3.

「例えばさ――」


 そう言って僕は話を切り出した。相手は後ろの席でいつものように文庫本を読んでいる遠矢一夜だ。


「一夜が朝、家を出た後で本を持ってくるのを忘れてるのに気づいたらどうするんだ?」

「……どうもせん。なくても困らんしな」


 意外と普通の答えだった。ちょっと拍子抜け。


「何がっかりしとんねん。俺が活字見んと死ぬ思うとったんか?」

「いや、そんなことは思ってないけどね。それに近いことは起こるんじゃないかなって」

「……アホか」





 片瀬先輩に関する情報――


片瀬司かたせつかさ


・十七歳/三年十二組 美術科


・容姿端麗(聖嶺一の美少女ともっぱらの噂)


・性格は明るく社交的。そのため大袈裟な人間は『学園のアイドル』と称したりする(素敵なセンスだ)


・特定の男子とつき合っている様子なし。過去、何度かそういった噂が流れたが事実だった試しはない。


・言い寄ってくる男子生徒は後を絶たないが、ことごとく断っている模様(巷ではこれを『玉砕イベント』と呼称している)


・また、定期的に他校から何か勘違いしたイケメン色男が「墜としてやるぜ」と自信満々でやってくるが、すべて返り討ちにあっている(この場合は片瀬先輩視点に立って『撃墜イベント』と呼ばれるらしい)


・ついに先日の犠牲者をもって近辺の学校を全て網羅したため『撃墜王(エース)』の称号が与えられたとのこと(誰だよ、与えたのは)





 昼休みまでに一年の数人に聞いただけでもこれだけ集まったのだから、どれだけ先輩が注目されているかがよくわかる。


「三年にも聞いてみ? もうちょい詳しい武勇伝が聞けるわ」


 一夜はまたいつも通り本から顔も上げずに答えた。素っ気ない口調の関西弁。だからと言って話すのが億劫なわけではなく、声をかければちゃんと返事が返ってくる。そして、今はいつも以上にウルトラCだ。本を読みながら僕と話し、さらには弁当を食べているのだから。


「いや、そこまではいいや。……唐揚げちょうだい」

「甘えんな」


 一夜の弁当箱に美味しそうな唐揚げを見つけたので箸を伸ばしたら、同じく箸で防がれてしまった。何で本を見ながらそんなことができるのだろう?


「何や、那智、先輩のこと気になってんかいな?」

「男として当然だと思わないか?」

「なるほど。一般論で返してきたか」


 はぐらかしたつもりが一夜には通用しなかったようだ。ただ、これ以上追求してこないあたり、とてもありがたい。


 正直、片瀬先輩のことは気になっている。前は遠くから見ていただけで満足していたけど、先日、直で話してからは今まで以上に憧れを強くした自分がいる。まぁ、結局は憧れの域を出ないのだけど。


「あ、いたいた。千秋発見」


 突然自分の名前を呼ばれ、僕の思考と食事は中断された。声が聞こえたほうを見ると、机の間を抜けてひとりの女の子がこちらに向かってきていた。


 宮里晶みやさとあきら


 中途半端な長さのショートカットの髪が快活な印象を与える女の子。実際、僕から見たら呆れるほどアクティブでポジティブでアグレッシブなやつだ。


「どうした、サトちゃん……うおぅっ」


 額にチョップが飛んできた。


「あたし、そんな薬屋のゾウみたいな渾名を持った覚えはないわ。……やり直し」

「了解した。……どうした、宮里。僕に何か用?」

「そう、そうなのよ!」

「……」


 僕もたいがい白々しいが、こいつもいい根性していると思う。


「隣のクラスからスリー・オン・スリーの挑戦状、叩きつけられたのよ」

「ほー、そりゃあ大変だね。いつ? 今から? 後で応援にいくよ」

「なに言ってんの? 千秋もくるの」


 何をぬかしますかね、この人は。


「いやだよ。また体育科なんて言うんだろ?」


 以前、同じようなことがあって助っ人にいったら、相手が体育科の連中でえらい目に遭った覚えがある。筋トレが趣味で、時間があったら体を動かしているような連中に勝てるわけがなく、当然、そのゲームは見事に惨敗した。


「大丈夫。今日は普通科だから」

「人数揃わなかったって断ったら?」

「冗談じゃないわ。そんなことできますかっての」


 だろうね。負けず嫌いの宮里が敵前逃亡なんて選ぶはずがない。


「なら潔く自決だな」

「なんでよっ!? 意味わかんないわよっ」


 残念。そんな帝国軍人みたいな精神は持ち合わせていなかったようだ。


「だいたいね、挑戦してきたのはねこなのよ」

「ねこ? それって前に言ってた宮里のライバルとかいう子のこと?」


 宮里には学校は違うが練習試合や公式戦のたびにしのぎを削ったライバルがいたらしい。いつだったかそんな話を聞いたような気がする。


 すると、宮里は急に白けたようにテンションを下げ、掌をひらひら振りながら言う。


「あんなものライバルなんていいものでもないんだけどね。ただ単に向こうが一方的に敵視してるだけだし」

「でも、挑戦を受けずにはいられないんだな」

「あったりまえでしょっ。敵は叩き潰すものよ」

「……」


 レベル的には宮里もどっこいどっこいじゃないだろうか。


「しかも、ねこのやつ、もうひとりバスケ経験者つれてきてるのよ。ここは我がクラスのタブセと呼ばれた千秋の……ぅきゃあっ」


 デコピンかましてやった。


「僕もそんな恐れ多いアダ名を持った覚えはない」

「シャレの通じんやっちゃ。……兎に角、助っ人お願い」

「まぁ、いいけどね」


 何か断り切れそうにないし。


「アバラ痛めているからあんまむりはしないので、そこんとこよろしく。……で、もうひとりは?」

「まだ。誰にしよう?」


 まるっきり他力本願じゃん。


「向こうは男子ふたり、女子ひとりのメンバーだから、こっちももうひとりは男子がいいわ」

「一夜――」

「断る」


 最後まで言わせてもらえず、ひと言でばっさりだった。


「仕方ない。誰かテキトーに捕まえよう」


 弁当箱を閉めて片づけると、僕らは第二体育館へと向かった。後ろからはなぜか知らないが、一夜がしっかりとついてきていた。





 聖嶺学園高校では昼休みに体育館が開放される。体育館を使うクラブが昼練をする場合はその限りではないが、そういった事情がなければ自由に使っていいことになっている。


 ふたつある体育館のうちのひとつ、バスケットボール部が使う第二体育館にはゴールが八つある。長方形をした体育館の長辺に三つずつ、短辺にひとつずつで、計八つ。昼休みのレクリエーションとしてはスリー・オン・スリーが主流だ。オールコートで試合をするとふたつ占拠するので嫌われたり、それ以前にメンバーが十人必要だからなかなか集まらなかったり、そういった理由によるところが大きい。


 昼休みの体育館にはけっこう生徒が集まっている。コートにはプレイヤー、周りに交替待ちや野次馬、隅で友達同士ただ喋っているだけの生徒もいる。生徒の社交場といったところか。


 さて、僕たちを待っていた相手チームは百八十センチ前後の男子がふたり、百六十五センチくらいの猫目気味の女子がひとりという構成だ。


 で、どうやらチームのリーダー格はその猫目の女の子のようだった。キツい感じの美人系の容姿なので、男ふたりを従える姿はさながら女王様だ。でも、実際その立ち位置がしっくりくる。


「三人とも僕より背が高いね」

「がんばって大きくなりなさいな」


 そうして宮里は相手チームに寄っていった。


「……」


 クラスメイトは無理難題をおっしゃる。


 こっちは自称百六十(本当は百五十九.五)センチの僕と百六十五くらいの宮里に、もうひとりは百七十五あって中学時代運動部に所属していたクラスメイトを連れてきた。それでも平均身長で負けている。救いは僕も宮里もバスケ部に所属していたことか(宮里に至っては何と主将だ)。


(ん、あれは……?)


 と、そこで体育館の壁際に片瀬先輩の姿を見つけた。


 コートのほうを見ている様子はなく、何人かのクラスメイトと話しているのを見るに、どうやらお喋り組のようだ。


「男なんて不潔よーっ」


 いきなり宮里に蹴られた。さっきまで向こうで例の女の子と言葉を交わしていたと思ったら、もうこっちに戻ってきていたか。


「何だよっ。ちょっと見ただけじゃん」

「はいはい。わかったからさっさとコートに入る。きれいなお姉様の気を引きたかったらプレーでがんばりなさい」


 ああ、なるほどね。みんな心なしか張り切ってると思ったら、さり気なくアピールしているわけね。でも、悲しいかな、片瀬先輩は友達との話に夢中になっていてコートのほうは見ていない。単純にお喋りの場をここに選んだだけなのだろう。


「じゃあ、はじめようか」


 そして、僕はコートに入った。





 ゲーム開始。


 先攻はこちら。中学時代ガードだったため、ボールは僕からだ。


 ポジションの関係上マンツーマンマークをしたとき、僕は敵チーム唯一の女の子とマッチアップ

することになる。

 宮里がねこと呼んだ女の子――確か名前は姫崎ねこといったか。


「貴方、バスケはできますの?」

「ま。人並みには」


 ここは控えめに答えておこう。謙虚は日本人の美徳だ。


「サトちゃんから聞いてるよ。君も巧いんだってね」

「自慢じゃありませんが、中学では主将をしていましたわ」

「……」


 あっちは自信満々だな。


「さて、貴方に私の相手がつとまるかしら? その実力、見せてもらいますわ」

「オーケー。せいぜい頑張ることにするよ」


 おしゃべりはこれくらいにして、いいかげん動くとするか。


 中学時代に主将をやっていた宮里と実力伯仲だったというだけあって、彼女のディフェンスには隙がない。迂闊なパスを出せばカットできて、且つ、油断をすればスチールもできる絶妙な距離に立ってプレッシャをかけてくる。なかなか嫌な感じのディフェンスだ。


 気の強そうな、猫みたいな目が僕の動きを注意深く見張っている。


(まずは様子見だな)


 方針決定。一対一は避けよう。


 僕は、宮里が隙をついてマークを振り切ったのを見て、そちらにクイックでパスを出した。


 すぐさま僕も姫崎さんの死角になるコースに駆け出して、


「宮里っ」


 ボールを返してもらい、ドリブルでゴールを目指す。


 途中、素早い反応で追いついてきた姫崎さんを一度クロスで振り切った後、切り込んでシュートを狙う。が、ここで僕の動きを読んでいたようにディフェンダがチェックに入ってきていた。宮幸をマークしていたやつだ。百八十の長身が僕の行く手を阻んだ。


(もうひとりの経験者はこいつか!)


 すでに跳んでしまっている以上、かわす手段はひとつしかない。放りかけていたボールを戻し、ディフェンダーの腕をかいくぐって再びシュートを撃つ。――ダブルクラッチだ。少々体勢は崩れたが、幸いにして何とかリングに収まった。


 なのに――


「アホー。あんたはパワーフォワードかっ? ガードのくせに隙があったら切り込むんかっ?」

「……」


 文句を言われました。


 宮里さん、あなたはダブルクラッチという高等技術を出した上、ちゃんとゴールを決めた僕に何の不満があると?


 どうも僕は性格的にはシューティングガード向きらしく、実は中学の部活のときも無茶な切り込みをやってセンターに潰されていた。顧問の先生にも宮里と同じようなことを言われていたので耳が痛い。ポイントガードだってペネトレイトやドライブインしたくなるときがあるんだよ。


「なかなかやりますわね、貴方」


 その声に振り向くと、姫崎さんがこちらを睨んでいた。言葉の上では余裕ぶっているけど、けっこう悔しそうだ。


「人並みにはできるって言っただろ」

「まぁ、いいですわ。まだはじまったばかりですもの」


 怖い怖い。


 そして、攻守交替。今度はディフェンスだ。

 ボールはガードである姫崎さんの手の中からはじまる。


「さぁ、いきますわよ」

「どーぞ」


 とは言え、激しく接触するようなプレイはできない。何せ相手は女の子だし、それ以前に僕自身肋骨を痛めている。なので、プレッシャをかけるだけにとどめておく。


「甘いわ」


 しかし、さすがはオールタイム自信満々の姫崎さんというべきか、そんなものは何のそのであっさり抜かれてしまった。


 すぐに宮里がフォローに入る。

 が、それも鮮やかにかわして、姫崎さんはレイアップで華麗にシュートを決めた。ゴール下で振り返り、強気な笑みを見せる。ふふん、て声が聞こえてきそうだ。


「なるほど。こりゃ巧いわ」


 僕は素直に感心した。


 再び攻守交替。

 今度はやや不意打ち気味に速攻を狙ってみる。


「宮里」


 即パス。

 宮里、即ジャンプシュート。


 しかし、残念ながらボールはリングに嫌われ、弾かれてしまった。


「行けっ、サトちゃん。リバウンドだ」

「むり言うなっ」


 当然のようにゴール下では競り合いにすらならず、リバウンドボールを取られてしまった。


 このチーム、根本的に平均身長で負けているので、最初のチャンスをものにできなかったら終わりなわけだ。


「ちょっと、貴方!」

「うぇっ!?」


 いきなり烈しい声が叩きつけられた。


「正々堂々勝負なさい」

「いや、正々堂々って、今やってる真っ最中じゃん」

「貴方、すぐパスを出すじゃない」

「何か問題でも?」

「大アリですわ。それでは私と貴方の優劣がはっきりしませんもの。パスなんか出さず一対一で私と勝負なさい」

「……」


 この子、何かすごいワガママなこと言ってないか?


「わかった。ちょっと待ってろ。タイムアウトだ」


 僕は一旦、姫崎さんを手で制した。


「……宮里」


 今度は手招きで宮里を呼ぶ。


「なに?」

「宮里さ、中学のとき、あの子と決着がつかなかったって言ってたよな? それって一対一とかわかりやすい勝負をしなかったから、はっきり目に見えるかたちの決着がつかなかったってこと?」

「あ、わかった?」


 と、苦笑いを浮かべる宮里。


「バスケって結局は団体競技なわけでしょ? 勝敗は決まっても個人技に順位はつかないからね。その上、ねことはポジションも違ってマッチアップしなかったし。勝負の機会もなかったってわけ」

「なるほどね」


 姫崎さんというのは、そういうわかりやすい勝負と決着を好む人なのだろう。実際、バスケには向かない性格だよなぁ。


「つーか、その状況でなんで敵認定されるんだよ」

「いろいろあるのよ」


 宮里は苦虫をを噛み潰したような顔をした。これは聞かないほうがよさそうだな。誰も得しない気がする。


 気を取り直してゲーム再開。


 しかし――

 その後も何かにつけて言いがかりじみた文句を言われ、


「勝負よっ。勝負なさい!」

「男ならドリブルで抜いてみせなさい!」

「また逃げますのね。臆病者!」


 正面切っての勝負をことごとく避けていると、次第に罵倒みたくなってくる始末。


 これってスリー・オン・スリーだよな?


 しっかし、一回目からそうだけど、オフェンスのときには何度も僕を抜いているんだから、それでよさそうなものだけどな。きっとあの性格だとオフェンスとディフェンス、両方で勝たないと気がすまないんだろうな。


 しかも、だ。


「アホかー、自分のサイズ考えて勝負せーい」

「あんたはじっくり攻めるということを知らんのかっ」


 なぜか宮里からも文句が飛んでくるのだった。


 新発見。サトちゃんは興奮すると中途半端な関西弁が飛び出すようだ。一夜の影響か?


 ここまで敵味方からやいやい言われるゲームは初めてだな。……もういい。このふたりはそういう生きものだと思っておこう。


「さて、どうしたものか」


 ボールをキープしながら状況を見る。


 本日何度目かのオフェンス。


 宮里は長身のバスケ経験者にしっかりマークされて振り切れずにいる。他方、未経験者組も素人同士でそれなりに競り合っていてパスは出せそうもない。


 ならば、仕方がない。


 幸いコースはあいている。


「シュート――」

「ッ!?」

「と、見せかけてドライブイン」


 首だけのフェイクに引っかかってシュートチェックに寄ってきた姫崎さんをリバースターンでかわす。


「あっ」


 すれ違いざま、姫崎さんの声がかすかに鼓膜を打ったが、もう遅い。

 僕は先刻頭に描いたコースを忠実にトレースする。ディフェンダがフォローに入る暇など与えない。


 そして、一瞬後にはレイアップシュートを決めていた。


「ぃよし!」


 着地して拳を握り締める。


 が――


 瞬間、背中に強烈な視線を感じた。


(あー、もしかしてやってしまった、か……?)


 おそるおそる振り返ったそこには、案の定、先ほどとは比べものにならないほど苛烈に睨めつけてくる姫崎さんがいた。


 しかし、まあ、なんていうか、複雑な顔をしているな。悔しさをこらえながら不敵に笑ってはいるが微妙に頬が引き攣っていて、目には殺気が篭っている。この視線であなたを射殺して差し上げますわ、と言わんばかりだ。


「ふ、ふふ、ふふふふふ……」


 おいおい、ちゃんと笑えてないぞ。


「そ、そうこなくては面白くありませんわ。さぁ、もう一度きなさい。今のは油断しましたが、今度こそ止めてみせますわ」


 びしっ、と僕を指さし、言い放つ。


 あっちゃー、だな。


 ややこしい性格っぽいから余計な恨みは買わないようにと思ってたんだけどな。もう絶対これ以上やるもんか。


 そんな調子でゲームは終盤へと向かう。


 内容としては、中学時代に僕がシューティングガードで(性格的に)、宮里がパワーフォワードだったこともあって攻撃的なチームとなり、平均身長で劣りながらもいい勝負をしていた


(当然、ゴール下ではてんでダメだけど)


 リングに弾かれたボールが敵に取られるのを、僕はリバウンドに参加することもなく、ただ黙って眺める。


 そんな中、僕の視界に妙な場面が飛び込んできた。一夜が女子生徒と話していたのだ。一夜はいつものように本を読みながらなので、女生徒のほうが一方的に話しているようにも見える。その赤毛のセミロングの女子生徒は、制服の着慣れた様子や落ち着いた雰囲気からして上級生のように思えた。女の子にしてはやけに背が高くて、長身の一夜と釣りあうくらいある。おまけに日本人にあるまじきスタイルの良さだ。


(逆ナンパ?)


 真っ先に思いついたのがそれだった。


 一夜は一見して知的美少年なので、そういうことがあってもおかしくはない。まぁ、体育館で本を読んでる姿は浮きまくっていて絶対におかしいけど。一夜が女子生徒に声をかけられている場面はそれほど珍しいものでもないし、誰が相手であろう平等に素っ気なく対応する。なのに、今回ばかりはわずかに不機嫌な顔をしているのだ。


(珍しいな)


 と、一瞬でも意識が一夜のほうに向いたのが悪かった。


 何せ今はゲーム中。


「千秋ー、ボールいったよー」

「へ? ……ふぎゅるっ」


 迂闊。


 バスケットボールが顔面を直撃した。それでもルーズボールを取りに走った根性は認めてほしい。ただ、このとき僕は慌てすぎて、もうひとつ失態をやらかしたのだけど。


 これは遊びとは言え試合形式の勝負。一旦コートに入ってゲームがはじまればプレイヤーは真剣だ。ルーズボールは敵も追いかける。そして、この場合は僕と相手チームの紅一点、姫崎さん。


 僕は間抜けなミスを取り戻そうと視野が狭くなっていた。


「うわっ!」

「えっ、きゃあっ!」


 結果、僕らは衝突し、絡まるようにして転倒した。


「い゛……! ぎ、ぎ……ぐ……が……」


 いや、もう兎に角、激痛。今度こそ本当に肋骨が折れたんじゃないかと思うような激痛が全身を駆け巡る。激しい接触が予想されることは避けるようにと言っていた医者の言葉が思い出される。


 そんなことよりも現状を確認しよう。


 仰向けにぶっ倒れている僕。

 そして、その僕の胸の上に頭を乗せるようなかたちで重なっている姫崎さん。


 うん。何とかセーフだったようだ。


 何せ僕のミスが原因で起きた事故だからな。これで姫崎さんに怪我なんかさせるわけにはいかない。だから、僕は咄嗟に彼女の下に体を入れ、肩を抱いて受け止めたのだ。


「ごめん。大丈夫? 姫崎さん」


 僕が声をかけると、彼女ははっとしたように顔を上げた。

 すぐ目の前に顔がある。


「……」


 こっくり。猫目をぱっちり見開いたまま無言で頷いた。


「そう。それはよかった」


 こっちの肋骨の痛みもおさまりつつある。どうやら折れたりはしていないようだ。さすがにこうなると反省せざるを得ないな。言いつけを守ってもうしばらくは運動は控えることにしよう。


 ところで、そろそろ姫崎さんにはどいてほしいものだ。

 彼女から上品な香水みたいな香りがほのかに漂い、長い髪が僕の首に落ちて、いろいろとくすぐったい。


 しかし、彼女は立ち上がる気配もなく、ぼうっと僕の顔を見ている。


 その顔がかなり近い。


「……」

「……」


 さっきからはちゃめちゃな言動ばかりだったが、こうして改めて見るとやっぱり整った顔をしている。思わず見惚れてしまう……って、そんなこと考えてる場合じゃないな。


「だ――」


 大丈夫? もう一度確認しようとしたところで宮里が割り込んできた。


「なにやってんのよ。大丈夫なの?」


 手を貸して姫崎さんを立たせる。


「立てるか、那智」

「あ、うん」


 僕には一夜が手を差し出してきた。


 その手を取ると、一夜は軽々と僕の体を引っ張り上げた。優男風のくせにけっこう力あるんだよな。もしかしたら僕が軽いだけかもしれないけど。


「いやぁ、まいったまいった」


 僕は体についた埃を払った。


「よ……っ」

「よ?」


 何かと思って振り返ると、姫崎さんが真っ赤な顔をしてこっちを見ていた。

 不穏なものを感じる。


「よくもやってくれましたわねっ」


 うは。なんかすごい怒ってる。


「い、いや、だから謝っ――」

「謝って頂かなくてけっこう! オフェンスではそれだけの技術がありながら私との勝負を避け、ディフェンスは手抜き! 私も舐められたものですわね」

「そっちか!?」

「私と貴方の間にそれ以外の何があって!? いいわ。今この瞬間から貴方は私の敵よ! この借りは必ず返してみせますわ!」


 びしっ、と僕に指を突きつけ、宣戦布告する姫崎さん。僕は口を金魚のようにぱくぱくと動かすだけで言葉が出てこなかった。


 そうして姫崎さんは、ゲームはこれで終わりとばかりに踵を返して去っていった。


「……」


 ぽん、と僕の肩に手が置かれた。宮里だ。


「ドンマイ」

「何が!?」


 これはいわゆるひとつの敵認定ってやつ? もしかして僕は大変なことをしでかしたんじゃないだろうか……。


 と、そのとき――


 何となく嫌な予感がした。誰かに見られているような気がして、おそるおそるそっちを見てみる。


(ひいいいぃ~~)


 片瀬先輩が、僕を見ていた。


 いつから? 姫崎さんと揉め出したときから? それともコケたところから? もしかして、ボールを顔で受けたところからか!? だとしたらなんて間が悪いんだ。


 ちょうどそこで昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。片瀬先輩が体育館から出て、教室へと戻っていく。


 ゲーム終了――

 ある意味、僕も終了――


 嗚呼、最悪……。





「何をこの世の終わりみたいな顔しとんねん」


 帰り道、電車の吊革につかまって立つ僕の横で、一夜が呆れたように言う。


「はぁ……」


 それに僕はため息で応えた。


 ため息だって吐きたくなる。別に格好いいところを見せようと思ってたわけじゃないけどさ、何もあんな格好悪い場面だけしっかり見られることもないだろうに。印象最悪。神も仏もあったものじゃない。


「要するに意識してるんや?」

「……かもしんない」

「俗物」


 あれ? 機嫌悪い?


「そう言えば一夜さ、僕がゲーム中、上級生の女の人と話してなかった?」


 機嫌悪いついでに思い出した。あのときの一夜も珍しく不愉快そうだったのを覚えている。


「あれって何だったの?」

「知らん」


 そのひと言で一蹴。


 うわあ、さらに不機嫌になった。今日の一夜は機嫌が悪い率が高い。もしかして逆ナンパ? とか言ってからかってやろうと思ったのに、そんな雰囲気じゃなくなってしまった。


「じゃあな」

「あ、うん」


 やがて電車が駅に着くと、いつものように一夜が先に降りて僕らは別れた。


 電車に揺られながら、僕はもう何も考えないことに決める。が、それも長くは続かなかった。電車から降りて改札口を通るころには、もうとりとめのないことを考えはじめていたのだった。


(俗物、か……)


 確かにそうかもしれない。以前は片瀬先輩に憧れながらも高嶺の花と諦めて遠くから見ているだけだったのに、ちょっと接点ができたと思ったら浮かれて舞い上がって、バカみたいに先輩を意識している。これじゃほかのやつらと変わらない。一夜に俗物と言われても仕方のないことだ。


(でもさ、ああいうことがあったんだ、意識して当然だよなぁ。格好いいところだって見せたい)


 でも、どうしてもそう思ってしまう。


 当然の成りゆき。

 不可抗力。


 つまり――


「かまってくれない先輩が悪いっ」


 ……。

 ……。

 ……。


 どんな結論だよ?

 我ながら素晴らしい思考の飛躍。言ってて虚しくなるね。


「はぁ……」


 またため息を吐く。


 どうやら一夜の機嫌が悪い率並に僕のため息率も上がっているらしい。ダメだ。ため息で肺の空気がなくなる前にさっさと家に帰って気分を変えよう。


 そう思って歩調を早めたとき――


「那智くん、つっかまっえたっ♪」

「わあっ」


 突然、誰かが背中にのしかかってきた。首に絡まってくる腕を慌ててすり抜け、後ろを振り返ってみる。


「か、片瀬先輩……!」

「やっほ」


 そこには片瀬先輩が立っていた。笑顔とともに胸に前で小さく手を振っている。


「おどろいた?」

「おどろきますよ。当然でしょう。あー、びっくりしたぁ」


 そんな僕の様子を見て先輩はくすくす笑う。


 この人は驚かせるのが趣味なんだろうか。そう言えば、前にも似たようなことがあった気がする。いや、いきなり飛びついてくるあたり、明らかに以前よりパワーアップしてる。しかも、何か背中に、ぎゅむっ、て感触があったし。


「……」


 あー、やめた。あまり深く考えないようにしよう。


「どうしたの、那智くん?」

「……」


 いや、もう考えないようにしたいんで、ほんと、人の顔を覗き込むのやめてください。


 僕が視線を逸らすと、先輩はくすりと笑った。


「那智くんを見てると飽きないわ」

「もしかして僕のこと、からかってます?」

「さあ? 気のせいじゃなぁい?」


 ……嘘だ。


 澄ました顔してるけど、とてつもなく故意犯的な表情だ。


「それにしても……」


 そう言って話題を変えながら、片瀬先輩は何か面白いことを思いついたいたずらっ子のような笑みを浮かべた。


「そっか、そっかぁ。那智くん、そんなこと思ってたんだ」

「な、何のことでしょう?」


 ……嫌な予感がする。


 本日二度目の嫌な予感。一度目は見事的中している。


 そして、先輩はもったいつけるようにたっぷり間を空けてから言った。


「『かまってくれない先輩が悪いっ』」


 と。


(ひいいいぃ~~)


 大当たり。百発百中じゃないか、僕の悪い予感は。いやいや、ぜんぜん嬉しくないから。


「えっと、それはですね……」

「かわいいわ、そういうの」


 そう言って大人っぽく微笑む先輩を見て、僕はどきっとした。


 片瀬先輩はいろんな表情をもっている。人をからかって子どものように笑ったり。そうかと思うと、今みたいな仕草でやっぱり年上なんだと思わせたりする。本当に多彩な顔を持つ人だ。それに――


「じゃあ、今度の日曜、あいてる? どこか出かけようか?」

「は、はい?」


 絶対に人を驚かせるのが趣味なんだと思う。


 先輩の口から飛び出した思いがけない言葉に、僕は目が点になった。

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