第二章 佳人登場

1.

 その日、僕は高校に入って初めての遅刻をした。


 基本的に登校ラッシュに巻き込まれるのが嫌で、普段から早めに学校に着くようにしているから、そこから多少遅れたとしても、間に合わなくなるほどにはならない。が、今日に限っては遅れに遅れて、ついに遅刻してしまった。


 それもこれも昨日、やけに頭のCPUが好調で、遅くまで勉強していたせいだろう。朝起きたら見たこともないような時間だった。やっぱり慣れないことはするものではないと思った。


 駅に着いたら間に合うかどうかという微妙な時間だった。いっそこの時点で遅刻が確定していたら僕も走ったりしなかったのだけど、淡い期待を込めて全力疾走。


 結果、ギリギリ間に合わなかった。

 中三の秋でバスケをやめてから、ずいぶんと運動能力が落ちた気がするな。





 さて、今、僕は遅刻仲間とともに校門を入ったところで縦一列に並んでいる。ここでひとりずつ風紀委員に学年とクラス、名前を告げてから教室に入ることになる。


 前から順に手続きをして、ひとり終わるごとに列が進んでいく。


 そして、ようやく僕の番になった。


(わ……)


 待ち構えていた風紀委員は、はっとするような美人さんの先輩だった。背中まで伸びるナチュラルストレートの黒髪は日本人形を思わせるが、釣り目気味の目からややキツい印象を受ける。


 僕は圧倒されながら口を開いた。


「一年七組、千秋那智です」

「千秋?」


 その美人の先輩からはなぜか聞き返すような言葉が返ってきた。


「そう。貴方が」


 続けてそう言ったが、けれど、僕を一瞥しただけでそれ以上は何も言わず、手元のボードに僕の名前などを書き込んでいく。


 結局どういう意図があったかは謎。

 おまけに表情も変わらないものだから余計に不安を掻き立てる。


「はい。行っていいわ」

「……」

「どうしたの。早く行きなさい」

「あ、はいっ」


 はっと我に返り、差し出された入室許可証を受け取ると、僕は教室に向かった。


 何だったんだろうな、本当に。





 教室に辿り着き、ドアを開けようと思ったら、先にひとりでにスライドした。


 もちろん、自動ドアなどではなくて、ただ単に尾崎先生が出てきただけだ。朝のホームルームは終わったらしい。


「すみません。遅刻しました」

「見ればわかる」


 冷たく言い放つ尾崎先生。……ああ、さいで。


「入室許可証は?」


 促されて僕は手に持っていたそれを先生に渡す。先生はそれを見て「ふん」と見下したように鼻を鳴らした。


「連絡事項は誰かに聞いておくように」


 それだけ言うと先生は職員室方面へ去っていった。


 先生、いつものことですが、すこぶる態度が悪いです。思わず握り拳を固めてみたり。って、今度やったら確実に退学だろうけど。


 まぁ、そんなことは気にしていてもキリがないので、とっとと忘れて教室に入る。


 教室の中は少しざわついていた。ホームルームが終わって一時間目の先生がくるまではいつもこんな感じだ。


「おはよう、一夜。連絡事項、何かあった?」

「ある。ただし、有益なものはない」


 この教室にあってまったく騒がず、黙々と本を読んでいる男、一夜は簡潔に教えてくれた。


 ふむ。クリティカルなものはなしか。


「なら、もういいや」

「おっはよー、千秋。なに、遅刻? バッカじゃないの?」


 今度は騒々しいの極地みたいな女、宮里(通称サトちゃん)が寄ってきやがった。


「いきなりケンカ腰とは天晴れだな」

「しっかも、髪の毛立ってるしー。どうせならそのままウルフカットにしたら。そしたらウルフ那智って呼んであげるわ」

「ごめん。謝るから、それだけは勘弁してくれ」


 いったいどこの青銅聖闘士だよ。


「まぁ、遅刻したのは確かだけどさ。……あ、そうだ。風紀委員にすっごい美人の先輩がいたぞ。ちょっとキツい感じだったけど」

「ああ、それだったら特進クラス三年の飛鳥井明日香あすかい・あすか先輩ね」

「飛鳥井明日香……」


 僕は口の中でその音を転がしてみる。

 どこかのミステリ作家みたいな名前の構造だな。


「宮里の貧弱なデータベースからすんなり名前が出てくるってことは、やっぱり有名なわけ?」

「ちょっとぉ、貧弱ってどーゆー意味よ! ……まぁ、いいけど。そりゃあ有名よ。あの容姿だもの。片瀬先輩がいるから影が薄いけど、一部の男子に強烈に支持されてるみたい」

「一部の?」

「そう。マゾい男子」

「うわあ」


 それは確かに強烈だな。


「飛鳥井先輩って見た目もキツい感じなら、性格もキツいらしいの。遅刻も限度を越して常習犯になったらかなり厳しい注意が飛んできて――」

「あー、もういいや。皆まで言うな。だいたい先は読めたから」


 そんな変わった趣味の人間から人気があっても、飛鳥井先輩としては困るだろうに。


 そう言えば、トモダチも時々遅刻したくせにニッコニコしながら教室に入ってくるときがあるな。……なるほど。そういうことだったのか。僕もそうならないように気をつけないと。人の道は外れたくないものだ。


 と、そこで始業のチャイムが鳴った。先生がくるまであと二、三分ってところか。

 宮里(通称サトちゃん)も自分の席に撤収した。


 さて、と――。


「ところで、一夜。さっきからページをめくる手が止まってない?」

「……そうか?」

「うん。確かにそう」


 僕が認識している範囲では、飛鳥井先輩の名前が出てきたところで動きが止まった。


「……気のせいやろ」


 しかし、一夜はそう言って僕の疑問を切って捨てた。


 読書を再開する。


「……」


 どうも一夜の平均値から大きく外れた行動だな。珍しい現象が観測されたものだ。


 飛鳥井先輩が気になるとか? まさかね。





 昼休み――、

 一夜と一緒に学食に足を運んだ。


 僕は当然のように弁当を作っている時間がなかったため、そして、一夜は僕の連れ添い。持ってきた弁当はそのまま食べずに持って帰るそうだ。前にも言ったけど、聖嶺ではどうやら学食で弁当は食べないというのが不文律として存在するようだ。


 学食に入るなり僕は片瀬先輩の姿を見つけた。隣は円先輩。ふたり並んでランチを食べている。

 先輩もすぐにこちらを見つけ、微笑みながら小さく手を振ってくれた。そんなちょっとしたやり取りが嬉しい。


 とりあえず僕らは先にカウンタへ行ってランチを購入。それから先輩たちのところへ向かった。


「こんにちは、先輩。ここ、いいですか?」

「ええ、どうぞ」


 いちおう確認してから椅子に座る。


 片瀬先輩の前に僕、円先輩の前に一夜というフォーメーションだ。


「那智くん、今日はお弁当じゃないのね」


 尤もな質問。


「お恥ずかしい話、今日は遅刻しまして。弁当を作る暇がなかったんです」

「あらら」

「ふうん。じゃあ、遠矢っちはなっちのつき合いってところ? 大変ね」

「……別に」


 素っ気なく返して、一夜は早速ランチに手をつけた。


 と、そこに――、


「あ……」


 只今個人的瞬間注目度ナンバー・ワンの飛鳥井明日香先輩が現れた。ランチのトレイを持って、少し離れたテーブルに落ち着いた。ひとりのようだ。


「……む」

「ぅぐあっ」


 いきなり脛を蹴られた。

 僕の脛を蹴り飛ばした足は、おそらく前方から飛んできたに違いない。


「那智くん、飛鳥井さんを知ってるの?」

「せ、先輩。理不尽な暴力テロルに及んだ後、そんなものなかったかのように話を進めるのはどうかと……」


 相変わらずの暴力主義者テロリストっぷり。


「いえね、今朝、校門に立っていた風紀委員が飛鳥井先輩だったんです。僕は今日、初めて知りましたけど、やっぱり三年の間でも有名なんですか?」

「もちろん」


 答えたのは円先輩だ。


「見ての通りの和風美人で成績も優秀。寡黙で自分を厳しく律して品行方正。しかも、家はこの辺りに古くからある旧家でお金持ち。と、まぁ、絵に描いたようなお嬢様だよ」

「へえ」


 そう言われると何やら近づき難いものを感じるな。


 実は一年にもやっぱりお嬢様がいる。頭にネコミミがついていたり、性格がはちゃめちゃだったりして、もの凄く似非っぽいけど、あれはあれで正真正銘のお嬢様だったりするのだ。


「くしゅん!」


 今、学食のどこかでくしゃみが聞こえたな。

 ……まぁ、それはおいておこう。


 さすが聖嶺、成金エリート校。そんなのが学年にひとりふたり必ずいるんだな。


 何となくみんなでしげしげと飛鳥井先輩を眺める。


 いや、ひとりだけ、他人にまったく感心がないのがいる。一夜だけはそちらを見ず、面白くなさそうに一定のペースでランチを食べていた。


「そういえば、どことなく遠矢っちに似てるよね?」


 不意に円先輩が言った。


「そうですか?」

「うん。いや、外見じゃなくて雰囲気が、だけど。優等生なところとか、もの静かで他人を寄せつけないところとか」

「……」


 確かに飛鳥井先輩なら孤高という言葉が似合いそうだ。


 が。


「お言葉ですが、円先輩。こいつは一見、優等生に見えて確かに成績はいいですが、実際のところ優等生っぽいだけで、自分を厳しく律するどころかやりたい放題しまくりですよ」

「お前……」


 さすがに聞き捨てならなかったのか、一夜が小さくつぶやいた。


「でも、そんなことを言ってると、そのうち外見まで本当に似てるような気がするから不思議だな。怜悧な感じに顔が整っているところとか」

「……」


 一夜、特に反応なし。

 自分のことを話題にされて無視を決め込んだか。


 もう一度、飛鳥井先輩に目をやった。


 先輩は行儀と作法の手本みたいな上品さでランチを口に運んでいる。


 と、ついに向こうもこちらに気がついた。けっこうこっちからじろじろと見て、好き勝手に話していたからな。視線を感じたのかもしれない。


 その飛鳥井先輩が、幽かに笑った。

 儚い感じの笑みだった。


 そして――、


「なに、あの子。人の未来の旦那様に勝手に笑いかけないでほしいわ」

「ぶっ」


 なぜかぷちキレ状態の片瀬先輩。


 だいたいなんで無条件に僕に笑いかけたと思い込んでるんだ、先輩は。


「円先輩止めて! 止めてそれ! なんか人前で言っちゃいけないこと口走ってるからっ」


 僕と片瀬先輩がつき合いはじめたことは黙っていないといけないわけでもないけど、わざわざ触れて回りたくもない。


 円先輩が「どうどう」と片瀬先輩をなだめる。馬か。


 そんなちょっとしたカオスの中、一夜が立ち上がった。


「……喰い終わった。先に教室戻るわ」

「あ、そう?」


 一夜はトレイを持って食器返却口へと歩いていった。


 どこがどうとは言えないけれど、何となく今日の一夜は変な感じだな。





 翌日――、

 朝、また家を出るのが遅くなった。


 とは言っても、今回は遅刻するほどではない。充分に余裕がある。ただし、登校ラッシュの真っ只中。


「うっはあ……」


 僕は駅に入ってきた電車を見て、うんざりした気分になった。

 制服を着た学生ばかりだ。聖嶺の制服だけではない。この路線には聖嶺以外にもいくつか高校があって、だいたい登校時間が重なるようだ。


 まあ、この程度で根を上げていたら毎日通勤ラッシュに揉まれている企業戦士の方々に申し訳ない。五駅ほどなので我慢しよう。


 開いたドアから電車に乗り込む。フィジカルな当たりに弱いので、ドア付近に立ち位置を確保。


 ドアが閉まり、走り出した。

 次の駅でまた人を飲み込み、さらに窮屈感が増す。

 また次の駅が見えてくる。


 因みに、ここは一夜が利用している駅だ。けれど、登校時に一夜と一緒になった試しはない。あいつは僕以上に早く学校に行っているのだ。


 そして、電車が減速しながら駅へと入り、大きな狂いもなく定められた乗車位置で止まった。


 と――、


「うあ゛……」


 ドアの向こうに飛鳥井明日香先輩が立っていた。

 先輩もこの駅だったのか。


 ドアが開く。


「……」

「……」


 視線が交差して、しばし互いの顔に見入る。


 車内は混雑していて、僕は奥に逃げられない。


「えっと……じゃあ、僕、降ります」


 自分で言っていて意味不明。


「待ちなさい」

「ひっ!?」


 飛鳥井先輩に腕を掴まれた。


「降りてどうするの。乗りなさい」


 先輩は一旦降りた僕をもう一度車両に放り込み、自らも乗り込んだ。


 ドアが閉まる。


「……」

「……」


 近いです、先輩。


 当たり前か。混んでいるのだから。

 せめて会話でもあればこの距離も少しは緊張の原因にならずにすむのだけど。先輩は口を開く様子もなく、外に目を向けている。僕も特にこれといった話題もない。


 やがて次の駅に着いた。


 ぷっしゅー、とドアの開く音が向こうの方から聞こえる。


「……」


 ちくしょう。開くのは向こう側だったか。空間的な余裕ができれば、もうちょっとマシな体勢になれると思ったのだけど。


 この駅でも電車は少量の乗客を飲み込んだ。


「……」

「……」


 すごい緊張感。


 ただでさえ女の人とこんなにも接近しているというのに、相手が寡黙な佳人となればその緊張感も倍増するというもの。


 さすがに耐え切れなくなって、僕は口を開いた。


「あ、飛鳥井先輩、今日は風紀委員の仕事はないんですか?」


 僕の声に反応して、先輩がこちらを向いた。釣り目気味の目が怖い。何も悪いことをしていないのに謝ってしまいそうだ。


「ないわ。と言うより、今日は私が当番でないだけ」

「あ、なるほど」


 そりゃそうだ。毎日人より早く登校するなんて大変だものな。普通は交代制だろう。


「……」


 で、話はそれっきり。先輩の返事は極めて簡潔。会話は続きもしなければ、広がりもしなかった。


 こうなったら後ふた駅、我慢するしかない。


 外を流れていく景色の速さに反して、時間はひどく緩慢に流れる。

 そうして体感的にいつもの倍の時間をかけて電車は到着した。僕と飛鳥井先輩は同じ制服を着た生徒と一緒にドアから吐き出される。


「きょ、今日、僕、日直で早く行かなくちゃいけないのを忘れてました。先輩、それじゃ失礼します」


 僕はずっと考えていた嘘の口実を口走り、駆け足で飛鳥井先輩から離れた。


 あー、緊張した。窒息するかと思った。

 あの迫力は精神衛生上よろしくないな。

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