3.
一学期最後の日――、
炎天下の終業式が終わり、僕ら生徒はそれぞれの教室に戻ってきた。
灼熱地獄から解放されたクラスメイトは皆一様にぐったりしている。
ふと隣の席を見ると居内加代子さんが胸元からブラウスの中に下敷きで風を送っていた。さすがにこれは見てはいけないと思い目を逸らそうとしたが一瞬遅く、彼女と目が合ってしまった。
「……」
「……」
「……ごめん」
僕が謝ると、居内さんは顔を赤くして俯いてしまった。
それから彼女は黙って筆箱からカッターナイフを取り出して手首に当てたので、それを止めるのによけいなエネルギィを費やした。
(居内さんって意外にトリッキィな性格してたんだな)
ぷちアルマゲドンを阻止してから僕は痛感する。
そうしてるうちに担任の尾崎先生がきて、今学期最後のホームルームがはじまった。
通知表が返ってきた。
幸いにして成績は程よく上位。まあ、入試の結果がよくて特待生扱い、入学金免除の一夜には敵わなかったけど。
そういえば、と遠目に宮里晶(通称サトちゃん)を見てみると、大口開けて豪傑笑いしていた。きっと赤点は免れたのだろう。周りのクラスメイトをぼこぼこ叩いて喜びを表現するのは迷惑極まりないが。
「明日から夏休みだぜ、一夜っ」
ついにホームルームも終わり、おおよそ考え得る限りの学校の枷から解放されてテンション上がりまくりで一夜に声をかけた。
が――、
「そうやな」
そんな僕とは対照的に一夜はいつも通りの――平べったく言うと低めのテンションで、答えてくれた。
「なに、夏休みが嬉しくないの?」
「そういうわけやないけどな」
机に出していた筆記用具なんかを鞄に片づけながら、一夜は淡々と言う。そんな抑揚のない言い方をされても説得力はない。
「休みは休みで憂鬱になる要素があるってこと」
「ふうん」
それってなんだろうな。
「あ、そうだ、思い出した。円先輩がさ、八月に女バスの大会があるからふたりで応援にこいってさ。どう、一夜、行けそう?」
「都合つけるわ。行かんとうるさそうやし」
「あはは、そりゃそうだ」
これに関しては苦笑いするしかない。円先輩もわりと強引な人だから。でも、ああいうぐいぐい引っ張っていくタイプはクラブの主将としては頼もしいのかもしれない。
と、そのとき、スラックスのポケットの中で携帯電話がブンブン唸って着信を告げた。すぐに止まったのでメールだろう。
「あ、司先輩だ」
さっそく開いてみる。
『少し遅くなるかもしれないけど昇降口で待っていること』
軽く命令形だ。
僕の知ってる上級生はコレ系ばっかりか。しかも司先輩の場合、円先輩と違って無闇に人を振り回しているだけって感じだ。なんつーか、ジャイアントスイング?
「悪い、一夜。今日、先輩と帰るよ」
「かまわん。どうせそんなことやろうと思たし」
そう言うと一夜は鞄を持って立ち上がった。帰る準備はとうにできていたのに、僕がメールを読み終わるのを待っていたようだ。
「またテキトーに連絡するわ」
「うん、そうして」
お疲れサン、と一夜はひと足先に帰っていった。
さて、僕も行かないと。
「うあ゛……」
僕の机にはまだ筆記用具やルーズリーフが出しっぱなしになっていた。一夜と喋ってばかりで片づけ忘れてたな。
慌てて昇降口に出てきたが、まだそこに司先輩に姿はなかった。そういえば少し遅れるっぽいことも書いてあった気がする。
その代わり違う人物を見つけてしまった。
「……」
髪型こそツーテールストレートに変わっているが、あれは正しく宇佐美奈津。
彼女は、今日は自転車できたのか校門から少し入ったところに自転車を置いて立ってい
た。赤のプリーツスカートに白のブラウス、赤いチェックの編み上げビスチェは卯月学園の制服なのだろう。てことは学校帰りか。
一週間前のドタバタを思い出す。これは身を隠した方が得策か。
が――、
「お兄様!」
くんな、ばか。大声で叫ぶな、うさぎ。あと、お兄様って誰だ!?
結局、一瞬遅れで見つかってしまった。くそぅ、今日はこんなんばっかりか。僕を見つけた宇佐美さんがこちらに向かって走ってくる。ていうか、突っ込んでくる。
「お兄様!」
「ていっ」
宇佐美さんの
進行方向を変えられた彼女は危うく植え込みに突っ込みかけたが、ふん、と踏ん張ると再びこちらに向き直った。
僕も身構える。
「……」
「……」
互いに無言で間合いを取る。
と――、
「あっ、あそこに片瀬先輩が」
「え!?」
宇佐美さんが指さす先を見る。が、司先輩はいない。
「隙ありっ」
うわあ、なんて古典的な手だ。そして、なぜ引っかかるか、僕よ。
慌てて振り返ると、しかし、そこには襟を掴まれて猫のように摘み上げられている宇佐美さんの姿があった。辛うじて爪先が地面についているが、それでは身動きが取れないようだ。
「あうぅ~」
吊されて情けない声を上げる宇佐美さん。
「このお嬢さんが襲いかかっているように見えたから捕まえたんだが、余計なお節介だったか?」
香椎先輩だった。
「いえ、助かりました」
「そうか。……それで、もう下ろしていいだろうか?」
「えっと、暴れなければ野に放ってもいいんですが……」
「だそうだ、お嬢さん。他校の敷地で人を襲うのは感心しないな」
香椎先輩は年上らしく静かに諭す。
「あい。宇佐美、もう暴れません」
そう宣言しながら肩まで上げた両手は、まるで降参のサインのようだった。
そうして一拍あけてから宇佐美さんは解放されたが、さすがにもう暴れるようなことはなかった。
「じゃあ、俺はこれで」
「あ、はい。どうもありがとうございました」
そして、本日のゲスト退場。
「あ、そうそう――」
そうでもなかった。
「片瀬から伝言。あと十分くらいで行くから拾い食いせずに待っているように、だとさ」
「あ、そうですか」
先輩、僕のことなんだと思ってるんだろうな。犬猫程度にしか思ってないんじゃなかろうか。一度聞いてみたくなってきた。
そんなことを思っているうちに香椎先輩は帰ってしまっていた。
さて、と。
「で、宇佐美さん、今日は何しに来たの?」
「そんな『宇佐美さん』なんて他人行儀な。宇佐美のことは気軽に『なっちゃん』と呼んで下さい。宇佐美も先輩のことは親しみを込めて『なっち先輩』と呼びますので」
「わかった。落ちつけ。僕も張り倒したい衝動を抑えて落ち着くから」
「もう、先輩、冗談ばっかり」
「……」
「えーとぉ……」
「……」
「本気ですか?」
「
「……」
「……」
「宇佐美が何をしにきたかというとですね、千秋先輩――」
よしよし、人間時には引くことも大事だ。
「もちろん千秋先輩に会いにきたのです。先週会った翌日から下校時間を狙って毎日待ってたのに、ぜんぜん会えなくて寂しかったです~」
「そりゃテスト休みだったからね……」
ご苦労なこった。下校どころか登校してもいない。
「それはいいんだけど、会いにきたって、僕に何か用でも?」
「や、用と言うほどでもないんですけどね。来年はこの学園に入って千秋先輩の後輩となるわけですし、今のうちに交流を深めておこうかと。そうすれば入学後すぐに『お兄様』、『奈津』と呼び合う関係に……」
「なるかっ」
それはいったいどこのスール制度ですか?
と、そこに――、
「あら、いったい何を騒いでいるの?」
現れたのは司先輩だった。
今日は以前と打って変わって静かな登場。ただし、心なしか顔が能面のようだ。そして、先輩は宇佐美さんを一瞥してから僕に聞いてきた。
「何これ、拾ったの? 拾い食いはダメって伝えてもらったはずだけど?」
「いや、拾ってないし喰ってもないです」
つーか、『喰う』ってのもきわどい表現だよな。
先輩はもう一度宇佐美さんを見る。特に睨むというわけでもなく、ただじっと見ていた。
対する宇佐美さんもその視線を正面から受け止めて見つめ返す。が、やがてその彼女が口の端を吊り上げ、笑みを見せた。
「……」
何だろうか。僕にはその笑みが不敵なものに感じられ、少しだけ彼女が別人のように見えた。
宇佐美さんが僕に向き直る。
「それじゃあ千秋先輩、今日はこれで帰ります。また今度遊んで下さいね」
「はいはい。君が暴れなければね」
「はーい」
とかわいらしい返事をして宇佐美さんは自転車に向かって走っていった。が、ちょっとして「ぎゃっ!」という小さな悲鳴が聞こえてきた。
「先輩、先ぱーい!」
こちらに左手を振って、右手は自転車を指している。どうやら応援を求めているようだ。
何かと思って行ってみると、自転車の籠に猫が入っていた。籠いっぱいに毛皮が詰まっていて、その上に首が乗っているものだから、けっこう不気味でびっくりする。
「またこんなところでとぐろを巻いて……。これ、うちの学園に住み着いてる半ノラ。自転車の籠に入るのが趣味らしいんだ」
おしえてやりながら猫を取り出す。
重っ。
また太りやがったな。この猫、昼休みになると中庭で弁当を食べている生徒のところにやってきては食べ物をもらって各グループを渡り歩く。二重取り、三重取りどころの騒ぎではなく、今では立派なでぶ猫だ。大好きな籠に入れなくなっても知らないぞ。
地面に下ろしてやると、鳴いているのか欠伸しているのかよくわからない間延びした声を上げて去っていった。
「あー、びっくりした……」
「だろうね」
僕は苦笑する。
あの趣味のおかげで自転車置き場では被害が続出。女の子の中には触れない子もいるようで、僕も何度か取り出してあげたことがある。
「それじゃあ」
そして、宇佐美さんは気を取り直して自転車で帰っていった。
駅までの道をカツカツと歩調も荒く司先輩が歩く。
それを僕が後ろから追いかける。
「先輩、待って下さいよ~」
が、ぜんぜん追いつかない。たぶん待つ気はさらさらないのだろう。しかも、返事もないところをみると、どうやら怒っているっぽい。
何がいけなかったのだろう?
やっぱり宇佐美さんだろうか。だけど、僕、普通に喋ってただけだぞ? むう、わからん。
しばらくすると先輩が歩く速度を落とした。だけど、どうも横に並べるような雰囲気ではなかったので、僕は黙って後ろをついていった。
やがて――、
「那智くんは……」
「はい?」
「那智くんはいったいわたしの何ですかっ」
先輩が立ち止まり、振り返りながら聞いてくる。腰に当てた両手は怒っていることを示しているのだろう。双眸で睨んでくるが、相変わらず拗ねているようにしか見えない。
ここで『後輩』なんて答えたら
「彼氏――」
「違います。未来のダンナ様ですっ」
「……」
先輩、あなたはどこまでも僕の上を行くのですね。
改めてそれを口にされると顔の表面温度が上がってしまう。
「わかってますかっ」
びしっと指を鼻先に突きつけられた。
「は、はい、もちろんです」
そう答える僕を、先輩はじっと見つめてくる。まるで言葉の真偽を目で確かめるように。その迫力に圧されて僕の口からは「あはは~」とかすれ気味の笑いが漏れた。
そして、先輩は言った。
「じゃあ、夏休み中のデートは週に一回!」
「はい?」
何ですか、そのノルマは? つーか、そういうのってノルマを決めるものなのかっ。
「わかった?」
「は、はい……」
「ん、よろしい」
先輩は満足げに頷いた。
ま、いっか。とりあえず先輩の機嫌が直ったみたいだし。
(僕、きっと夏休み中に死ぬな……)
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