挿話 たったひとりの目撃者
僕には好きな人がいるから――
そう言われて五十嵐優子は振られた。
優子が好きになったのは千秋那智という下級生だった。本当に中学から上がってきたばかりといった感じのかわいらしい容姿で、快活な性格と無邪気な笑顔が印象的な少年である。事実、優子の周りでもよく話題になるし、三年の間ではさらに人気が高いという話だ。
優子は振られる前からこの結末は予想していたように思う。それでも想いを告げたのは、気持ちにけじめをつけたかったからにほかならない。
だから、今はもう未練はない。
ただ心を占めるのは、彼が誰を好きなのかという一点だった。
放課後――、
優子は机の上に両肘をつき、手の上に顎を乗せたままぼうっとしていた。
「ゆーこりんっ♪ なに放心してるの?」
「ふぇ1?」
愛称を呼ばれようやく我に返る。
「あ、あれ? ホームルームは? わ、わわ?」
どうやら気分はまだホームルーム中だったらしい。だが、それが終わったことにも気づいていなかったのだから、その内容もどこまで頭に入っているか疑わしいものである。
きょろきょろと教室を見回す。
ホームルームはとっくに終わっている。声をかけてきたのはいち早く帰り支度を整えた友人の郭良子(かく・りょうこ)と牧場翠(まきば・みどり)だった。
「ぼーっとして。好きな人でもできた?」
「うん……」
「お?」
正直すぎるほど正直に答えた優子の言葉に翠が反応する。
「でも、もう振られたから……」
「なにーーーっ!」
「きゃっ」
今度は郭良子だった。
「うちのコロポックルちゃんを振るとはどんなやつだい。ここにつれてこーいっ」
喚きながら握り拳を頭上で回転させて、良子が怒りを露わにする。子どもっぽい感情の表現だが、バレーボール部に所属する長身の良子がやるとたいそう迫力がある。
ちなみにコロポックルとは、アイヌの伝説に出てくる知恵と幸福の小人である。
「落ち着け、カク」
「これが落ち着いてられるかーっ」
すぐに翠が取り押さえに入ったので、優子は再び思考に没入した。
僕には好きな人がいるから、と彼は言った。
彼が好きになる相手とはいったいどんな人なのだろう。そして、その相手もまた彼のことが好きなのだろうか。
それが気になって仕方なかった。
彼には女の子の友達がたくさんいる。一緒にいるというだけで条件とするなら、かなり範囲が広がるだろう。もし年下なら学内にいない可能性だって出てくる。
「うるさいっ」
「きゅう……」
いったいどこの誰だろう?
どうせなら振られたときにでも聞き出しておけば、こんなにも悩むことはなかったのに、と思う。
無論、今となってはそれもできない。
ふと気づくと暴れていた良子が机を抱えるように突っ伏して伸びていた。
「翠ちゃん、やりすぎだよぉ……」
「いや、カク張り倒したの、あんただから」
「え……」
ある日、優子はそびえ立つ図書室の書架を見上げ、困っていた。
先生に取ってくるよう頼まれた本が収められた書架はほかのものより高く、しかも、その最上段が件の本の定位置だった。
明らかに届かない。
最初、背伸びして指先に触れた本を何とか取り出したのだが、それは目的の場所より一段下の本だった。
「……」
もう一度見上げる。
やはり階段状の踏み台を持ってくるしかないのだろう。遅まきながら優子はその結論に至った。
ならば後は行動あるのみと向きを変える。
と――、
「あ……」
こんな思わぬところで鉢合わせしたのは千秋那智だった。
彼は頭に百科事典を三冊乗せて、それを手で支えていた。そんなことをして首が凹んだりしないのだろうかと優子は思ったが、那智を見る限り重たそうな様子はなかった。
「こ、こんにちは、五十嵐先輩」
「……こんにちは」
何せ振った振られたの関係なのだ。挨拶が歯切れの悪いものになってしまうのは仕方のないことだろう。
「千秋くんは、ほ、本の返却……?」
「そうなんですよ。尾崎先生に頼まれたんですけどね、ほら、見てくださいよ。よりによってこんな重量級を三冊も」
そこで那智はお辞儀をするようにして頭の本を示した。そう言えばどこかの国の民族に、こんなふうに頭の上にものをのせて運ぶ女性たちがいたような気がする。
「大変そう……」
「大変ですよ。ホント、尾崎先生って人使いが荒いよなぁ」
ぼやきながらも那智は本を戻していく。
書架にぽっかりと空いた、本来、本が収められていた空間にひとつひとつ本を片づけていく。幸い本は全て那智の手の届く場所にあったらしく、優子のように困ることはなかった。
「こういうのって決まった順番にはめ込んでいくと、本棚が左右に開いて長年封印されていた扉みたいなのが出てきそうじゃないですか?」
本が綺麗に収まったのを見て、那智が楽しそうに語る。
「そうですね。それでその向こうに誰か待ってたりするんですよね?」
「そうそう。『待っていたよ、ジョーンズ博士』……って、いや、そんなところに人が待ってたらおかしいと思いますけど」
「あ……、そ、そうですね……」
優子は那智のもっともな指摘に顔を赤くしてうつむいた。
何となく気まずい空気がふたりの間を流れる。
「ところで、先輩は何してるんですか?」
「えっと、あのね、わたしは千秋くんと逆で、本を取りにきた……んだけど……」
そう言って書架を見上げる。那智もつられて視線を上げた。
「もしかして、いちばん上ですか?」
「うん……」
ふたりして見上げたところで書架は低くならないし、自分の背は伸びない。
「やっぱり台を持ってくるしかないですね」
「うーん……」
優子の言葉に、那智は何やら考えながら生返事をした。
那智が胸の高さにある段に触れる。続いて向かいの書架にも反対の手で触れた。書架の間隔が狭いので同時に触れることができる。つまり、両手を広げた幅よりも狭いということだ。
「よし」
那智が意を決するようにつぶやいた。
書架の下から二番目の段に足をかけ、続けて反対の足を向かいの三段目にかける。さらに最初の足をもう一段上に上げて、ついに那智は目的の本に手の届くところまで登ってしまった。
「先輩、どれですか?」
「え? あ、えっと、右から四番目……じゃなくて、五番目。うん。そう、それ」
「ほいっと……」
那智は優子が指した本を抜き出し、飛び降りた。両足を揃えて優子の前に軽やかに着地する。
「はい、先輩。どうぞ」
「……」
差し出された本を呆然と見つめる。
あれよあれよという間に本を手にして下りてきたので、呆気にとられてしまったのだ。
と、そのとき――、
「そこのふたり。何をしている」
馴染みのない先生が中通路からこちらを覗いていた。
口調が威圧的なのは、きっと人気のないところにいる生徒はこそこそと悪いことをしていると決めつけているからなのだろう。そうではないことを主張しなければと思うが、優子の舌は上手く回らない。
「すみません、先生。この本を返しにきたんですが、僕たちじゃ届かなくて」
代わりに那智が持っていた本を見せて咄嗟の嘘を吐いた。
優子はその横でただただ頷いているだけだった。
「だったら台を使えばいいだろう。カウンタの横に置いてあるから取ってきなさい」
「あ、はい。そうします」
どうやらこの先生は生徒を疑いの目で見ると同時に、従順な姿を見るだけで安心してしまう性格のようだった。きっとこのかわいい顔をした素直な生徒が書架をよじ登って本を取ったなんて微塵も思わないのだろう。
「……」
「……」
「……」
「……」
先生が去ってからもしばらくの間、優子は那智とふたりで動かずにいた。が、やがてどちらからともなくクスクスと笑い出す。
あっさり騙された先生が何だかとても可笑しい。
でも、それ以上に優子は那智と小さな秘密を共有したことが楽しかった。
最近、優子の周りでよく持ち上がる話題に、『千秋那智の本命は、片瀬司、四方堂円、遠矢一夜の三人のうち誰か?』というものがある。
ほぼ同じ疑問を抱えている優子にとって、それは興味深い話題だった。
確かにこのところこの四人が学生食堂で一緒にいる場面をよく見かけるようになった。千秋那智の本命を絞り込むなら、ここに名の挙がった三人のうちのひとりである可能性が高いだろう。
しかし――、
(遠矢君は男の子だから違うよね)
少数派に属する恋愛形態にまったく考えが及ばない優子は、可能性のひとつを早くも切り捨てた。
季節は初夏に入り、気温の上昇とともに学生食堂の自動販売機を利用する生徒も増えてきた。その日の昼休みも優子がきたときには運悪く人口密度が高い瞬間で、四人ほどが並んでいた。優子は何も考えず最後尾につき、列をひとり分延ばした。
やがて三歩ほど列が進んだとき――、
「あ、ゆこりん先輩だ。こんにちはっ」
元気な声に振り返ると、そこにいたのは千秋那智だった。
那智には先日、友人に愛称で呼ばれているところを見られ、以来、愛称に敬称を付けるという奇妙な呼び方をされている。
那智も自動販売機に用があったらしく、優子の後ろに並んだ。
「こ、こんにちは、千秋くん」
優子も挨拶を返す。
列を作るためいつもより近くなった距離に、優子の顔の表面温度が上がってしまう。
「今日も暑いですね。喉乾いて仕方ないです」
「うん。わたしなんかすぐ脱水症状起こすから、水分ちゃんと摂っとかないとだし」
「あ、そうなんですか。うん、水分補給は大事です」
神妙な顔つきで那智が頷く。
「そう言う僕は三限目が体育で、終わってから何か買いにこようと思ったのに、時間がなくてできなかったんですけどね。もうバテバテで四限目は机に伏せて死んでました。授業の内容なんてさっぱりです」
那智の言ったことをそのまま頭に思い浮かべると思わず吹き出してしまった。
「あ、先輩、前、前」
可笑しくてくすくす笑っていると、那智が前を指さしていった。
見ると優子の前に並んでいた生徒が皆いなくなっていた。幸い後ろは那智しか並んでいなくて、文句を言われずにすんだ。
「……」
自販機を見つめて考える。
「どうしたんですか?」
「えっと、なに飲もうかと思って」
「いや、そういうのは並んでる間に考えておきましょうよ」
「ご、ごめんなさい……」
それからしばらくの間、ふたりで他愛もない話をしていた。
場所は自販機からいちばん近いテーブルの席に移っていたが、長話をするつもりはなく、椅子には座らず立ち話だった。
やがて那智が先に飲み終えた丁度そのとき――、
「あら、千秋くん、本当にここにいたのね」
それはあまり聞き慣れない声だったが、声の主を見ればすぐに正体がわかった。
片瀬司――
この学園で彼女以上に有名な生徒はいないだろう。『聖嶺一の美少女』と呼ばれるほどの容姿で、男子生徒の憧れの的となり、女子生徒からは羨望の眼差しと多少の妬みを集めている。これで性格も良く、社交的とくれば、誰が言い出したか知らないが『学園のアイドル』などというセンスの欠片もないような呼び名にも頷けてしまう。
そして、優子の個人的感情を観測要素に加えた場合、特に重要なのが千秋那智の本命と見られている点である。
「片瀬先輩、僕がここにいるってよくわかりましたね」
「ええ、円に聞いたの。でも、どうしてかしら。わたしより円のほうが詳しいなんて」
そこで司は一度呆れたようにため息を吐いた。
「それに……」
と、横目で優子のほうを見る。
対して優子は、後ろに何かあるのかと思って振り返ってみた。が、特に目を引くようなものは何もなく、頭に『?』を浮かべただけだった。
そんな優子を見て司はくるりと那智へと向き直った。
「ふふん~♪ 千秋くん、この子、面白い子ねぇ」
「先輩、牙みたいなのが見えてますけど……」
「八・重・歯、です」
ぴしゃりと言い放つ。
それから司は再び、今度は体ごと優子に向いた。顔には上級生らしい余裕のある笑みを浮かべている。
「ごめんなさい。楽しくお喋りしているところ悪いのだけど、少し千秋くんをお借りしていいかしら?」
「あ、はい、どうぞ。わたしも楽しかったので、つい長話しちゃって……」
次の瞬間、司の顔が凍りついた。
そして、素早く那智に向きを変えると――、
「……ふん」
その足を踏みつけた。
「じゃあ、遠慮なく『返して』もらっていくわね?」
そう言いながら振り返ったときには、もうもとの笑顔に戻っていた。
司は、つま先を押さえて蹲っている那智の二の腕を掴んで立たせると、そのまま引きずるにして歩き出した。
その様子を見て、何となく『連行』という言葉を連想した優子だった。
(何だか仲悪そう。片瀬さんじゃないのかな……)
数日後――、
登校の途中、優子は四方堂円と一緒に歩く千秋那智の姿を見つけた。
那智の髪に寝癖でもついていたのか、円がブラシで髪をといてやりながら歩いている。その姿は仲の良い姉弟にも見えて微笑ましい。
優子はふと思い至る。
千秋那智の人気は二年よりも三年の方が遙かに高い。それは二年から見てひとつ年下の、かわいいだけの男の子は頼りなげで物足りない感があるが、三年から見るとまた違った見方ができるからなのだろう。
例えば弟や小動物のような、そういった愛玩と保護欲の対象である。
(やっぱり千秋くんも、どうせ年上なら四方堂さんみたいにスタイルがいいほうが好きなのかな……?)
優子は起伏に乏しい自分の体を嘆いた。
階段を下りる。
踊り場でターンをして、見下ろした先の廊下に千秋那智を見つけた。彼はまだこちらに気がついていない。声をかけようかと迷っていると、新たな人影が現れた。
片瀬司だった。
彼女はこっそりと音もなく後ろから那智に近づくと、最後にはぴょんと跳ねて――、
「那~智くんっ♪」
「わあっ」
抱きついた。
那智が悲鳴を上げ、慌てて司の腕からすり抜け逃れる。
それをきっかけに優子は思わず階段の陰に隠れた。しゃがみ込んで、手摺りよりも身を低くして耳を澄ます。
「びっくりしたぁ。司先輩か、おどかさないで下さいよ。誰か見てたらどうするんですか」
「あら、そんなドジはしないわ。まあ、見られたときは見られたときよね……って、そんなに怖い顔しないで。冗談なんだから」
その声は優子が知る司の声とは違っていた。以前に話したときのような年上らしい落ち着いたものではなく、悪戯っ子のような声。
「ね、それよりも、那智くんのクラス、今日も授業は七限目までよね?」
「そうですけど、でも、今日は掃除当番だからもう少し帰りは遅くなるかな?」
「なら丁度いいわ。終わったら美術室に寄ってくれる? 一緒に帰りましょ」
「うぃ。わかりました。じゃあ、放課後に」
ふたり分の足音が遠ざかっていく。
驚きのためか、思わず漏れそうになった声を抑えるため、優子は口に手を当てたまま、その場で固まっていた。
(那智くん!? 司先輩!? ……わたし、もしかして見たらいけないもの見たかも……)
それを目撃したのは単なる偶然だった。
家庭科の授業が終わり、施錠のために寄った窓から下を見ると見知った顔があった。右から千秋那智を含めたグループと、左から片瀬司率いるグループが近づいてくる。
ふたつのグループは出会うと立ち話をはじめた。
男子生徒にとって『学園のアイドル』と話せることが嬉しいらしく、少し興奮した様子で言葉を交わしている。でも、那智と司に特別な関係を窺わせる様子はない。いいところ仲のよい先輩と後輩といった雰囲気か。
やがて上級生たちは手を振り、下級生たちは礼儀正しく頭を下げて別れを告げた。互いに別の方向ヘ去っていく。
と、そのとき――、
司が背を向けた那智の手を引っ張った。
よろめく那智。
そして――、
司は那智を引き寄せると、その頬にキスをした。
「―――っ!」
那智の声にならない悲鳴がここまで伝わってくる。
司は舌を出すと驚く那智に向かって、子どものように「あっかんべー」をした。それからすぐに先に行った友達を追いかけ、駆けていく。
その場には鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、頬を押さえて立ちすくむ那智だけが残された。
「おーい、なっち。何やってんだー? 先行くぞー」
「あ、うん。今行くー。あと、なっち言うなー」
那智もまた走って友達を追う。
まるで盗むような司のキス。そのことに周りは誰ひとりとして気がついていない。
見ていたのはきっと優子だけ。
だから、例の噂の真相を知るのもまた優子だけ。
突然、優子は片瀬司という上級生がかわいく見えた。いつ誰に見られてもおかしくない状況で、悪戯のようなキスをする司がとてもかわいらしく思う。
そんな楽しげでかわいらしいふたりを見ていると、こっちまで楽しくなってきて、優子は唄うように口ずさんだ。
「言いふらしちゃおっかなぁ~♪」
勿論、そんなつもりはない。
このことは心に秘めて、彼と、彼の大好きな人を、もう少し見ていようと思う。
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