第五部
第一章 転機の予兆
1.
その日は平穏な日だった。
朝、電車を降りて学校へ向かう途中、前方に円先輩に姿を発見。女子では学園で一、二を争うくらいに背が高いのでとても目立つ。
「円先輩、おはようございます」
「あぁ、なっち。おはよう。今日も元気ね」
追いついて隣りに並ぶと背の高さがさらによくわかる。僕よりも十センチ以上も高い。少し分けて欲しいものだ。
「そう言えば、先輩、夏休みは友達の別荘に行ってたんですよね?」
「……そ、そうだけど?」
「……」
今、返事するまでに妙な間があったよな。しかも、噛んでるし。
「一夜のやつがですね――」
「遠矢っちが何か言ったの!?」
「い、いえ、何も言ってませんが……?」
「そ、そう……」
「……」
なんか、めちゃくちゃ動揺してないか?
「いや、一夜も夏に別荘に行ったとか言ってたから、この学校って別荘所有率が高いのかなぁと思って。先輩は誰のところに遊びに行ったんですか?」
「ア、アタシの友達。なっちの知らない子だからっ」
「そ、そうですか……」
「……」
「……」
だんだん気の毒になってきたので、これ以上聞くのはよそう。
秋晴れの空の下、円先輩と並んで学校へと向かう。
「クラブを引退して二ヶ月。ようやく普通の時間の登校にも慣れてきたわ」
感慨深げに円先輩が言った。
その気持ちは僕もわかる。僕も中学の時、最後の大会の前は朝練ばかりだったので、引退した後しばらくは違和感を感じて仕方なかった。
「僕もようやく先輩の制服姿に慣れてきましたよ」
「え? アタシってそんなに制服に合わない?」
そう言って先輩は改めて自分の姿を見ている。
「いや、似合わないとか変だとかじゃなくてですね。先輩って、その、スタイルがいいから、男の僕から見ると目の保養になりそうでいて、その実、ものすごく目の毒だったりするわけですよ」
あまり詳しく言うといやらしくなるから、このあたりで止めておくべきだろうな。
「ふんふん。……例えば?」
「そうですね。長い脚とか、制服のブレザーを着て尚わかる体の曲線とか……、ぁ……?」
「……」
「……」
「……」
あー……、前から薄々感じてたんだけどさ。この手の誘導尋問とも呼べないような尋問に弱くない、僕?
「そ、そう言えば、僕、日直だったんだ。じゃあ、先に行きますね」
「ちょい待ち」
「ぅぐえっ!」
逃げようと思って歩速を早めたが、襟を掴まれて、速攻、とっ捕まった。
「離してください! 死んだおじいさんの遺言でバベルの塔みたいな先輩とは一緒に登校するなって言われてるんです!」
「突っ込みにくい嘘吐いてるんじゃないわよ。アンタの生い立ち考えたら、素直に突っ込めんわ」
そりゃそうだろうな。じい様どころか両親の顔も見たことないもの。
で、結局、僕は力ずくで引き戻されてしまった。
「そっかそっか。なっちも男の子だねぇ」
先輩はにやにやと笑いながら言う。
「あう。申し訳ないです……」
健全な男であることは、まぁ、自覚してるからいいんだけど、『男の子』は嫌だなあ。
「別にいいよ。なっちが言うとそんなにいやらしくないからね。……それにしても、なっちってそんなふうにアタシを見てたんだ。ふうん……」
「……」
あ、今、すっごい嫌な予感がした。最後の「ふうん……」なんか、こっち見てる目が光ってたぞ。
「やっぱり、僕、早く学校に行きたくなりました。逃げます。追わないで下さい」
が、しかし、僕が駆け出すよりも先に先輩の手が伸びてきて、僕の首に巻きついた。そのまま頭を、ぐい、と引き寄せられる。
「逃げるなよぉ。ほらほらー」
「いーやー!」
頭は引っ張られても体は辛うじてその場に留まっている。これで体まで持っていかれたら大変だ。えらいことになってしまう。
「は、離して下さいっ」
「遠慮するなよ~」
「してない。遠慮してないっ。周りに迷惑だからっ」
実際、ふざけながら歩いているものだから、すっかり速度が遅くなっている。狭い歩道で騒いでいる僕らに白い目を向けながら、同じ制服を着た生徒が何人も追い抜かしていった。
そして、ついには恐怖の大王にまで追いつかれてしまう――。
「おはよう。朝から仲がいいのね、ふたりとも」
その声が誰のものか頭が認識するよりも先に体が反応していた。僕も円先輩も一瞬にして右と左に飛び退いて、同時に後ろを振り返る。
「つ、司先輩!?」
「司!?」
そこには口元に微笑みを湛えた――そのくせ目はぜんぜん笑っていない、司先輩が立っていた。
「「 えーっと…… 」」
足を止めて歩道の真ん中で仁王立ちの司先輩と、それに睨まれながらも何とか言い訳を探そうとする円先輩と僕。
と――、
「なっち!」
ずびしっ、と円先輩が僕を指さす。
「なっちが悪い!」
「う、うぇ?」
「なっちが面白いから、思わずからかいたくなったのよっ」
うわ、信じられねぇ。我が身かわいさに後輩売りやがった、この人。
「ええ、円、その気持ちはよくわかるわ」
司先輩は神妙な顔つきで円先輩に同意し、肯いてみせた。
わかるのかよ。
「でも、那智くんは返してもらっていくわ。……さ、行きましょ、那智くん」
そうして司先輩は僕の腕をがっしりホールドすると問答無用で連行していく。
「先輩! 逆、逆! 僕、後ろ向きです!」
右腕同士を絡めているものだから、僕が引きずられるかたちになっていた。しかし、司先輩はそんなのお構いなしに歩いていく。
ていうか、円先輩、何で哀れむような目で手振って見送ってるんだよ? 誰のせいでこんな目に遭ってると思ってんだ?
あー、周りの視線が痛い。絶対また不名誉な評判が立つな。
(まあ、それでも……)
世の中、今日も実に平穏だなぁ……
昼休み――、
教室で一夜と弁当を食べた後、ふたりで学食へと場所を変えた。これも最近では半ば習慣と化している。
「那智くんのクラス、今日は七時間授業の日よね?」
向かいに座る司先輩が訊いてくる。隣には円先輩もいる。そして、僕の隣には一夜。これがいつものフォーメーションだ。
「ええ、そうですよ」
僕は答える。
特進クラスは月、火、木、金は七時間授業だ。午前中に四時間やって、昼休みの後にまだ三時間も残っているのだから大変だ。それも半年続けていればいいかげん慣れてきたけど。
「ふうん。そっか……」
そう納得するように頷くと、司先輩は何か考え込みはじめた。
「アタシら特進クラスに知り合いがいないからよくわからないけど、七時間も授業やって何してんの?」
「一年の間は他のクラスと一緒ですよ。ただ単に授業の時間が多いだけ。でも、二年になったら文系理系に分かれるから、科目そのものが多くなるんです」
例えば理系に進んだ場合、数学ひとつとっても、二年には数学IIと数学B、三年には数学IIIと数学C。そして、それとは別に数学演習という科目もある。理科もわんさか分化していく。
「那智くんはどっちに進むか決めてるの?」
「んー? たぶん……、というか、ほぼ確実に理系」
このあたりは紗弥加姉の影響だな。あの人間計算機みたいな紗弥加姉が理数系が好きでいろいろ話を聞かせてくれるので、僕もそっちの勉強をしてみたくなったのだ。
「じゃさ、遠矢っちは?」
「……俺?」
今まで感心のなさそうな顔で話を聞くだけだった一夜が、いきなり話を振られてぴくりと跳ねた。
「あら、遠矢君は文系よね?」
「あ、僕もそう思う。一夜って一日中、本読んでるし」
普段の一夜を考えれば満場一致で文系となるかと思いきや、ひとり円先輩が反対意見を挙げた。
「いーや、アタシは理系に進むと見た」
「……む」
何が気に喰わなかったのか、一夜の眉が不機嫌に吊り上がる。
「で、本当のところ、一夜は決めてるの?」
「俺は……」
と、言い淀む一夜。
何やら葛藤があるらしい。進路を決めていないから言葉に詰まっているんじゃなくて、言葉にするのを躊躇っているようだ。
やがて苦々しげに口を開いた。
「……理系」
正解は円先輩。
なるほど。だから言いにくかったんだな。一夜は出会った当初から円先輩のことをきらってるっぽいので、その円先輩に言い当てられたのが悔しかったのだろう。
それはさておき――、
「一夜っ」
横から、がば、と抱きつく。
「やっぱりお前は親友だ。これで三年間一緒のクラスだあ」
「あ、ああ、そうやな……」
僕の喜びとは対照的に、一夜は迷惑そうな響きの、引きつった声だった。……そんなに嫌なんかい。
と、そこで昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。
「ん……。行こか」
途端、僕の手を振り解き、すっと立ち上がる。
「えらく急ぐね。もっとゆっくりしようよ」
「中馬の授業に遅れていく勇気があるんなら、思う存分ゆっくりしていけ。俺は先に行かしてもらうわ」
「げ。そうだった」
数学の中馬先生はチャイムが鳴ると同時に授業をはじめ、その時点で教室にいないと問答無用で平常点を減点するという厳しい先生だ。
「あー、そりゃマズいわね」
同じく中馬先生の授業を受けている円先輩が言う。
僕らの教室はここ学食から遠い位置にあるので、あまりのんびりしていられない。
「じゃあ先輩、また」
「ええ、じゃあね。遅れないようにね」
挨拶もそこそこに僕と一夜は駆け足で教室へと戻った。
放課後――、
七時間に及ぶ授業と終礼を終え、昇降口で靴を履き替えて外へ出る。一夜はまだ本を読んでいたので、ほったらかしにしてきた。
この時間に下校する生徒は少ない。七時間授業は特進クラスだけで、大半の生徒はすでに帰宅するなりクラブ活動に行ってしまっているからだ。
うーん。秋晴れの空の下、実に平穏――
「なっち先ぱ~い!」
でもなかった。
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