第三章 突然の……
1.
十二月の第一週、ある日の昼休み――、
「じゃあ、ここで問題」
椅子だけを後ろに向け、一夜の席で弁当を食べながら僕は言った。
「大きさ・形・体積が同じで質量だけが違うふたつの物体を、同じ高さから同時に鉛直方向下向きに落下させたとき、どちらが先に着地するでしょう?」
すると、一夜の動作の多くが止まった。
普段、一夜は『食べる』『話す』『本を読む』という三つの作業を同時にこなすが、今はそのすべてが停止し、『考える』がそこにとって代わっている。
やがて、思考の末――、
「……同時」
と、一夜は自信なさげに答えた。
当然だ。今さら高校生にもなって、どんなものでも落下する速度は同じ、なんて自慢げに語るやつはいない。それを考えれば自信もなくなる。
そして、自然、僕の答えはこうなる。
「ぶー。はずれー」
「……」
一夜は何か言いたげに黙り込んだ。視線が少しばかり冷たいような気がするが気にしないでおこう。
「正しくは、重いほうが先に落ちる。だって、物体自体にも引力があるからね。だったら、重い物体のほうがその値は大きくなる。……これが理系的なひねくれた思考というものだよ、一夜。……やっぱりさ、一夜は文系の方が向いてなくない?」
別に今の問題で証明されたってわけじゃなくて、定期テストの結果とか成績とかを見ての話。
「俺は、那智の成績が理系に偏ってるみたいに、文系に偏ってるわけやないからな。どっちに進んでもそれなりにやれるわ」
微妙に負け惜しみの響きが含まれた口調の一夜。
「確かにね、一夜は文系理系関係なくぜんぶいいから。ま、それに僕としても同じコースに進んでくれたほうが嬉しいんだけどね」
「だったら、最初から言うな」
しかし、そう言うと一夜は素早い動きで、ひょい、と僕の弁当箱からミートボールを摘み上げ、自分の口に放り込んだ。
「うあ゛……」
あぁ、僕のミートボールが……。冷凍食品だけど、最近いろんなメーカーのを試してみて、ようやく見つけた最高の一品なのに。へちられた……。
「今日の最後の一個……」
こうして僕のランチタイムは突如として現れた
もう怒る気も失せ、僕は弁当箱を片付けると椅子から立ち上がった。
「どっか行くんか?」
「ん。ちょっと司先輩に用があるから学食に。いいよ、ひとりで行くからさ。……ちくしょう。一夜なんか文系に行ってしまえ」
「む……」
恨みのあまり捨て台詞を吐くと、一夜はかすかに眉根を寄せた。しかし、僕はかまわず踵を返す。
「……那智」
教室の扉に向かおうとした僕に一夜が声をかける。
「好きなモンやる」
そう言うと一夜は自分の弁当箱を僕に差し出した。
「……」
「……」
「……」
そんなので誤魔化されるかっ。
ひと口トンカツを頬張りながら学食に行くと、そこに司先輩の姿はなかった。
まぁ、今までの経験から必ずしもそこにいるわけではないことを知っていたので特に不思議とも思わず、そのまま先輩の教室の方まで足を延ばしてみる。
ところが、教室にも先輩はいなかった。
「おっかしいなぁ」
あと考えられるとしたら、美術室、教室移動、五限目が体育なら更衣室、等々。
とは言え、校内を捜し回るほどの急用でもないので、またの機会にと諦めて教室の戻ることにした。
一年の教室が集まるあたりまで戻ってくると、何となく廊下がざわついているような気がした。昼休みだから当然なのだろうけど、どことなくいつもと違う感じだ。
いったい何だろう?
首を傾げながら歩いていると、正面からきた女の子二人組が僕の顔を見るなり「あ……」と小さく声を上げて、居心地悪そうに通り過ぎていった。おかげでよけいにわからなくなった。
そうしてようやくその元凶に辿り着く。
「おりょ?」
それを見て僕は思わず声を漏らした。
教室の前に司先輩がいた。しかも、珍しいことに一夜と立ち話をしている。なんともレアな風景だ。
先に一夜が気づき、その視線につられるようにして先輩が遅れて僕を見つけた。
「あ、那智くん」
「こんにちは、先輩。……なんだ。入れ違いになったのか」
「ええ、そうみたいね。わたしも那智くんに用があってきたのよ。でも、いないから帰ろうと思ったら、遠矢君にすぐに戻ってくるだろうからって言われて。だから、ここで待っていたの。その間、遠矢君には話し相手に、ね」
そう言うと先輩は同意を求めるように一夜を見て微笑んだ。
「……」
なるほど。そういうことか。
廊下のざわつきも先の二人組の反応も、すべてはこのツーショットのせいだな。
「そうだったんですか。……では、一夜、先輩のお相手ご苦労だった。後は僕に任せて、君は教室に戻ってくれ。ほらほら、いったいった。ちぇいっ。いけっ」
しっしっ、と手で追い払いつつ最後には威嚇までする。そんな僕に、一夜は肩を竦めて鼻で笑うと、黙って教室の中に入っていった。
「ぬー」
そこはかとなく敗北感を感じるぞ。
どうにも腹が立つので僕は一夜の背中に向かって「このやろう」の蹴る真似をしてやった。
と、横からくすくすと司先輩の笑い声が聞こえてくる。
「そう。なるほどね。円が言っていたのはこういうことね」
「な、なんですか? 円先輩が何か言ってたんですか?」
「ううん、何も。那智くんは気にしないで」
そうは言うが、しかし、先輩は可笑しそうにまだ笑っている。
「むう。ところで先輩、今週末のことですけど」
「ええ、そうね。わたしもそのことでここにきたの」
「え? と言うと、何か予定が入って、行けなくなったとか?」
まず思いついたのがそれだった。
僕から申し込んだデートは、結局、先輩の言う「今回は今回。クリスマスはクリスマスです」のかたちに収まった。最初は週末にしようと提案したものの、ここにきて改めてお流れになると、それはそれでショックだ。
「ばかね。わたしが那智くんとのデートをキャンセルするはずがないわ」
「お、おう……」
こんな人目の多いところでデートなんて単語を出されたら、照れる以上に身の危険を感じる。僕は思わず周囲を見回し、索敵していた。幸いにして程よく敵意と殺意の視線はあるものの、耳を欹てて会話を聞いているやつはいないようだ。
「ほら、まだ待ち合わせ場所とかを決めていなかったから、そのことで」
先輩は挙動不審であろう僕にかまわず話を続ける。
「え? あ、そうだったんですか。僕もそのつもりで先輩を捜していたんですけどね。……で、どうしますか?」
「そうねぇ。どこに行くにしても電車なんだけど。乗る電車を合わせて中で合流、じゃ面白味に欠けるわ。初めて待ち合わせしたところでどうかしら?」
「あぁ、あそこならわかりやすいです」
地下繁華街の、芸術が不発したようなわけわからんオブジェのついたあの噴水の前だ。
「ちょっと遠いのが難点ですが、とりあえず何でもできてどこにでも行けそうですね」
しっかし、先輩、余裕だな。学校の廊下なんかでこんな話するなんて。まぁ、人目はあっても話まで聞かれることはあまりないとわかっているからなのかもしれないけど。僕ならもう少し落ち着いて話せる場所を選ぶ。
薄々感じていたけど、もしかして司先輩って自分が有名人の自覚ない?
そんなことを考えつつ話をしていると、着実に時間は経過し――ついに昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。
「それじゃあ」
「ええ、またね」
司先輩は笑顔とともに胸の前で小さく手を振って、去っていった。
あと五分もすれば本鈴が鳴り、五限目がはじまることだろう。僕も踵を返し、教師の中へと入る。が、自分の机を前にして足が止まった。
僕のひとつ前の席は一夜だ。一夜はすでに五限目の準備を終え、静かに文庫本を読んでいた。
「一夜、さっき司先輩となに話してたのさ?」
「別に。人に言うような話はしてへんわ」
「なんだよー。僕に言えないような話をしてたのかよーっ」
うらぁー、と机を蹴っ飛ばす。
「アホか、お前は。人の話をちゃんと聞け」
しかし、一夜はいたって冷静に机の位置を直しただけだった。
「でもさ、先輩とふたりきりで話せて嬉しかっただろ?」
「別に? 那智じゃあるまいし。あの先パイと話すことに特別な感情はあらへん」
「なんだとー!? 司先輩だぞ。少しは喜べよ」
もう一発キック。
「いったいお前はどこに何を主張したいねん……」
「あ、あれ? なんだろね?」
いまいち自分で自分の精神活動を把握し切れてないな。
「アホ。死ね」
そんな僕に一夜は冷ややかな言葉を浴びせた。
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