じゃないし、言い方が回りくどいんですよ……」
彼の内面を理解するのは難しい。本人が誤解されるように仕向けていて、言葉の奥にあるものが汲み取りにくい。それでも、守ってくれた時ひどく安心した。
抱きしめてくれた腕も、名前を呼んでくれた声も、何もかもが優しくて、温かくて。
「っ、ずるい、です。こんな気持ち、知りたくなかった……」
押さえた目から、つうっ、と涙が頬を伝う。
知りたくなかった気持ち、知らなかった気持ち。それを、故意でなくとも教えてくれた彼は、きっと自分にとってかけがえのない存在になるのだろう。いや、きっともうなっている。
けれど、あの町の笑顔を全て奪って、自分の気持ちを守るなんてことは、できない。やりたくない。
「ごめんなさい、おと、さん、おかあさん……私……」
ベッドに転がっていた小瓶を、シェーナは手探りで握り締めた。
「ごめんなさい。ごめん、なさい……アシス」
この涙が流れる間は、その間だけで良いから、彼を想うことを許してください。
シェーナは、誰とも分からぬ者にそう願った。
※ ※ ※ ※ ※
「ほんっとに情けないわ!」
アシスとデュノがエララの病室を訪れると、彼女は開口一番そう言った。
「エララさん……」
彼女とて仕事に誇りを持っている。それが途中放棄になったばかりか、守るべき場所に襲撃をかけ、なおかつ、敵にこちらの動きを知られたのだ。自分を責めるのも無理はない。
そう、デュノは思ったが、
「人間に戻ったのデュノに抱きしめられたのに記憶がないなんて! 情けなさ過ぎるっ!」
「抱きしめられたって言うか、羽交い絞めの方が正確だけどね」
よよよ、と泣き崩れるエララと、さもありなんと返すアシスに、デュノは明後日の方を見て現実逃避した。
甘かった。彼らはこういう人間である。
「それにしても、こんな所で油売ってて良いわけ? 期限は明日の朝でしょう?」
「ん~、僕の予想だと彼女もそろそろ動くだろうしね。昨日、君が魔族から貰ってきた伝言が大分追い詰めたようだし。ショック療法になるからちょっと可哀想な気もするけど。本音を聞かなくちゃ」
クスリと笑う顔は、いつものように悪知恵を働かせている顔だ。けれど、目がどこか優しい。エララもそんなアシスを見てしばし固まった。
「あんた、変わった?」
「そう? 別に変わったつもりなんてないんだけど」
彼をあまり知らない人物なら、変わったなどと思わないだろう。
だが、幼い日の、全てを拒絶し、何事にも関心を抱かなかった彼を知っている者には、変わったように見える。
(誰かに対して可哀想と思っている時点で、少し違うんですけどね)
表情も前より豊かになっている。アシス自身も、きっと気づいていないだろうけれど。
「さて、それじゃ僕は行くよ」
「お気をつけて。シェーナさん、助けてあげてくださいね」
「僕は、彼女が壊れないようきっかけを作るだけだ。どうするかは彼女が選ばないと。まあ、選んだ末に助けが必要なら、その時は助けるし、守るよ」
「アシス」
黒の正装を翻して歩き出すアシスに、エララは声をかけた。その顔は弟を見守る姉のような表情だ。
「あのね、ブレアシュの人達、何にも話してはくれなかったんだけど、彼女の名前を出すと、ちょっとだけ心配そうな顔をしたの。魔族の監視があるからおおっぴらにはできなかったんだろうけど、空気で分かる。あそこの人達、彼女を凄く大事にしてる」
「だろうね、だから彼女はここまで来たんだろうし」
大事にされているからこそ、彼女も町の人達を思っている。そうでなければ、あの純粋な少女が魔族の企みにのったりはしないだろう。
「町の人の笑顔も、彼女の笑顔も、取り戻してあげんのよ!」
グッと拳を握った彼女にアシスは肩越しに振り返る。
「僕、そこまで責任感ないから」
あっさりそう言ってアシスは去って行った。一時寒い風が吹きぬける。
「何なのよあの態度。ちょっと可愛くなったかと思ったのに、町の人は救えないだぁ?」
「まあ、アシスですからねぇ。シェーナさんを救えば町の人も笑えるでしょう?」
「それって、アシスはシェーナちゃん中心に回ってるってこと? シェーナちゃんが大丈夫ならそれで良いってこと?」
「ああ……そうですかね。まあ、そう簡単に周りの人全部が大事で、そのために動くなんてならないでしょう? 十年以上ああなんですから」
「まあ、そんなアシスになったら怖いわねぇ。じゃあ今度からアシスを動かす時は、シェーナちゃんを通して頼んでみましょうか。仕事はかどるかもよ」
「それは嬉しいですね」
本人がいないのを良いことに好き勝手言う二人。それでも表情と声が柔らかいのは、嬉しいからに他ならない。
長い間アシスを見てきた。彼が生きる意志を持てないことも、生きる意味を見失っていることも知っている。そのアシスが、守るとまで言った少女。
自分達は、彼にとって少しは身近な存在だろう。それでも、何より大切な、とは言えない。
自分達にとっても、アシスが何より大切な存在ではない。だから、彼は自分達のために生きることはないと分かっていた。
「アシスが今まで生きていたのは、ただ単に死ぬ機会がなかったのと、生んでくれたご両親のためでしょうね。天命で死ぬ時が来るまでは、と」
「自ら死を選んだら、生んでくれた両親に報いることができないと思ったんでしょ」
一見ふざけているけれど、優しいし真面目だ。生きたいわけではないが、死ぬわけにもいかなかったのだ。でも、きっと今は違う。
「少しは、生きても良い、と思ってるみたいですね」
そう考えてくれるなら、それがたった一人のためでも良いかと思う。
「ねえ、アシスに守るなんて言わせちゃうシェーナちゃんて、可愛い?」
操られていたせいで、まだ直接見ていないエララが、興味津々の体で乗り出してくる。
「ええ、可愛らしい方ですよ。素直で純粋で、でもどこか凛とした方です」
「デュノにそこまで言わせる娘かぁ。デュノも好きになっちゃってたりして?」
「一人の人としては好きですよ。でも恋愛感情はありません。私の実年齢からだと二十五歳差ですからね。さすがに犯罪でしょう?」
朗らかに笑うデュノとは逆に、エララはちょっぴり眉をしかめた。
「え? ってことは十五歳? アシスと七歳差?」
ええ、そうです。と肯定した彼も言った後に固まる。エララはビシッと指を突き刺した。
「デュノ、従者としてしっかり見張っときなさい! そんな可愛くて良い娘に早々手を出させちゃダメよ!」
「は、配慮しておきます」
アシスとて常識は心得ているので大丈夫だとは思うが。何より大切に思っている少女なので大丈夫だとは思うが――念のため考慮しておこう、と思うデュノだった。
※ ※ ※ ※ ※
馬車を降りてアシスは屋敷の方に足を向けた。昼を過ぎ、おそらく彼女も決心が固まった頃だろう。何歩か歩いて、彼は足を止めた。
「やあザンデル。心配でもしてくれてるのかな?」
「そういうわけではない。気になっただけだ」
何が、と言わないところが彼らしい。姿は見せないが、すぐ近くにいることが分かる。
「君の言ったとおりになったよ。『大切な存在』なんて、鼻で笑ってたんだけどね」
「そうか……」
いつから、とか。なぜ、とか。きっかけなどはアシス自身よく分かってない。
ただいつのまにか目を離せなくなり、柄にもなくイライラし、泣き顔を見るのが嫌で、笑って欲しいと思っていた。そんなものか、と拍子抜けしたぐらいだ。
あえて理由を挙げるなら、シェーナが自分と正反対だからだろう。
「今でもさ、大切な存在なんていらないって思ってる。いつか失うかもしれない。またこの手で、全てを奪ってもしまうかもしれない。それが、怖い」
大切に思えば思うほど、失った時の辛さを自分は知っている。だから、そんな存在を作らないようにしていたのに。
「怖いね、人って。分かっていても感情を止められないなんてさ。僕、冷静だしそれぐらいできると思ってたんだけどな」
「魔族も同じだ。禁忌だと、己の死を意味すると知っていても止められなかった者がいる」
静かに後ろから聞こえた声に、アシスは振り返った。珍しく陽の中に立つザンデル。その目は、自らの首にかかった指輪を見ていた。
「なぜ、君は僕に彼女のことを伝えた? 君が言わなければ、僕は彼女を気にしなかったかもしれない」
それでもいつかは目に留めたような気もするが、始まりはザンデルだったように思う。
彼は深紅の目を細め、すっ、とアシスの胸を指した。
「お前の中にいる奴が、お前と彼女が出会うことを望んでいた。遠い昔からな。だが自らは動けない。だから、俺が動いた」
「いくら同族だからといって、そんなに義理堅くなる必要あるの?」
そうだとすると、魔族はずいぶんと律儀な種族である。
アシスの言葉に、ザンデルは微かに口角を上げた。
「俺はそいつの血縁者だ」
端的に吐き出された言葉。虚を突かれたように、アシスは瞬きを繰り返した。
「あ……ああっと、ま、その、かなりはた迷惑な血縁者をお持ちだね」
「そうだな」
「ってことは、もしかして、その指輪の持ち主がこいつなわけ?」
自分の胸を指しながらアシスが聞くと、ザンデルはゆっくり首を振った。
「持ち主は相手の方だ。そいつが作った」
「え、自分で作ったの? 意外だね、魔王って貧乏性なんだ」
「魔族は金など持たんぞ」
互いにフッと笑い、ザンデルは遥か彼方を見る。それはブレアシュの方角だった。
「明日には、魔族も動く」
「だろうね。エララが最終警告だったんだろう?」
あれでシェーナを追い詰め、それでも動かぬようなら自身が動くつもりなのだ。その見極めとして、一日だけ猶予がもたらされるのだろう。
皮肉なことに、この国と同じ決断をしているわけだ。
「彼女は止める。そして、彼女が悲しむだろうし、ブレアシュも一応助けるよ」
肩をすくめ、再び歩みを進めるアシスに、ザンデルは無表情で告げた。
「気をつけろ。魔族の方も切り札を使ってくる」
「良いの? そんなこと言って。君も混血だけど魔族方に身をおいたんでしょ?」
「かまわん。今回の首謀者はいけ好かないんだ。それに、そいつの面倒も今しばらく頼む」
今はまだ復活する時期ではない。そう、ザンデルはアシスの胸を指さしながらぶっきらぼうに言った。
「悪いんだけどさ、面倒を見る気はない。僕は僕だ。力だけ利用させてもらうよ」
「勝手にしろ。お前の中にいる限りはお前のものだ」
もの扱いしても良いのか分からないが、血縁者がそう言うのだ。良しとしよう。
「ねえ、ちょっと契約からずれるけど、頼み聞いてもらえる?」
アシスの小首を傾げてのお願いに、ザンデルは渋く顔をしかめた。
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