3.

 5月の下旬に転機を迎えて先輩とのおつき合いというものがはじまり、先日は先輩への呼び方も『片瀬先輩』から『司先輩』に変わって、交際がかなり本格化した。


 とは言え、僕としてはそれをあまり公にはしたくなかった。もちろん、人に言えないことだと思っているわけではなく、むしろ浮かれて言いまくりたいのだけど、そうしたときのデメリットとメリットの差が大きすぎるのだ。


 何せ相手は『聖嶺一の美少女』と称される人。

 先輩とお近づきになったというだけでも羨ましがられたり、憎まれたり、足を引っ掛けられそうになっているのに、つき合っているなんて言ったら冗談抜きで刺されたり、ローキックを喰らったりするかもしれない。


 できればこのことは黙っておきたい。


 にも拘らず、だ。

 僕の心配とは裏腹に、司先輩はけっこうギリギリなことをやってくれるのだ。









 例えばそれは、僕がひとりで廊下を歩いているときのこと。


「那~智くんっ♪」

「わあっ」


 いきなり背後から抱きつかれ、僕は悲鳴とともに慌ててその腕からすり抜ける。


 弾かれたように振り返ってみれば、そこに司先輩が立っていた。


「びっくりしたぁ、司先輩か。おどかさないで下さいよ。誰か見てたらどうするんですか」

「あら、そんなドジはしないわ。まぁ、見られたときは見られたときよね……って、そんなに怖い顔しないで。冗談なんだから」


 すみません。先輩がぜんぜん洒落になっていないことを言うものだから、思わず睨んでしまいました。


 いや、ほんと、こんなの見つかったら誤魔化しがきかないよな。


 で、この後は極々普通の会話。時間を合わせて一緒に帰りましょうとか、そういう話。

 つまり、最初のあれは司先輩にとって単なる挨拶というわけだ。迷惑な話だ。人が見てる云々以前に、僕の個人的な感想として心臓に悪い。


 まぁ、先輩ならそれもわかった上でやってそうだけど。









 もっと強烈なものもある。


 そのとき僕は、一夜を含む数人のクラスメイトと一緒に中庭を歩いていた。


 と、そこに正面から三年女子の一団。それは司先輩を中心とした四人ほどのグループだった。


「うお、片瀬さんだ、片瀬さんっ」


 こちらに向かって歩いてくる『学園のアイドル』に、クラスメイトのトモダチが興奮気味の声を上げる。

「千秋、声かけろ、声」

「何で僕がっ」

「お前、片瀬さんと仲いいだろ」

「うん。だから、今じゃなくて別の機会でもいいわけだ、僕が先輩と話すのは」

「ぶっ。あ、おまっ、いつからそんないやなやつになったんだよっ」


 ま、時々ね。


 そうこうしているうちに次第に距離が縮まっていく。お互いの表情が見えるくらいまで近づいたところで、司先輩が僕を見て微笑んだ。


「こ、こんにちは、片瀬さん」


 挨拶を切り出したのは僕ではなくて、先ほどのクラスメイトだ。僕は当てにできないと踏んで、意を決したようだ。……噛みおったが。


「ええ、こんにちは」


 対する司先輩は上級生らしい余裕のある笑みで応えた。


 そのまま立ち話がはじまる。

 こちらはみんな男なので、目当ては司先輩だ。でも、思いがけず巡ってきたお近づきの機会に浮かれているせいか、たいして内容のない話ばかりだ。


 反対に先輩のグループは女の人ばかりなので、やっぱり一夜と話したいようだ。なんでも三年女子の間では一番人気らしいからな。当然、注目は一夜に集まる――と思いきや、時々僕のほうまで流れ弾が飛んできた。それもこれも一夜が無愛想でぶっきらぼうな返事ばかりするからだ。僕としては司先輩との関係を悟られないためにも、一歩引いておきたいのに。


 もとよりただすれ違っただけのふたつのグループ。会話はテキトーなところで切り上げられた。


「それじゃあ失礼します」

「またね」

「片瀬さん、さよなら」

「さようなら」


 名残惜しそうに口々に挨拶をする我ら一年男子に、司先輩はひとつひとつ丁寧に返していく。こういう優しくて社交的なところが先輩を人気ものたらしめているのだろう。


 そうしてふたつのグループは互いに背を向けて、それぞれが向かおうとしていた方向へ足を向ける。


 と、そのとき――、


 足を踏み出そうとした僕の腕を誰かが掴み、引っ張った。


「ッ!?」


 不意のことで体がよろける。


 そして、唐突に僕の頬にやわらかい感触。


 驚いて顔を上げると、そこに悪だくみに成功した子どものような、いたずらっぽい笑みを浮かべた司先輩がいた。


 遅まきながら頬にキスをされたのだと、僕は理解した。幸い皆もう歩き出していて僕らに背を向けていたので、誰も今の出来事に気づいていない。


 そして、先輩は――、


「べー」


 楽しそうに「あっかんべー」をし、友達の後を追って小走りに去っていった。


 その場にひとり呆然とする僕。


「おーい、なっち。何やってんだー? 先行くぞー」

「あ、うん。今行くー。あと、なっち言うなー」


 クラスメイトの声でようやく我に返り、僕もクラスメイトを追いかけた。









「どうしてそう先輩はあえて危ない橋を渡ろうとするんですかね」


 電車を降り、その電車が次の駅へと去って、周囲が静かになってから、僕は口を開いた。足は改札口へと向かっている。


 僕の愚痴を受けて、隣を歩いていた司先輩が聞き返してきた。


「今日のあれのこと?」

「それだけじゃないですけどね」


 いちいち挙げていたらきりがないから言わないけど。


「だって、那智くん、わたしと会ったっていうのに素っ気ないんだもの」

「仕方ないでしょう。つき合ってるのがバレたら大変なことになるのは目に見えてるんだし」

「でも、前はもう少し話したり、目を見たりしていたと思うわ」

「……」


 まぁ、確かにこのところ警戒のあまり慎重になりすぎていたかもしれない。


 思い当たる節があったせいで、僕は黙り込んでしまった。意識と乖離したまま足は交互に前へ出る。改札口が近づいてきた。


「わたし、那智くんとのこと周りにバレてもいいと思ってるの。だって、悪いことしてるわけじゃないんだから。みんなに知ってもらって、認めてもらいたいじゃない?」

「……」


 その気持ちはたぶん、わかる。


 この際、僕が人に自慢できる男かどうかは置いておこう。司先輩としては自分のやっていることが人に認められるものでありたいと思うのだろう。僕だって同じだ。知られると大変だから黙っているけど、人に言いたくなるときだってある。


 定期券を取り出し、自動改札を通った。


 と――、


「なーんてね。冗談よ」

「はい?」


 タイミングを見計らったように発せられた先輩の言葉に、僕の目が点になる。


「わたしだって周りから恨まれたくないもの」

「……」


 いったい先輩が誰に恨まれるというのだ? 男子生徒の憧れの的である司先輩とつき合っている僕なら兎も角。


 でも――と僕は思う。


 周りに知られてもいい――。


 果たしてそれは嘘か本当かブラック・オア・ホワイト


 前にも気楽な調子で「見られたら見られたとき」なんて言っていた。今吐露したことは少なからずの真実を含んでいたのではないだろうか。


 とは言え、本心は司先輩の心の中だけ。僕にはわからない。


 さて、外へ出て僕はあたりを見回す。

 ここは僕がいつも使っている駅ではなく、司先輩の家にほど近い駅だ。学校帰り、先輩が家に寄っていけというので、こうしてここで一緒に降りたわけだ。


 駅周辺は立体的なつくりになっている。駅前には複雑に交差したロータリィや車道があるのだけど、近くの公共施設や住宅地へ道路を横断しなくても行けるように、歩道橋がいくつも作られているのだ。歩道橋には階段だけでなく、緩やかで長いスロープもつけられているので、立体的構造はよりいっそう複雑化している。小さいときに絵本で見た未来都市のようで、僕はこの駅が好きだ。


「那智くん、こっちよ」


 少し先で司先輩が僕を呼ぶ。おっと、ぼけっと周りを見ている場合じゃないな。僕は慌てて先輩の横に並んだ。


 タクシー乗り場を越え、道路に沿って少し歩いたところで歩道橋に差しかかる。と、そこで司先輩が足を止めた。


「那智くん、じゃんけん」

「は?」


 何のために? ジャンケンで負けたほうが電車に飛び込むとか、そういう遊びだろうか? いや、冗談だけど。


「じゃんけん――」


 しかし、先輩は首を傾げる僕にはおかまいなしで、やる気満々だ。


「ぽんっ」


 司先輩、ぱー。

 僕、ぐー。


「パ、イ、ナ、ッ、プ――」


 先輩はリズミカルに階段を上がっていく。あぁ、そういうことか。時々子どもっぽいことをするとは思っていたけど、これまたえらく童心に返ったな。


「ル♪」


 到着と同時にこちらに振り返る。


「じゃんけん――」


 そして再び。


「ぽんっ」


 先輩、ちー。

 僕、ぱー。


「うあ゛……」

「チ、ョ、コ――」


 2連敗でさらに遠くなっていく司先輩の後姿。黒のニーハイソックスに包まれた足が地を蹴るたびに超ミニのスカートが揺れて――


「って、先輩、先輩ッ」

「レ、イ、ト。……ん? なに、那智くん」


 先輩はきちんと最後まで上り切ってから、ようやく振り返った。


「み、見え……っ」

「っ!?」


 僕が何を言おうとしたかすぐにわかったらしく、司先輩は慌ててスカートの裾を押さえた。


「み、見た……?」

「い、いえ、見えてません……」


 そういう場合は「見えた?」と問うて欲しい。不可抗力なのだから。


 司先輩は、ととと、と階段を下りてきた。そして、僕の正面に立ち、真剣な表情で僕を見つめる。


「見たわよね、白の」

「え? 黒じゃ……?」


 ニーソとおそろいの。


「……」

「ぁ……」


 そして、僕は墓穴を掘ったことに気づく。


 次の瞬間、司先輩は、かあっ、と顔を赤くして、うつむいてしまった。カマかけてまで確認しておいて、その反応はどうなのだろう。


「え、えっとね……」


 なぜか口ごもる司先輩。


 そして、何か思いついたように、おもむろに顔を上げた。


「そ、そう! 今日は最初から那智くんを家に呼ぶつもりだったのっ。だからちょっと大人っぽいのにしてみたの」

「……」


 マズい。僕、いろんな意味で追い詰められているような気がしてきた。ついでに先輩もテンパってる気がする。


「や、やぁねぇ、那智くん。引かないでよ、冗談なんだから」


 あ、あははー、と微妙に乾いた笑いの司先輩。


 ええ、まぁ、さすがにそれは冗談ブラックだと思うけど、先輩のことだからもしかしたらちょっとくらいの本気ホワイトもあるんじゃないかと思ったり。できればもっと冗談らしく笑ってくれたら、僕も安心できるのだけど。


「す、すみません。僕、ちょっと用事を思い出したんで……」

「え? ちょ、ちょっと那智くん!?」


 しかし、僕は先輩が呼び止めるのも聞かず、踵を返した。

 どちらにせよ、冗談とは言えそんなことを言われた後で理性を保てる自信はないです。


 背後で司先輩が何か言っていたようだけど、僕はもう聞こえない振りをした。

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