ヴィルフランジュの花女神

猫柳ありさ

第1話 


侍女の仕事は朝が早い。

輝く太陽が地平線を紫暁に染める頃にわたしは目を醒ます。あと少しだけ、柔らかい羽根布団の中にいたいけれど、良い侍女というのはきっと、主人よりも早く目が覚めて、白い湯気が昇るほかほかの朝食と糊の効いたお召し物をきちんと用意しておくものだと思うから。

それに城で働く何百人何千人という人たちは、きっともっと早くから起きだしているに違いない。かまどを暖め、井戸から水を汲み、それから、馬舎の整備をする人とか衛兵さん達も。たくさんの人たちの働きぶりを想像すると、自分もこれ以上惰眠を貪っているわけにはいかなかった。

それに加えてもうすぐ華萌月の祭りが始まるので、その準備で城中が浮き足立っている。なにしろ今年の祭りは国を挙げての特別な祭事も兼ねているし、それにはわたしも深く関係しているので心穏やかではなかった。

だからわたしは居心地の良い寝台から抜け出して……。

思いっきり伸びをして跳ね起きると、腕が何かにぶつかった。しかもここは寝台じゃない。椅子に座っているし、身につけているのも淡いスミレ色のドレスのままだ。

ええっと。

ここは、どこ。 

見えるのは漆喰の壁に、火の消えた蝋燭の燃えさしだけ。

ここがヴィルフランジュ王宮の住み慣れた自室でないことにはすぐに気がついたけれど、昨日と今日が連続していることを確信出来ないような妙な浮遊感がある。

整然と調えられた白亜の宮殿はこんなに埃っぽくはないし、何より積み上げられたたくさんの書物。夢の世界から突如現実に放り出されたような目眩を頭痛と共に振り払うと、足下に散らばる数冊の本の表紙が見えた。

なあんだ、これが崩れた音で目が覚めたのね。

貴重な古文書を適切な温度と湿度で保存するために、明かり採りが上方に一つあるだけの薄暗い賢者の塔は、昼も夜も、魔術で灯されたオレンジ色の光がゆらゆらと陽炎のように揺らめいる。まるで見ているだけで眠くなってしまいそうなこの神秘的な光がわたしは大好きだった。

この国で、いやこの大陸のどこに行っても、所謂「魔法・魔術」の類は滅多にお目にかかれない。でも便利だからこうやって学者様が額を付き合わせて日夜研究に勤しんでいるのだけれど。

まだ夜明けには早いわね、と推測し再び机の上で自分の腕を枕にして額を乗せた時、とんでもないものが目に入った。

埃をかぶって長い年月に黄ばんだ革表紙に点々とついている涎の跡。

国宝級の禁書を枕にしてたなんて、大賢者様にバレたら罰としてこの途方もない蔵書整理でも手伝わされるかもしれない。

ううん、それどころか一生この塔に出入り禁止になってしまう。

それだけはまずい、なんとしても。急いでハンカチを取り出した。

「おはようございます、サラサ様。調べ物はお済みですか」

ぎくりとして飛び上がって振り返ると、そこにいたのは予想通り、片眼鏡を整った顔に貼り付けた背の高い男性だった。

「ごめんなさいっ。ハルマ殿」

 怒られる前に謝った方がいいと、本を胸の前で抱えて立ち上がった。その拍子にガタンと派手な音を立てて椅子が倒れ、更に四冊ほどバサバサと音を立てて本が滑り落ちる。

「はは。いいですよ。サラサ様は大層勉強熱心であられたと師匠に伝えるだけに留めておきましょう」

ハルマ殿が深緑のローブの裾で背表紙をぬぐうのを、わたしはぼんやりと眺めていた。男の人にしては長い髪を緩くまとめ、上等なローブの上に流している。

わたしは魔術をこの人の教わっているというのが自慢の一つなのだが、わたしがお仕えしているアルテミア王女は、わたしが賢者の塔に行くことを快く思ってないらしい。

それが少し不満だった。昨日だって本当は目的の本を見つけたらすぐに王宮に帰るつもりだったのに、つい居心地のいいこの塔で寝入ってしまったのだ。

そんなことを考えていたらハルマ殿はわたしが取り出したままのハンカチを指さした。

「だいたい、拭くならこのくらい分厚い布を使わなければね。そんな絹では破けてしまいますよ。ところで王宮に戻らなくていいのですか? もうすぐ大楼閣の二の鐘がなりますよ」

ええっ! もうそんな時間なの?

てっきりまだ、一の鐘も鳴らない時間だと思っていた。

タイミングを計ったかのように、澄んだ金属の重低音が幽かに鳴り出した。鐘楼がある広場はそんなに遠くはないけれど、この石の塔は研究者達が静かにその本分に集中出来るようにと壁を分厚く造られているから、それはどこか遠くで鳴っているように聞こえた。

「うん。じゃあそろそろ行くね」

わたしは昨夜目星をつけていた一際茶色に変色している本を手に取り立ち上がった。

「これ、借りていってもいい? 姫様のご所望なんだけれど」

「三日以内に返して下さいよ。こっそりとね」

ハルマ殿は目を瞑って両手を広げた。その態度が示す通り、見なかったことにする、という意味だろう。彼は例え学者になっても——それも、ただの学者ではない——大賢者様の一番弟子になっても、あのころと変わらずに優しいお兄ちゃんだった。

「ありがとう、ハルマ殿! その時はまた葡萄酒を差し入れに持ってくるわ!」

わたしは塔の内側にとぐろを巻く螺旋階段を駆け足で降りる。この塔は壁の内側がびっしりと古今東西の様々な本で埋まっていて、下に移動するには、本棚の隙間に魔術で浮かべた浮き石を階段代わりにしなければならないのだ。

「サラサ様! ちょっと待って下さい!」

二、三周くるくると飛ぶようにこの恐ろしい螺旋階段を降りたところで、上方から声が響いた。なあに、と見上げるとハルマ殿が少し困ったように言った。

「その格好で公衆の面前に出るおつもりですか。早朝とは言え、今日は市が立つ日です。髪を梳かすなりなんなりしないと笑われてしまいますよ」

ああもう! 

そう言われれば、寝癖はいつもよりも酷いし、腕に乗せてた頬と額は多分絶対赤くなっている。でも時間がないのよ!

「ちょっと待って下さい」

ここで暮らすハルマ殿は慣れたようにトトトンと、階段を二段とばしどころか四段とばしくらいで駆け下りる。わたしはいつも落ちてしまわないように、一歩一歩慎重に脚をおろしているのに。

「ずるいわ」

「大人しくなさってくださいね」

ハルマ殿はどこからか銀の櫛を取り出すと、四方八方に飛び出た栗色の髪を器用に梳る。

 そんなに触らないでほしい、恥ずかしいもの。わたしの髪は酷い癖っ毛で、今日だってふわふわ好き放題にカールされてるし。ってそうじゃなくて。だって昨夜は湯浴みもしてないもの。きっと汗と埃でべとべとに決まってる。

「相変わらず貴女の髪は涼葉月の輝く太陽のようだね」

「赤いって言いたいの? 姫様のは百倍も素敵な金髪だわ」

 本当にそう思う。

夏も近い涼葉月の太陽は、大地と実る穀物を黄金色に照らす。しかしそれは金を通り越した黄土色っぽくもあり、王女の真っ直ぐ腰まで伸びた金髪には絶対に敵わない。それはまるで東のイオス=バンバミラから船で届いた絹糸の繻子のようだったから。

「そういう意味ではありませんよ。はい、出来ました」

ハルマ殿が重い石の扉を開く。

暗い塔に地平線から生まれたばかりの光が差し込み広がった。舞い上がる埃が白く浮かび上がり、同時に鳥が羽ばたく音が聞こえる。

毎日のように思うけれど、まさにこれぞ、朝、よね。

「王女殿下にも、昔のようにまたいつでもお立ち寄り下さいと伝えてください」

「ええ、きっと伝えますわ」

叶わないだろうと思ったが、一応努力はしてみよう。アルテミア姫は確かにハルマ殿を嫌って——名前を出すだけで顔を顰めるくらいには——いるが、昔は王女と二人でよくこの塔に遊びに来ていたのだから、また昔のように遊びに来れたら楽しいと思う。

「ではサラサ様、お気を付けて」

朝日を背負い腰を折り、王都ヴィラの中央広場に続くドアを開けて正式な礼をするハルマ殿をちょっと格好いいかも、なんてこれっぽっちも思っていない、絶対に。

こんなに心が浮き立つのは、一日の始まりの朝だから、だと思う。

わたしも上機嫌でドレスを翻し、礼をした。

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