3.
授業中――、
わたしは教科書の裏に隠した携帯電話を見つめていた。
見ていて飽きない。
別にかわいいデザインのケータイを買ったというわけではなくて、わたしがこれを眺めている理由は、外見ではなく中身にある。
この中にはつい先日おしえてもらったばかりの、那智くんの携帯番号とメールアドレスが入っている。
それだけ。
それだけだけど、それだけでわたしはこれが素敵なものに思えた。
これを使えば那智くんの声がすぐに聞ける。会う約束ができる。もしかしたらすぐにでも会えるかもしれない。なんと素敵なことだろう。
「どうしたのどうしたの? ニヤニヤしちゃってるよ、ニヤニヤ」
先生の話は右の耳から左の耳でケータイを眺めていると、前の席の子が振り返って小声で話しかけてきた。端から見ていてわかるほど、そんなにニヤニヤしていたのだろうか。
「べ、別に何でもないわ」
そう言いながらわたしはさり気なくケータイを隠した――が、目ざとい彼女にはしっかりと見つかってしまった。
「あ、もしかしてケータイもしかしてケータイ? 実は好きな男の子の写真を待ち受けにしてたりしてなかったり?」
「そんなことしてません。ていうか、みんなしてるの?」
わたしは聞き返す。
「してる子はしてるよー? 人気があるのは陸上部の妹尾君とか――」
あまり印象のよくない名前が出てきた。まぁ、ある意味では彼がきっかけで那智くんとつき合いはじめたのだけど。
「あと、バスケ部のエース佐竹君とか? 一年ならやっぱり遠矢君と千秋君が二大巨頭よね。……あたしはもちろん、ふたりのツーショットだけど」
「……」
あいかわらずディープな世界に足を突っ込んでいる子だ。あと、いつ撮った?
それは兎も角。
そうか。世の女の子はそんなことをしているのか。わたしなら当然、那智くんの写真を待ち受けにするけど……さて、あの子が素直に撮らせてくれるだろうか。
「こら、そこ。授業中だぞ」
先生の注意が飛んできた。当たり前か。
前の席の彼女は首をすくめ舌を出してから、黒板へと向き直った。
「あ、あの、先生……」
「なんだ、片瀬」
「少し気分が悪いので保健室で休んできてもいいですか?」
「そうか。仕方がないな。ひとりで大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
わたしはそう答えてから席を立った。
教室の中を横切ってドアから出るまでの間、小声で「大丈夫?」と声をかけてくれる子もいれば、手を振って見送ってくれる子もいた。わたしの体調不良を信じているのは半分くらいのよう。
教室を出る。
廊下は静かだった。今が授業中ということもあるけど、それ以上にここが辺鄙な場所だというのが大きい。美術科は授業で度々美術室へ移動するから、その近くに隔離というか、地方へ左遷状態なのだ。
少し歩いてからわたしは階段に座り込んだ。もちろん、気分が悪くなったわけではない。
スカートのポケットからケータイを取り出し、アドレス帳から那智くんのメモリィを呼び出す。那智くんのメールアドレスはオーソドックスに彼の名前を使ったもの。どうせならわたしの名前とかloveとかそんな単語を散りばめたようなものにすればいいのに――と思ったけど、那智くんがそんな軟派だとちょっと嫌かもしれない。那智くんはシャイで、そんな彼をリードするのがわたしの理想だ。
「リードっていうと、変な想像をしてしまうわね」
自分で言って自分で想像しておきながら、顔が熱くなってしまった。
そうしながら指は那智くんへのメールを打っていた。
『今から屋上にきて』
送信。
さて、返事は返ってくるだろうか。五分待って返事がなかったら、保健室に行くことにしよう。
……。
……。
……。
きた。
マナーモードにしてあったケータイが振動し、授業中なのに電源を切っていなかった悪い子からの着信を伝える。
『今からですか?』
すぐにわたしも返す。
『そう、今から♪ 待ってるわ♪』
『いちおう努力してみますけど、ダメでも怒らないでくださいよ?』
わたしはそのメールを読むと、ケータイを畳んでポケットに戻した。
聖嶺で屋上といえば、今わたしがいる校舎ではなくて、普通科のクラスが使っている校舎の屋上のことを指す。この学校の先生方は生徒を信用しているのか、ただ単にのん気なだけか、事故や自殺といったことは考えていないらしい。昼休みや放課後などには屋上が開放されている。
さて、今はまだ午前中。果たして開いているのだろうか――と心配したけど、何てことはない。行ってノブを回してみたら、あっさりとドアは開いた。
屋上に出てみる。そこにサボりの先客が……ということもなく、誰もいなかった。
「那智くんもまだのようね」
景色を見てみたかったけど。グラウンドからは生徒や先生の声、ホイッスルの音が聞こえる。体育をやっているクラスがあるらしい。あまり端の方に行くと見つかってしまうかもしれない。
そう思っていると、後ろでドアノブが音を鳴らした。振り返ると鉄扉がそろりと開くところだった。わたしは思わず扉の陰に隠れる。
「あれ? 先輩、まだきてないのか」
鉄扉が閉まると那智くんの後姿が現れた。
「なんだよ、呼び出しておいて。まさか冗談だった――」
「わっ」
「わあっ!」
タイミングを見計らっておどかしてみたら、那智くんは期待通りにかくも盛大に驚いてくれた。
「せ、先ぱ~い……」
情けない声を出す那智くん。かわいい。
「こんにちは、那智くん」
「こんにちは……って、そうじゃなくてっ。いったいどうしたんです? こんな時間にいきなり呼びつけて」
「そうね。携帯電話が素敵で便利な道具だってことを確認したかったからかしら」
「まさか僕を呼び出すこと自体が目的だったんじゃ……」
「そうとも言えるわね」
わたしがそう言うと、那智くんはがっくりと項垂れ、ため息を吐いた。
「あら、なに、その反応。那智くんはわたしに会いたいと思わなかったわけ?」
「や、そうは言ってませんけどね。ただやっぱり授業中は……」
那智くんは言いにくそうにしながら、言葉が尻すぼみに消えていった。
確かにわたしも今日は少し無茶が過ぎたかなと思うところもある。
「わかったわ。もうやらない」
「わかってくれたんならいいですけどね。ま、やってしまったことを今から言っても仕方ないです。ここまできたらせっかくのサボりを楽しむべきかな」
那智くんは男の子らしく好奇心に目を輝かせて、フェンスの方に寄っていこうとする。
「那智くん、あんまり端の方に寄ったら下から見られて、見つかるわよ」
「げ。それもそうですね」
ぴたりと足を止める。
「むぅ。そうなると意外にやれることは少ないですね」
屋上なんてもともと何もない平面なので、景色を見るという行動を制限されると、ほとんどすることがなくなってしまう。
結局、わたしたちは階段室を囲む壁にもたれて腰を下ろした。
六月の空は澄み渡り、雲ひとつない。
「いい天気ですね」
「そうね」
もう初夏なので、間もなく梅雨がきて、後は暑くなる一方だろう。日向ぼっこができるのも、そろそろ限界かもしれない。
「のん気に光合成してますけど、なんか悪いことしてる気がしますね」
やっていることは基本的に授業のサボりなので、そう感じてしまうのも当然かもしれない。
「悪いことついでに、イケナイこともしとく?」
「……」
「……」
「……」
那智くんはなぜか無言でお尻をずらして、わたしとの距離を少しあけた。
「……なぜ逃げるのかしら?」
「い、いえ、なんか怖いことを言われた気がして……」
「もぅ」
いちおう半分くらいは冗談なのだけど。ここまで怯えられると、少し傷つく。
「大丈夫よ、那智くん。わたしがちゃんとリードするわ」
「ますます怖くなってますからっ」
……改めて怖がられてしまった。
わたしたちは再び空を見上げた。
「サボタージュを抜きにすれば、こういうのも悪くはないですね」
「ええ」
初夏の風が、そっと静かに穏やかな時間を運んでくる。
わたしは隣の那智くんを盗み見た。
彼は、わたしが早々に見飽きてしまった空を、まだ眺めていた。何も変わったところのない、何も変わらない空なのに、それでも目を離さないでいる。
わたしはさらに視線を下げた。
コンクリートの床。そこに那智くんの手があった。掌を下に向けて床につけられた手は、彼の体を支えている。
「……」
少しの間、わたしはその手を見つめ、
三度、空に目をやった。
那智くんと同じ姿勢で、那智くんと同じことをする。同じものを見る。
そうやってできるだけひとつになろうと試みる。
「……」
軽い緊張。
そして――、
気づかれないように、
気づかれないはずはないけれど、それでも気づかれないようにと願う心境で、
そっと那智くんの手に、わたしの手を重ねた。
那智くんの体がわずかに跳ねた。
だけど、それだけ。
今度は逃げられなかった。
「……」
「……」
那智くんと肩を並べ、手を重ねながら、空を見る。
その空は、さっきと同じ、何も変わったところのない、何も変わらない空なのに、見飽きることはなかった。ずっとこのまま空を見ていられたら――とさえ思う。
わかった気がした。
那智くんはぴったりと寄り添うと恥ずかしがって逃げてしまう。だけど、ちょっとだけ間をあけて手を握るのなら、それを振り解こうとはしない。
だったら手を握っていよう。
那智くんが逃げないように、ずっと手を――
……。
……。
……。
「那智くん!」
わたしは那智くんに襲いかかった。
「うわあっ」
「那智くん、わたし、ホントはそんな大人しい女の子じゃないのっ」
「いきなり意味がわかりませんよっ。あと、何となくそれはわかってましたっ」
なんか聞き捨てならないことを聞いたような気がするけど、今は無視。ポケットからケータイを取り出して、素早く操作する。那智くんに後ろから組みつき、顔を寄せた。
そうしてからケータイを自らに向け――
ピロリロリーン
「はい、できたっと」
ひとまず目的を果たしたわたしは、那智くんから離れた。
「なんなんですか、もう……」
「那智くんと写真撮影」
さっそく今の写真を見てみる。
ひとつのフレームに収まった、わたしと那智くんの顔。頬を寄せ合う仲睦まじい恋人同士の写真を狙っていたのだけど、残念ながら那智くんの顔が引きつっている。怯えているようにも見えるかもしれない。
「笑顔が足りないわね」
「襲ってくる熊と記念撮影して笑えと言ってるようなものですね、それは」
失礼な。
「でも、とりあえずはこれでいいわ」
「何がですか?」
「これをね、ケータイの待ち受けにするの」
「マジでぃすかー?」
那智くんは目を丸くして問い返してきた。
だから、わたしははっきりと答える。
「ええ、本当よ」
これくらい女の子ならみんなやっているらしい。とは言っても、どれくらいの割合なのかは知らないけれど。円の待ち受けなんか雄大な雪山の風景だし。
「いや、でも、それは……」
那智くんは何か言いたげに口ごもっていたけれど、この際、わたしのささやかな幸せのために我慢してもらうことにする。
――が。
後日、彼が何を言いたかったのかがわかった。この写真は使えないのだ。こんなものをうっかり人に見られたりしたら、絶対に言い逃れができない。ただの先輩後輩ではないとバレてしまう。
仕方なくわたしはその写真を下げた。
わたしと未来のダンナ様の高校生活は、なかなか前途多難だ。
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