第13話

 同僚と少年王に不本意ながら諭されて、アシスは久しぶりに家へと帰ってきた。 かと言って、すぐシェーナのところへ、となるわけもなく。また、シェーナもアシスを避けているのか、まったく顔も見せない。帰ってきたのは伝わっていると思うのだが。


「さて、もう少し待った方が良いよね。本一冊読む間ぐらいは」


 いきなり部屋に行ったら驚くだろう、とか思いつつ、結局は自分への猶予期間だ。

 情けないと分かっているが、生まれてこのかた相手を思って、しかも誠心誠意謝罪したことなどないのだ。異例づくめのこと。

 アシスは柄にもなく少し緊張していた。


 とにかくそんな言い訳をしつつ、アシスが手に取ったのは、やはりリーファの本だった。ずいぶん前に解読されていたが、薄い、ちょっとした研究レポートのような物だったので開けてもいなかった。

 覚悟が決まるまでならちょうど良いだろう、と表紙をめくる。


『――以上の事を踏まえると、次のような仮説が思い浮かぶ。六ページに飛ぶ』

「飛ぶ?」


 読んでいるのは二ページなのにいきなり六ページに飛ぶという。いぶかしみながらもめくると、確かに続きが書いてあった。


『――この仮説一と、実際の例を照らし合わせてみよう。十三ページへ』

「……また?」


 不信感が強くなりつつも、やはり続きがある。


『――それでは仮説二とはどういった相違が出るだろうか。二十二ページに飛んで』

『――二つを比べた結果、仮説一が有力ではある。さあ二十七ページへ!』


 ここまでくると、アシスはこめかみが引きつってくるのを感じた。しかし根気でめくる。


『――多くは仮説一で説明がつく。だがあの部分はどうしても噛み合わない。ではこの魔法は何のために創られたのか。私の出した結論はこうだ。いざゆかん最終ページへ!』


 ハチャメチャな構成で、言葉尻もリーファの物にしては砕けているが、解読は原本に沿って行われているので、これで間違いないはずだ。しかも内容は筋が通っている。


(読み手の集中力でも試してるのか?)


 ならば、自分は勝ちだ。そう思って最後のページをめくると。


『残念、答えは私にも分からない。ここまで付き合ってくれた魔導士君。君は周りから犬猿されるほどの真面目か、相手の気持ちを理解できない馬鹿者だな。ご苦労様』

「消え失せろ!」


 アシスは本を思い切り床に叩きつけた。レポートというより、ただの遊び感覚で作られた物だ。はまった自分にもむかつく。

 リーファの紹介文を《偉大な魔導士》から《おふざけ魔導士》か《底意地悪い魔導士》に変えるべきだ。そう想いながら、アシスは乱れた息を整える。

 その時、ガタンと小さな音が外から聞こえた。同時に小さな声も。


「デュノかい?」


 問いかけてみるが返事はない。自分の声に驚いて入りづらいのか、と扉を開けると。


「…………何してるの?」

「あ、あの、えと、その」


 一人オロオロするシェーナがいた。

 夜着に上着を羽織って、近くとは言え、盲目の彼女には長い道のりだったのだろう。額や手などにぶつかった痕跡が見られる。


「えっと、その、クラバルトさんが帰ってきてるってお聞きして……」


 そこで彼女は黙り込み俯いてしまった。

 普段なら、例えば相手が彼女でなければこのまま黙って話し出すまで待つか、痺れを切らして扉を閉めるかする。しかし、今のアシスは負い目もあり、そこまで非情な行動はとれなかった。


「とりあえず、入れば?」

「は、はい。お邪魔します」


 いつ謝るか。タイミングが難しいな、と思いながらアシスは彼女を中へ入れてやる。

 ソファに座らせたところで、やはり、というか気まずい沈黙が流れてしまった。


(お茶を出すべき? いや、でも人を呼んだら謝るタイミングが……)


 さてどうしようか。自分はこういう状況が不得手のようだ、と改めて思い知らされる。


「あ、あの……」

「え、ああ、何? 何か用なんだよね」


 ずるいとは思うが、何かしら会話の糸口が出てきてからの方が良い。そう考えてアシスはシェーナの次の言葉を待った。それにほとほと後悔するのは数秒後のこと。


「あ、あの、ごめんなさい!」

「へ?」


 正面で深く深く頭を下げ告げられた台詞に、アシスはマヌケにも固まるしかなかった。


「その、この間、理由はどうであれ助けてくださったことに変わりはないのに、私、思い切り叩いちゃって、あの、すごくすごく、力こめて叩いちゃって、だから、怪我とかなさったんじゃないかって、その、だから、えっと、あの……本当にごめんなさい!」


 支離滅裂な言葉だからこそ、心から言ってくれていると分かる。

 これでもかと下げられた頭を見つつ、アシスは脱力し額を押さえた。


「情けな……」


 小さく彼女に聞こえないように呟く。

 非常に情けない。お互い悪いとしても、客観的に見て多大に非があるのはアシスの方だ。それなのに、伸ばし伸ばしにしている間に彼女に先を越されてしまった。

 年上としても、男としてもかなり情けない状況だ。


「ク、クラバルトさん?」


 何も言わないアシスに不安を抱いたのか、シェーナは戸惑いの表情を浮かべている。それがなんだか可笑しくて、アシスは軽く笑った。


「君さ、お人好しって言われるでしょ?」

「へ? は、はい……よく……」


 眉をハの字にしたシェーナをアシスは見つめる。おそらくこの場にアランなどがいたら、即座に逃げだしているだろう、そんな優しい顔で。

 アシスは立ち上がりシェーナの隣に腰を下ろした。気配を察して、彼女の体が強張る。だがアシスは問答無用で彼女の右手を取った。そして、自分の頬に当てる。彼女が叩いた頬に。


「傷なんてないでしょう? 腫れてすらいない。僕も一応男なんでね。君程度の力でどうにかなる程、弱くないよ」


 そう言われて、最初は目をパチクリさせるシェーナ。だが、アシスの言葉の意味を汲み取ったのか、次第に目と口元が綻んでいった。

 小さな花が咲いたような、ふわりと明るい表情。

 それは、アシスが始めて見る、シェーナの笑顔だった。


(ああ、そうか)


 それを見て、何の前触れもなく、ただ唐突にアシスは理解した。


「何で君を見てイライラするのか、分かったよ」

「え?」

「君は、僕が一生かかっても手に入れられないものを、持ってるんだね……」


 もう、何年も前に失ってしまったもの。あの日、あの悪夢の日までは持っていたはずの、今ではきっと取り戻せない、大切なもの。


「私、何も持ってません……クラバルトさんの方がたくさん」

「ちゃんとした物質じゃないよ。そうじゃなくて、君そものっていうか」


 誰かのために怒れる優しさ、物事をありのまま受け入れる素直さ、そして、自分よりも他人を気遣える純粋さ。彼女はそれを持ったまま成長している。


 騙されやすく、自身を蔑ろにするそれは、一見すれば愚かで、哀れで、滑稽だ。けれど、生きている者の中で、どれほどの者がその全てを打算なく出せるだろう? 何の見返りも求めず、彼女のように行動できるだろう?


 一度定着した性格を簡単に変えることは難しい。今、アシスがシェーナのようになりたいと思っても、それは一時で剥がれる仮面にしかならない。だから、イライラしたのだ。

 腹を立てていたんじゃない。煩わしかったわけでもない。ただ、羨ましかったのだ。自分にないものを持っているシェーナが。

 まるで、子供の無い物ねだりのようだ。と、可笑しくなる。


「それって……」


 アシスが答えの出たことにすっきりしているのとは逆に、シェーナは暗い表情で呟いた。どうしたのかと彼女を見れば、指先で右手のブレスレットをなでている。


「ああ、違うよ。召喚士の血や力のことを言ってるんじゃない」

「っ! ど、どうしてそれをっ」

「伊達に魔導士やってないよ。最近僕が手を出してる研究は、召喚士一族についてだから。やっぱり、君はあの一族の……っ!」


 そこまで言った時、アシスは異様な気配を多数感じた。

 首都に張った結界にぶつかり、消滅しながらも捨て身で飛び込んできた邪悪な気配。

 咄嗟にシェーナを引き寄せ、腕の中に庇う。驚く彼女を尻目に、異空間に収めていた杖を手に掴んだ。そして――


「我が言の葉にて誘わん!」


 魔力を発動し、構成を編み上げ、呪文のはしりを言った瞬間、部屋の窓という窓が耳障りな音をたてて砕け散った。その破片に混じって見えるのは、闇に浮かび上がる数匹の魔族。

 悲鳴を上げるシェーナをさらに強く抱きこむと、アシスは一気に魔法を組み立てる。


「紅蓮の意志、深淵の灯火、猛火となりて邪を打ち砕け!」


 杖にはめ込まれた魔石が光を放つ、それを確かめることもなくアシスは魔族を杖で薙ぐしぐさをする。それに導かれるように、次々と魔族に烈火の炎がぶち当たり爆散して行く。

 だが、その消えた魔族を補うようにまた次の群れ。


「くそっ、僕から絶対に離れないでよ! 我が言の葉にて紡がん!」


 使用人達が駆けつけるまでの時間を計算する。倒すよりもまずシェーナの身の安全を考えなければならない。彼女には、今のところ身を守る方法がないのだ。一人で逃がし、魔族の目的が彼女だったら取り返しがつかない。


 結界の魔法をかけた瞬間、魔族の爪が襲い掛かる。ギンッと、間近で響く音に、シェーナは見えないでいるも酷く怯えていた。抱きこむ体が大きく震えている。しかも、この多さでは結界もそう長く持たない。

 打って出るしかないか。そう思って魔力を搾り出そうとしたその時。


「人のお家を荒らしてはいけませんよ」


 場に似合わぬ穏やかな声。それとは裏腹に、目の前で大量の血飛沫があがった。おびただしい数の魔族達が無残な姿で躯と化していく。


 効力のなくなった結界を越え、赤い水たまりが足元まで広がる。

 アシスはシェーナを抱き上げ、汚れのない場所に下ろした。そして、魔族のいなくなった先、そこに一人佇む白い人影を認める。

 全身が白。目隠しも白の人型の生き物。しかし、人にはない角を持った人ならざる者。


「それにしてもかなりの数で……おっと」


 にこやかに口に笑みをたたえる男は、アシスがいきなり放った魔法を指一本動かすだけで消した。音も何もない。まるで初めからなかったように消した。

 そして、苦笑する。


「危ないですね。一応、助けたつもりだったんですけど」

「荒らすのはいけない、とか言いながら君も荒らしてるよ。それに、人の家に勝手に上がりこんでるんだ。攻撃されても文句は言えないだろう?」


 あの数の魔族を一瞬で掃討できるのだ。アシスは油断なく杖を構え直す。

 白い服装だからといって、魔族でない、とは限らない。魔族ではない、といっても、敵でないとは限らない。


「ふふっ、口調が違いますが、その強い目は相変わらずですね」


 至極楽しそうに笑い、言われた言葉に、アシスはピクリと眉を上げた。


「僕は君なんかに会ったこともない。そんな親しそうに話されるのは不愉快だ」

「ああ、そうでしたね。今の貴方に会うのは初めてでした」


 不可解な言葉にアシスの空気は剣呑としていく。殺気にも気づいているだろうに、男はまだ笑っていた。そして、その顔がシェーナの方に向く。


「こんばんはシェーナさん。目が見えないようですが、大丈夫ですか?」

「君、彼と知り合いなの? 全身真っ白で角の生えてる、いかにも怪しい侵入者だけど」

「い、いえ、知りません。そんな知り合いお断りです!」

「何気に酷いこと言ってませんか? いやしかし、自己紹介していない私も悪かったですね。一応初めましてと言っておきましょう。神王アーストレリアダイジェリオです」


 にこやかにさらりと男は言った。

 アシスは固まった。シェーナも固まったが、それ以上に固まった。

 紹介されようが何されようが、最大の魔法を放つ。そしてとりあえず男を、シェーナのいるこの部屋から遠ざけようと考えていたが、魔法の構成など一気に崩れ去った。

 目の前でニコニコと笑って首をかしげる男に、目眩を覚える。


「アシス、アシス! さっきの爆音はなんですか? どうしたんです!」

「デュノ、いや、何でもな……くはないけど今は入ってくるな! あとで説明する」

「しかし!」

「命令だ! こっちは怪我一つ負ってない。良いと言うまで入ってくるな!」


 駆けつけたデュノの声に、彼は我に返った。気配からして使用人達もいる。もしこの神王と対立することにでもなったら、アシスとてそんな大勢は守りきれない。


(いや、そんなことになったら、理解する前に死んでるね)


 大げさと言われようが、それが神王という者の力だ。こんな単純なことを忘れる程、今の自分は動揺しているらしい。

 アシスは口内を噛み千切り、その痛みで頭を冷やした。


「し、神王って……神々、神族の……」

「はい、不束者ながら王をしてます。呼びにくいですからアースと呼んでください」


 慄くシェーナに、アースは優しい声をかけた。だが、彼女の顔は信じられないほど青くなっている。そんなシェーナを背に隠し、アシスはアースを正面から見すえる。


「それで? 普段、人間なんて見下ろしてるような神王ともあろう者が、どういったご用件でここに? 原初の一族、王族の末裔に用? それともこの僕を、始末でもしにきた?」


 冷笑しながら吐き出した言葉に、アースは困ったように口元を歪めた。


「参りましたね。私はただお二人にお会いしたくて……」

「ち、違う!」


 歩み寄ることもなく、変わらぬ穏やかな口調で話し出した彼を、シェーナの叫びが止めた。突然の事に、アシスもアースも彼女を凝視する。


「違う、違う違う! 違うの!」

「ちょ、ど、どうしたのさ!」


 興奮して首を振りながら叫ぶシェーナ。その声は今までにないぐらい悲痛に満ちていて、アシスは落ち着かせようと彼女の肩を掴む。だが、シェーナは信じられない力でそれを振りほどき、アシスの前に出た。

 一体どこにそんな力があったのかと、呆然とする。


「違う、この人は違うの! この人は悪くないの、悪いのは私でっ」

「シェーナさん?」


 まるでアシスを守るように両手を広げ、シェーナは神王の声のする方に叫び続ける。


「貴方は神王なんでしょう? 魔族と敵対してるんでしょう? だから魔族の企みを潰しに来たんでしょう? でもこの人は違うの! それなら殺されなきゃいけないのは私で、私が死んだら全部終わって、でも自分ではそれができなくて、だから、だからぁっ!」


 ついに、その瞳から涙が零れた。それに気づいたアシスは再度彼女の肩を掴む。


「ちょ、良いから落ち着いて! 彼には今のところ敵対心ないよ!」


 そう言ってもシェーナは錯乱したように『違う』と繰り返すだけ。涙は零れ続け、顔にはただ悲しみしか見えない。

 アシスは、なぜかそれが許せなかった。無理やりシェーナを振り向かせ、強く、強く抱きしめる。


「大丈夫、分かったから。良いから僕の声を聞くんだ。シェーナ!」


 初めて呼んだ彼女の名前。それに反応したのか、ビクンと一度シェーナが大きく震えた。そして、涙があふれた白濁の目で、ゆっくりとアシスを見上げる。


「あ……」


 自分の行動と言動に気づいて、シェーナは一度口元を押さえる。だが涙は止まらず、彼女は再び俯いた。その震える体をしっかりと抱き、アシスはア-スを見る。

 意外なことに、彼も心配そうにこちらを見ていた。


「悪いけど、今日はどんな用事も却下。僕は何年生きたか分からないご老人よりも、ご婦人の相手が良いんでね」


 ふざけた言い方をしつつも、アシスは有無を言わせぬ眼光で彼を睨みつけた。さっきまであった困惑など、微塵も感じさせない。


「かまいません。本当に、お二人に会いたかっただけなんです。でも、どうやら逆に迷惑をかけてしまいましたね。すみません」


 神々の王が、すまなさそうに笑い背を向けた。だが、ふと何かを思い出したようにアシスを振り返る。


「アシス、貴方は……魔王を、私の弟アウリュを、恨んでいますか? その身に入り、貴方のご両親を殺した彼を」


 アシスは目を細め、シェーナもまた、勢いよく顔を上げた。


「魔王が、体に……?」


 信じられない、と顔で物語るシェーナの頭をなで、アシスは先程より鋭くアースを睨みつけた。


「恨んでるとかそういう次元の話なの? まあ、迷惑なのは言わずもがなだね。あと何だっけ? 両親のことは……あれは……」


 そこで言いよどみ、アシスは唇をかみ締めた。それで何かを悟ったのか、アースはそうですか、と再び背を向ける。


「ただ、一つだけ聞いていただけるなら、アシス、どうかシェーナさんを手放さないでください。私もアウリュも、それを強く望んでいます。貴方を苦しめた者の言葉など、聞きたくないかもしれませんが、どうか……」


 白い羽根がひらりと舞い、静かなアースの声が部屋に反響した。

 静まり返った部屋を見渡し、アシスは重い息を吐く。割れた窓、絨毯に染み込んだ血、魔族の残骸。当分この部屋は使えそうにない。


「あ、あの、クラバルトさん……」


 腕の中で身動きするシェーナ。もう大分落ち着いているが、表情は暗い。部屋よりもまずこちらだろう。とにかく彼女を休ませなくては。

 アシスは少し腕を緩めると、そのままシェーナを抱き上げた。今度は俵担ぎではなく、きっちりと御婦人を抱き上げるように。


「あ、え? ク、クラバルトさん?」

「君の部屋に戻るよ。ガラスなんかがあって危ないしね。それと、アシスで良いよ」


 今更ながらに軽い体だな、と思いつつドアを開けると、完全武装したデュノと使用人達が迎えてくれた。突然出てきた二人に、彼らは構えたまま固まっている。


「アシス、大丈夫なんですか? 一体何がっ……て、何ですこの部屋は!」

「魔族の襲撃と神王のご来訪が会ったんだよ。あとで話すから。君、シェーナの部屋に温かい飲み物を、他の皆は片づけをしてくれ。デュノ、ラドバーと連絡を。街や他の五賢者に被害がないか確認」


 部屋の状況に愕然とするデュノ達に仕事を与え、アシスはさっさとシェーナの部屋へ向かった。今のシェーナを大人数に関わらせるのは良くない。

 彼女の部屋に入り、そっと彼女をベッドに座らせる。アシスはその前に膝をついた。


「少しは落ち着いた?」

「あ……は、い。あの……私、わた、し……さっき言ったこと、あれ、私が!」


 再び叫びそうになる彼女の唇に、アシスは軽く人差し指を当てる。


「今は休んだ方が良い。話は明日でもできるから」

「でも、でもっ」

「シェーナ」


 優しく、諭すように名を呼ぶと、シェーナは唇を噛んで俯いた。閉じられた瞼から、涙があふれ頬を伝う。アシスはそれを拭うとポンポンッと背を叩いてやった。

 同時に一人のメイドが飲み物を持ってきた。アシスはそれを認め、立ち上がる。


「温かい物を飲んだら、ゆっくり休むんだ。今夜は何も考えなくて良いから、ね」


 言って、シェーナの前髪をかき分けると、アシスはその額に軽く唇を落とした。


「っ!」


 驚き、頬を染めるシェーナに、アシスは優しく微笑む。


「お休みシェーナ。良い眠りを」


 なぜか真っ赤になっているメイドにあとを頼み、アシスは廊下に出る。

 シンと静まり返った暗い廊下は、先程の騒ぎの余韻など感じさせない。

 一つ息をつき、アシスはデュノと話し合おうと一歩足を踏み出した。だが次の瞬間、ドクン、と心臓が嫌な音をたてる。


「っ! また、かっ、兄弟に会えたのが、そんなに嬉しかった?」


 グッと胸元を握り、アシスは壁沿いにへたり込む。

 ドクドクと脈打つ心臓は、自分のものではないように早く、力強い鼓動を刻む。そしてその度に、人間ではあり得ないほどの魔力が湧き上がってくる。


「君達兄弟のせいで、こっちは彼女に謝れなかったって言うのに。やっぱり迷惑だ……」


 当初の目的が果たせず、それなのに家は壊され、神王まで出てくる始末。いくら五賢者の仕事にしても割が合わない。しかもシェーナのあの言葉。


「君は、やっぱり僕を殺すために来てるのかな?」


 口に出してみる。だが浮かび上がる泣き顔や、一度見せたあの笑顔に、どうにもそうだとは思えない。

 いや、どこかで否定している自分がいるのだ。そうであって欲しくないと。


「調子……狂うな」


 シェーナが関わっている時の自分を思い、アシスは悪くない自嘲を浮かべた。

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