第2話


幾千の精霊神の一人、華の女神ヴィーラが建国したとされるこのヴィルフランジュ王国は、この華萌月が一番いい季節だった。

広場にも街路樹にも、そして城下町を離れ遠く見渡すほどの草原にも星の数よりも多い花が咲き乱れていた。今日はいつもより空が蒼い。突き抜ける程の晴天っていうのは、こういう日のことを言うのだろう。空気は澄んでいるし、銀色に輝く太陽はまだ肉眼で視界に入るほど柔らかな光をしていた。今日は一日中暑くなりそうだ。

いつものこの時間は城で王女の食事の給仕をしているか、一緒に衣装選びをしている。わたしの役職は侍女なので、主人を置いて一人で外に出ることは滅多にない。王宮へ真っ直ぐ伸びる道を踏むステップも思わず駆け足になってしまう。

中央広場は月に二度の市が立って、新鮮な野菜や取れたての川魚、そして異国の貿易品を並べた色とりどりのテントでごった返していた。

広場にはいくつもの道が合流していて、王宮に向かって右は貴族の屋敷や地方領主の本邸が立ち並ぶ区画になっているが、それぞれの屋敷から来ただろうエプロン姿のメイド達が連れだって買い物に興じているのを見ると、少し一人が寂しくなる。

わたしはこのヴィルフランジュ国に来てから、一人になったことは数える程しかない。

と言っても、来た当時の事は、記憶に留めるにはまだ小さすぎて、全く覚えていなかった。

生まれ故郷も本当のお父さんとお母さんも知らないが、花と水と豊かな緑に愛されたこの首都で、もっとも女神ヴィーラに愛された存在と常に一緒に育てられたので寂しさは感じなかった。    

一抹の寂寥感を感じるとすれば、それはきっと今みたいなことを言うのだろう。

広場の荘厳な噴水を見ても、花に彩られたアーチを見ても、国旗に飾られたトーテムポールを見ても、その記憶の中ではしゃぎ回る小さなわたしは、アルと一緒にいた。

もちろんアルというのは、わたしの最愛の主人であり一番の親友でもあるアルテミア姫のことだ。アルの侍女に選ばれたのが、どこの生まれとも解らないわたしなのかは、自分でもよくわからない。けれど、いつもそばに侍る女を侍女というなら、わたしはまさしくそれだった。この国の民でもないわたしがヴィルフランジュの輝く宝であるアルテミア王女のそばに居るのにはそれが一番いい理由だった。

そんな昔のことを思い出しながら城に急いでいたが、美味しそうなナツメグや焼きたての麺麭が籠に詰まれた屋台にはつい目を奪われてしまった。

そんな時、一人の女の声がした。

「これはこれは。サラサ様ではないですか。こんなむさ苦しい場所ですがよくぞお越し下さいました。何かお探しですか」

髪を頭上でまとめた恰幅のいい婦人が深々と頭を下げる。

「おはよう、奥様。いいのよ、気にしないで。通りかかっただけなのよ」

都中の人が集まったような人混みだったから、まさか王女付きの侍女に過ぎない自分を認められるとは思ってなかったので声が上ずってしまった。

「でもせっかくですから東方の果実でも如何ですか。どうぞ姫様とお召し上がり下さい。もちろんお代は結構でございます」

そう言って両手一杯に差し出されたのは、若菜よりも青く輝く拳ほどの大きさの球体。

青い果物なんてまだ熟していないのを無理矢理もいだ未完成品であり、硬く実が閉じているのが恒だが、これは甘い芳香を漂わせていた。

「珍しいのね。東方っておっしゃったけど」

指先であらざらと繊毛の生えた表面をなぞってみると、それは思ったよりもはるかに弾力があった。

「ええ。昨日の貨物船で届いたばかりの一品ですよ。バンバミラよりも東、砂漠とかいうどこまでも砂で覆われた大地にのみ生える実を旅人が運んでくれた、本国でも貴重な品だそうですわ」

婦人は胸を張って説明してくれた。

砂に覆われた大地ですって?

あの図書館に秘蔵されている地理誌でしか読んだことはないが、その乾涸らびた土地では水と、水分を豊富に含んだ果物が重宝されているらしいことは知っていた。

珍しい果物が好きなアルにいい土産になると思い、知らず顔が綻んでしまう。それにしたってこの多さには申し訳なさを通り越して驚いてしまう。

「いいの? こんなに。売り物でしょう?」

「もちろんです。アルテミア様の侍女殿に直接お渡し出来るのならば、殿下に贈りものが出来るのと同じこと。こんなに喜ばしいことはありましょうか」

 そこまで言われてしまえば断ることは出来なかった。笑顔で受け取ろうとした時、会話を聞きつけた買い物途中の人達や別の店主も集まってきた。

「王宮の女官様だってよ」

「姫君のお使いだそうだ」

不思議な長い布を頭に巻いた異国の行商人や、肩から売り物をいっぱい捧げた天秤を携えた手売りの農民やらが集まってきた。

さすがにこれでは収集がつかなくなってしまう。

「女将さん、本当にありがとう!」

渡された大きな籠を抱えてドレスの裾を翻し、人混みをかき分け脱兎のごとく駆け出すのはちょっとばかりみっともないけれど仕方ない。

青空の下そびえ立つ千華の宮殿・ヴィルフランジュ王宮の白銀の天守は、手を伸ばせば届きそうなほどに近く見えるのに、まだまだ遠い。

極彩色の喧噪に彩られた市場を通り、灰色の石畳を駆ける。順序よく所定の位置に納まっている石と石の間から春ならではの生命の息吹を抑えられずに萌え出でる新緑の草。不作法だからと雑草はすぐに環境整備のお役人に抜かれてしまうがわたしはこの石の隙間からちょこんと生えている短い草が好きだ。

続いて兵士達の居住区を通り過ぎ、尖塔の見張り台に守られた重厚な門を潜り広大な庭園へ。日よけ帽を目深にかぶった園丁達が朝露に濡れた花園の手入れをしている。わたしが一足飛びに走り抜けると彼らは帽子を取って挨拶した。

わたしは恥ずかしさからバスケットに顔を埋めると、甘酸っぱいシナモンの香りが鼻腔いっぱいに広がった。

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