2.
「ケータイ?」
そう聞き返したのは小学校からの親友、四方堂円だった。
今日は女子バスケットボール部の早朝練習がないのか、一緒に登校している。
そこでわたしは、ここ数日頭を悩ませていることについて知恵を貸してもらおうと思い聞いてみた。「那智くんが携帯電話を持ったみたいなんだけど、番号とかどうやって聞いたらいいと思う?」と――。
「どうもこうも普通にサクッと聞けばいいんじゃないの?」
返ってきた答えはいかにも円らしい単純明快なのものだった。
「だいたいなんでそこで尻込みするわけ? 未来のダンナでしょ?」
「うん、そうなんだけど、改めて聞くとなると、ね。恥ずかしいって言うか、きっかけが掴めないって言うか」
「わっかんないのよねえ、そこが。『未来のダンナ』なんて表現が普通に受け入れられるのに、なんで世の彼氏彼女が当たり前にやってることができないわけ?」
「それは……」
と、口ごもる。
そこには人に言えない理由があるのをわたしは理解していた。
「知らないよ? なっちってば人気あるんだから、気がつけばケータイのメモリィに女の子の番号がどっちゃり、なんてことになってても」
「……む」
それは、困る……
二限目の休み時間――。
とりあえず教室移動の際に那智くんのクラスの前を通ってみた。
結局、円の言う通り普通に聞けばいいだけの話なのだろうし、実際に那智くんと会えばきっかけが掴めるかもしれないと思ったのだ。
まずは那智くんと会わないと。お互いを見つけられたら問題ないのだけど――と思っていると、廊下の先の方で那智くんの姿を見つけた。こちらに向かって走ってくる。
わたしはドキッとした。もしかしてわたしがそう思っているように、那智くんもわたしに会いたいと思っていたのだろうか。だとしたらなんて素敵なことだろう。
が、すぐに何か様子がおかしいことに気づいた。那智くんが全力疾走に近い勢いで走ってくる。
そして――、
「あ、先輩、おはようございまーす!」
わたしの横を止まることなく走り抜けていった。
一瞬遅れて髪とスカートが風に揺れた。振り返ると近づいてきたときと同じ勢いで那智くんの姿がどんどん小さくなっていっていた。
続けて、
「待ちなさい、千秋那智。今日こそはっ、今日こそは勝負よっ」
これまた突っ込みどころの塊みたいな女子生徒が駆け抜けていった。一瞬だけ目に映った横顔はどこかで見たことあるような気がしたけれど、それがどこだったかは思い出せなかった。
「待ちなさいっ」
「断固拒否っ」
次第に遠ざかっていくふたつの影。
「……」
わたしの記憶が確かなら、わたしは那智くんの彼女で、那智くんはわたしの彼氏のはず。なら、今のはその関係に亀裂を生じさせるのに十分な出来事だったのではないだろうか……?
(まぁ、わたしはそれくらいでうるさく言わないけれど)
やんちゃな年下の男の子とつき合っているのだ。その程度の心の広さは持ち合わせているつもりだ。
「とりあえず今の子は敵と認識、と」
昼休み――、
たまたま那智くんが食堂に飲み物を買いにきたのでそれを捕まえた。教室へ戻る道順が途中まで同じなので、そこまで肩を並べて歩く。
「朝の? ……ああ、あれね。あれには複雑な事情がありまして、あまりにも複雑すぎて僕も理解できてないんですね、これが」
そう言って那智くんは腕を組みながら、うんうん、と二度頷いた。
それが休み時間の一件についての回答だった。きっと那智くんは那智くんで学園生活を謳歌しているのだろう。あまり深く追求しないことにした。
「えっとね、那智くん?」
「ん?」
呼び掛けると那智くんはパックジュースのストローをくわえたまま返事した。その横顔を見てわたしは改めて思う。
那智くんは綺麗だ。
単純に容姿について言うなら、いつも一緒にいる遠矢君の方がきれいな顔をしている。彼のそれはほぼ完璧に近い。だけど、那智くんは目が誰よりも綺麗だ。瞳が心を映す鏡というのなら、それはきっと正しいのだろう。なぜならわたしは那智くんの心が誰よりも綺麗なことをよく知っているのだから。
「どうしたんですか?」
ふいに那智くんがこちらを向き、目と目が合ってしまった。わたしは慌てて顔を逸らして、視線を前に向けた。
「な、何でもないわ」
「れ? 何か話があったんじゃなかったんですか?」
「あ、ああ、そうね。そうだったわ」
那智くんの顔に見とれていて、すっかり飛んでしまっていた。
「えっとね……」
先程とほとんど同じ台詞。どうやら振り出しに戻ってしまったらしい。いや、実際には一歩も前に出てなかったような。
「あ、ゆこりん先輩、こんにちはっ」
わたしが次の言葉を探していると、那智くんは前から歩いてきた二年生の女の子に挨拶をした。
「こ、こんにちは、千秋くん」
相手の女の子も恥ずかしげな、消え入りそうな声で挨拶を返す。そのまま互いに立ち止まることもなくすれ違った。
気になって振り返ってみると、友達に肘でつつかれてからかわれている様子だった。
「あの子って確か……」
数歩遅れた分を早足で取り戻し、横に並んでから聞く。
「うん。五十嵐優子先輩」
「那智くんが振った?」
「いや、そう言い方をされると聞こえが悪いんですけど……」
「でも事実でしょ? ……それなのに仲いいんだ」
「う~ん。振ったからって後は口も聞かないってのもどうかと思うんですよね。いきなりあれだったから断るしかなかったけど、例えばあれが『友達になりましょう』だったら僕もOKしたんじゃないかなって」
それはいかにも那智くんらしい考えだと思った。
「それに仲がいいって言ってもすれ違ったときの挨拶とか、少し話をするくらいですよ」
「『ゆこりん先輩』っていうのは?」
「愛称が『ゆこりん』だそうです」
「ふうん。そうなんだ……」
と、返事を返して、わたしは思わず考え込んでしまった。
那智くんの周りの女の子を思い出す。円、後宮さん、五十嵐さん、そして、わたし。この中でただひとり、わたしだけが他人行儀に『片瀬先輩』と呼ばれている事実に軽いショックを受ける。
「……」
わたしの記憶が確かなら、わたしは那智くんの彼女で、那智くんはわたしの彼氏のはず。なら、この事実は意外に由々しき事態なのではないだろうか。
「……先輩?」
「……」
「先輩ってばっ」
「え? な、なに?」
那智くんの呼ぶ声でわたしははっと我に返った。
「いや、もうここ分かれ道なんですけど?」
気がつけば校舎の入り口まできていた。ここから那智くんは階段を上って二階へ、わたしは別校舎へと渡ることになる。
「あら、本当ね……」
「じゃあ、先輩、失礼します」
そう言うと那智くんは軽やかに階段を駆けていった。
放課後――
わたしは美術室にいた。
真っ白なキャンパスにエンピツを走らせる。が、それはまったく気の抜けたものだった。
(わたしは那智くんの彼女で……)
結局、今日一日言いたいことは何も言えなかった。
まったく円の言う通りだった。今のわたしは世間の恋人同士が当たり前にやってることができない。
理由はわかっている。
わたしは那智くんを深く知ったことで、改めて那智くんのことを好きになったのだ。
好きな人の顔に見とれる。
好きな人が何を考えているか気になる。
好きな人の前で自分が自分でなくなる。
そんな恋の基本症状みたいなものに、今さらながら見舞われているのだ。
「これではダメ……」
ひとりつぶやく。
今下書きをしている絵をわたしは近々開かれるコンクールに出展するつもりでいた。もう全体像は頭の中に描けている。わたしはこの絵でどうしても入賞したかった。
(今日はもうやめよう……)
だからこそ心ここにあらずの今の状態で描くことはできない。そう思ったとき美術室の扉が開いた。
「あら、片瀬さん。まだ残っていたの? もう閉めるわよ?」
担任の先生だった。
気がつくともう時間は午後六時になろうとしていて、残っているのはわたしひとりだった。部活動や個別に許可をもらっていない限り、一般の生徒はこの時間には下校しなければならない。
「あ、はい、すみません。すぐに片づけます」
どちらにせよわたしはもう手を止める必要があったようだ。
「あ、先輩っ」
すっかり人気のなくなった校門で見つけたは那智くんだった。
「あら、那智くんも今帰り?」
「て言うか、先輩を待ってました」
「え……?」
思いがけない言葉。
それから那智くんは言いにくそうに言葉を続けた。
「先輩、今日は何だか様子がおかしかったから、何かあったのかなって……」
「そ、そんなにおかしかった。わたし……?」
わたしは思わず頬に掌を当てた。
「普段からかなりおかしいですけど、今日は特に」
「……怒っていいかしら?」
「ごめんなさい。もうしません」
「もう……」
ため息が出た。
はたして何に対してのため息だろう。くだらない冗談を言った那智くんにか。それとも那智くんに心配をかけていた自分にか。
「それで今まで待っていたの?」
「はい。靴箱見たら先輩がまだ残ってることはわかったんで、ここで待ってれば会えるだろうと。まさかこんな時間になるとは思いませんでしたけど。……あ、いや、僕が勝手に待ってただけなんで気にしないでください」
そのときのわたしがどんな顔をしていたのかはわからないけど、那智くんに心配をかけ、こんな時間まで待たせた申し訳なさと、那智くんが心配してくれて、こんな時間まで待ってくれていた嬉しさがわたしの中にあった。
(うん、那智くんはわたしの彼氏)
それは確かだったようだ。
「じゃ、じゃあさ……」
そして、わたしはようやくきっかけを見つけた。
「携帯の番号とメールアドレス交換しておこうか? そうしたらお互いすぐに連絡できるもの」
「うわ……」
途端、那智くんが意味不明の声を上げた。
「え? なに? もしかして嫌だった?」
「じゃなくて、先に言われちゃったなと思って。僕もそう考えてたんですけど、なかなか言い出せなくて……。そうか、先輩みたいに普通に言えば良かったんですね」
「……」
本当のことは言えないと思った。
那智くんがわたしのことを改めて好きになってくれたとは思わない。だけど、まったく同じことで頭を悩ませていたことは嬉しかった。
「ねえ、那智くん。抱きしめてキスしていい?」
「何でっ!? まだ学校ですよ!?」
「じゃあ、学校から出ればいいのね?」
「いや、そうじゃなくて。……てか、先輩、その様子じゃもう大丈夫そうですね」
そう言えば那智くんがこんな時間までわたしを待ってくれていた理由がそれだったことをようやく思い出した。
だからわたしは答える。
「ええ、そうね。もう大丈夫よ」
だけど、きっとまた何度も那智くんを好きになって、そのたびにわたしはおかしくなるのだろう。
でも、それも今なら素敵なことだと思えた。
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