5.
司先輩に会いたい――
そう思って外に飛び出したら――そこに、司先輩がいた。
「先輩!?」
会いたいと思っていたまさにその人がそこにいたことに驚き、足が止まる。
先輩の口が動き、何か言ったようだったが、僕の耳には聞こえなかった。もう頭が真っ白だ。
「先輩っ」
嬉しさのあまり僕は駆け出した。
先輩とは毎日のように会っているのに。会おうと思えばいつでも会える距離にいるのに。今この瞬間、目の前にいることがやけに嬉しかった。
靴もちゃんと履かずに駆け出したものだから、先輩のもとに辿り着くまでに何度も転びそうになった。
そして、僕は先輩を抱きしめた。
「ど、どうしたの、那智くん」
「会いたかった。すごく、会いたかった……」
素面じゃ恥ずかしくて言えないような台詞なのに、今は普通にすんなりと言えてしまった。
「ええ。わたしもよ。わたしも那智くんに会いたくて、ここまで迎えに来たわ」
先輩は優しくそう言い、片手を僕の背中に回し、もう片手で頭を撫でてくれた。
ああ、こうしていると安心できて……落ち着くかあっ!
「うわあっ!?」
僕はすぐに先輩から離れ、一瞬にしてかなりの距離を飛び退いた。
その場の勢いで何をやっとんだ、僕は。
「あら。もう終わり? 残念ね……」
先輩は言葉通り心底残念そうに言った。
いや、もう終わりとかそうじゃないとかじゃなくて、最初からやっちゃいけないことのような気がする。
(って、うわ、やば……)
なんかあれだけで先輩の体温とかやわらかさとか、身体に刻み込まれてるんですけど。
「じゃ、じゃあ、先輩、帰りましょうか」
僕は動揺を誤魔化すようにそう言うと、さっさと歩き出した。先輩の横をすり抜けるとき、先輩がかすかに笑っていたような気がするが、きっと気のせいだろう。
門をくぐり、料亭の敷地の外に出る。
「もう帰ったのね、あの子」
表の通りの左右を見渡す司先輩。そこには人もいなければ、車も通っていない。
「誰ですか?」
「宇佐美さん」
「あぁ」
そう言えば、かかってきた電話を受けながら小座敷を出ていったきりだったな。
「……」
と、そこから、たった今、中で聞かされたばかりのことを思い出した。先輩に会えたことですっかり忘れていた。
「聞いたわ、宇佐美さんから」
何をどう話したものか考えていると、先輩が先回りするように言った。
「そう、ですか。……まったく、笑えない話ですよね……」
「そうね」
そう先輩は返事をする。でも、それは同意でも何でもなく、ただの相づちのようだった。
「奈っちゃんも最初からそのつもりで僕のところにきたようです。僕がどんな人間か、下調べのために」
「そう」
今度は少し同情の色が含まれていた。何もおしえられていなかった僕を哀れんでくれたのかもしれない。
「じゃあ、最初から『那智先輩』は期限付きだったのね。那智くんと一緒にいるうちにだんだん変わってきて、今日がその夢の終わり。『先輩』から『お兄様』へ」
「なんですか、それ?」
「ううん、何でもない。那智くんは知らなくていいことよ」
司先輩はやわらかく微笑む。
「さ、帰りましょ」
先ほど僕が言ったのと同じような言葉で先輩はこの話題を打ち切った。そう言われてしまうと、もうこれ以上追及することは無理そうだ。
先輩は門の近くに停まっていたスクータに近寄ると、ハンドルにかけてあったヘルメットを手に取り、頭にかぶった。
「え? 先輩、スクータできたんですか!?」
驚いた。今まで免許を持ってるなんてひと言を言わなかったから。
「ええ、そうよ。那智くんに少しでも早く会いたかったから。非常手段ね」
「ぁ……う……」
そう言われるとひとたまりもない。
致死量だ。
「はい。後ろに乗って」
先輩はシートにまたがった状態で準備万端整ったとばかりに言った。シートの前の方に座っているあたり、僕に空いているスペースに座れということなのだろう。つーか、自分だけヘルメット?
「ふたり乗りですか?」
「そうです」
唄うように先輩は言う。
ふたり乗りはまぎれもなく道路交通法違反だ。しかし、帰るためにはそれも仕方ないのだろう。ここにくるのに車で二十分ほどかかっている。歩いて帰るにはけっこうな距離のはず。
僕は観念して後ろに乗った。
……近い。
先輩の体が目の前にある。ワンショルダーの服なんか着てるから右肩がむき出しだし。ていうか、ミニスカートにワンショルダーにマフラーってどうよ? きっと基本的に防寒よりオシャレ優先なんだろうな。
えっと、手はどこに置いたらいいかな……?
「ほら、ちゃんとわたしにしがみつく」
マジでぃすかー?
しがみつくってーと、こう、後ろからがばっと……って、いやいやいや、普通、原チャのふたり乗りの場合、手は後ろを掴むものだろ。
「なに照れてるのかしら? さっきは抱きついてきたくせに」
「うあ゛……」
せめて『抱きしめた』と言ってもらいたい。
「いや、えっと、そうじゃなくて……。だから、その……。あ、そうだっ。先輩って免許持ってたんですね。知りませんでしたよ」
こんな状況で何を思ったのかいきなり話題を変える僕。
「ううん。持ってないわよ」
「押して歩きましょう!」
僕はすかさず飛び降りた。
世のため人のため、そして、交通課のお巡りさんの手を煩わせないため、ここは押して帰るべきだろう。
「無免だったですか!?」
「だから非常手段って言ったじゃない?」
それで許される問題か。世の中舐めるなよ。かわいいからって見逃してくれるほどお巡りさんは甘くないんだぞ。
「あぁ、もうっ。僕も後ろから押しますから、歩いて帰りましょう。ほら」
「仕方ないわね」
その台詞はこっちが言いたい。
そうして僕たちはふたりでスクータを押して帰った。後はこの姿を、スクータをパクッて持って帰ってる最中と思われないように祈るだけだ。
不意に僕は切り出す。
「先輩? 今度、デートしてください」
「え……?」
「うわ!? 先輩、手を……っ!」
いきなり先輩が手を離したものだからスクータが傾く。僕は咄嗟に腰を落とし、腕に力を込めてそれを支えた。
「あ。ご、ごめんなさい……」
すぐに先輩がハンドルを取ってくれたので、危うく転倒は免れた。
「だって、那智くん、唐突にそんなことを言うんだもの」
「唐突だなぁとは自分自身でも思うんですけどね、なぜかそういう気分になったもので。……ダメですか?」
「ええ。もちろん、いいわよ」
二つ返事で返ってきた。
先輩が前でハンドルを握って押しているから見えないけど、今いったいどんな顔をしているのだろう。急にこんなことを言い出す僕に、きっと呆れているのだろうな。
「それで、いつにする? 今度の日曜?」
「いや、やっぱ期末テストが終わってからでしょう?」
「えー?」
「『えー』じゃないです。先輩、気を抜くとすぐ赤点取るんですから」
学園のアイドルがダブリとかダメだろ、普通に。
「ほら、期末終わったらすぐにクリスマスだし、それに合わせるってのはどうです?」
「いやです」
きっぱり言われた。
「今回は今回。クリスマスはクリスマスです。楽しい夜です」
「……」
なんでこんなに強情なのだろう?
「って、いや、ちょっと待て。今、変なキィワードが引っかかった!」
「そう? 気のせいじゃなぁい?」
「だって、今――」
「あー、ほら、ごちゃごちゃ言ってないでちゃんと押すっ。これガソリンが満タン入ってるみたいで重いんだから」
言われて僕は、いつの間にか手を離していたことに気づき、改めて後ろから車体を押す。
「……」
ああ。
なんだか久しぶりに先輩と気を遣うことなく話したような気がする。
錯覚だろうけど懐かしい感覚。
そして、この後も歩いて一時間ほどの道のりを、僕らはふたり、他愛もない話をしながら帰った。
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