第一章 噂の先輩

1.

 僕は思い出す。

 初めてあの人を見たとき、人形のようにかわいい人だと思ったことを。


 彼女をひと言で言うと――万人が認める美少女。


 語られる魅力はいくらでもあるが、僕には彼女の大きな目と吸い込まれそうに深い色の瞳がとても印象的だった。


 年相応に明るくてかわいらしく、下級生の僕から見れば少しだけ大人に見える。それが学園一の美少女と噂の先輩――片瀬司かたせつかさだった。





 ゴールデンウィークも過ぎて、ようやく高校生として実感の湧いてきた五月のある日の放課後――


「なっちなっち、見ろよ。片瀬先輩が歩いてる」

「なっち言うな」


 確かに僕の名は千秋那智ちあきなちだが、そんなニックネームを持った覚えはない。文句を言いながらもトモダチの手招きに誘われて教室の窓の外を見てみる。三階から見下ろした中庭に、片瀬先輩が数人のクラスメイトとともに通り過ぎていく姿があった。きっと同じ三年生の中でも人気があるのだろう、先輩はいつも輪の中心にいる。


 こうしているといつぞやのことが思い出されるが、あれ以来目が合うようなこともなければ近くで見る機会すらない。あれは僕が先輩の瞳に見入ってしまったことによる錯覚だったのだろう。


「今日もかわいいなあ。……せっかくだから一枚撮っとこ」


 そう言って制服のポケットからケータイを取り出した。


「やめとけよ、失礼だろ」

「気にすんな、気づきゃしないよ」


 結局、僕の制止の声も聞かずケータイを向けはじめる。こうしてだんだんと肖像権に対する意識が薄れていくのだろう。まぁ、どうせこの距離じゃロクなものは撮れまい。


 僕は離れていく片瀬先輩たち一行の姿をぼうっと見送った。


「あーあ、行っちまった」


 隣でトモダチが残念そうにつぶやく。


「いいじゃないの、お目にかかれただけでさ」

「だーっ、一度でいいから間近でお話してぇ。……いっそ思い切って告白とつげきするか」

「安心しろ。向こうはお前のことなんか知りもしないから」

「だよなぁ」


 と、がっくり肩を落とす。


「よし、じゃあお前いけ」

「何でさ!?」

「いや、お前ならかわいい系の顔だし。俺より可能性はありそうじゃん?」


 顔のことはほっとけよと思う。この童顔と平均値に届かない背は僕のコンプレックスだ。


「『先輩、前から好きでした。つきあってください』って? 僕はそれでOKする女の子を信じない」


 考えてみたらいい。初めて会う異性に告白されて即OKする人間がいるだろうか? 告白する側は相手を知ってるかもしれないけど、相手にしてみれば初対面だ。もしいたとすればそれは『別にいっか』っていう刹那的思考の産物か、『私も好きでした』っていう希有な例だ。九分九厘玉砕する。


「それでも月に何人か玉砕する男がいるそうな。……で、那智の本音は?」

「『片瀬先輩、かわいいなぁ。せめてお友達にっ』」


 思わずぐっと拳を握り締める。


「……」

「……」

「……」

「ま、所詮は高嶺の花だけどね」


 僕はくるりと踵を返し、窓から離れて教室のドアへと向かう。


「帰るのか?」

「んにゃ、トイレ。……先帰ってて。もしかしたら追いつくかも」

 背中越しにひらひらと手を振って、僕は教室を出た。





 そうして数分後、用をすませてトイレから出ようとしたとき、


「片瀬だよ、片瀬」


 どやどやと数人の生徒が喋りながら入ってきた。


(片瀬?)


 聞き覚えのある名前。僕が知ってる片瀬はひとりしかいない。無論、同姓はいくらでもいるだろうから、この会話に出てきている『片瀬』が別の片瀬さん(もしくは、片瀬君)を指している可能性もおおいにある。が、そのどちらであれ続きが気になったので、僕は半開きになった個室のドアの後ろに、気配を殺して身を潜めた。ドアは内側へ開くから中を覗かれない限り見つかるまい。


 聞こえてきたのは、品性に欠ける声による不穏な会話。


「部室に連れ込めばバレやしねえって」

「後で騒がれたらどうするよ?」

「やることやって写真撮っときゃ大丈夫だ。バラまかれるの覚悟で警察に駆け込む女なんていやしねーよ」


 やがてその生徒たちは密談と用を終えてトイレから出ていった。少し間をおいて僕も個室から出る。


「……」


 洗面台で手を洗いながら、耳では先ほどの生徒たちの足音を拾い、去っていった方向を確認していた。僕の教室とは逆の方向だ。


 視線を上げると鏡の中に見慣れた顔があった。ほんの数秒、僕と同じ顔をした鏡の国の住人と見つめ合ってから廊下へと出て――そこで足を止める。


 まずは自分の教室のほうを見る。


 続けて、振り返って廊下の反対側に目をやった。


 休み時間よりも生徒の数は少ないが、ざわざわと開放感を含んだ喧騒に満ちていた。何の変哲もない放課後の廊下――


 そう、よからぬことを企んでると思しき連中が消えていった以外は。


「んじゃ、いくか」


 わざわざ発音してから足を踏み出す。……もちろん、教室とは反対方向に向かって。





「問題がふたつほどあるよな」


 歩きながら僕はつぶやいた。


 ひとつは、話されていたようなことが、今すぐ実行されるのかということ。もうひとつは、話に出てきた『片瀬』が、あの片瀬先輩なのかということだ。


 と、そこまで考えて気づく。


「いや、どっちもたいした問題じゃないか」


 前者は、無駄足になったのならそれはそれでけっこう。そして後者は、それこそ些末な問題と言える。そこにひどい目に遭いそうな人間がいるのなら、知り合いかそうでないかなんて関係はない。


「それよりも姿を見失ったことのほうが重大か。つーか、僕、そもそも連中の姿を直で見てないし」


 そう、僕は追跡すべき目標を見失うという非常に根本的な問題にぶち当たっていた。


(そういえば部室がどうのこうの言ってたか)


 思い出して、ひとまずの目的地を得た。部室と言えばおそらく校庭横にある運動部のクラブハウスだろう。僕は靴を履き替えて校舎から出た。途中、剣道場の前を通ったので練習用の竹刀を一本拝借しておく。


 そこからクラブハウスへ向かおうと体育館の前に差し掛かったときだ。


「うわっ、と……」


 脇から飛び出してきた男子生徒とぶつかった。けっこうな勢いだったので互いに弾き飛ばされ、尻餅をつく羽目になった。見るとその男子生徒は濃紺のネクタイを締めている。どうやら三年の先輩のようだ。


 さて、ここでマメ知識。

 ここ私立聖嶺学園高校の制服は男女ともにブレザーで、男子のネクタイは学年ごとに濃紺、深緑、薄紅に分けられている。現一年生は三年間通して薄紅色を使用し、来年度入学の新一年生は現三年生が使っている濃紺が学年のカラーとなる。順繰り順繰りに使い回していくわけだ。


 ところが、なぜか女子のリボンタイには色の区別がない。淡いブルーのチェック柄スカートに合わせて、タイの色も淡いブルーで全学年統一されているのだった。


 僕とぶつかった三年の先輩はえらく悲愴な顔をしていた。


「どうしたんですか、先パ……」

「俺は悪くないっ。あいつらに命令されて呼び出しただけなんだ。さっ、逆らえないんだからしょうがないだろっ」


 そうとう取り乱してらしい。問い詰めたわけでもないのに言い訳を口走ると、這うようにして逃げていった。


「てことは、体育館裏かな?」


 竹刀を握りしめて体育館の裏手へと回ると、展開されていたのは最悪の、ある意味では予想通りの事態――四人の男子生徒が、壁を背にした片瀬先輩を取り囲んでいた。まだひどいことになっていないのが救いか。


 つまり手口はこうだ。先ほど逃げていった先輩がこの連中に脅されるか何かして片瀬先輩を呼び出したんだろう。で、先輩は定期的に発生する『前から好きでした。僕と以下略』イベントだと思って何の疑問も持たずにやってくる。そして、テキトーなところでこいつらが出てきて、今まさに襲いかかろうとしている、と。


 卑劣なやつら。

 ムカついてくる。


「先輩から離れろッ!」


 僕は叫びながら竹刀を手に駆け出した。

 先手必勝とばかりに、僕の声で振り返ったいちばん手前のやつに殴りかかる。剣道の経験はないので竹刀の振り方なんて知らない。なので、バットを振る要領で腹に思いっきり叩き込んでやった。不意打ちはけっこうなダメージがあったようで、そいつは盛大に吹き飛んでくれた。ただし、頼りの竹刀も折れたけど。


「何だぁ、お前は!?」


 問われたところで答える義理はない。というよりも、そんな余裕が僕にはなかった。


「片瀬先輩、逃げてっ」


 状況を理解したらしく、先輩は一瞬の逡巡の後、すぐに走り出した。


「待ちやがれっ」

「待つのはそっちだろっ」


 逃げた片瀬先輩を見てひとりが追いかけようとする。僕はそいつの腰にしがみつくと、むりやり放り投げて地面に引きずり倒した。


「てめぇ、よくも邪魔しやがって! ただですむと思うなよ」


 かくして連中の標的は僕へと変わった。





 約三十分後――

 僕は大の字になって地面にぶっ倒れていた。


(さすが慣れてるよなぁ。殺さない程度の袋叩きはお手のものか)


 多勢に無勢。殴り合いなんてしたことのない僕が一対四であの手合いに勝てるはずもなく――結局、袋叩きにあった。羽交い締めにされて腹に五発、顔面に四発喰らったところまでは覚えてるけど、後はもう記憶にない。


(手と、足は動くな。ほかは……ああ、アバラ数本もっていかれたっぽい)


 倒れたまま被害状況を確認する。


 兎に角、全身が痛い。とりわけヒビが入ってるらしい肋骨は、呼吸して横隔膜が動くたびに激痛が走る。とりあえずしばらく動けそうにない。


「ま、いっか。片瀬先輩が無事だったし」


 そうつぶやいてみて新たな被害箇所発見。口の中をだいぶ切ってるみたいだ。口の端も腫れているのだろう。すごく喋りにくい。


「明日から食事に苦労しそうだな……いぎっ」


 肋骨のことも忘れて深々と溜め息を吐いてしまい、激痛に襲われた。僕はアホか。一過性の痛みに耐えた後、目を閉じ、身体を落ち着けて疲労回復に努める。


 と、そのとき――


「だ、大丈夫……?」


 そんな声とともに僕の口元に冷たいものが当てられた。


「……っ!?」


 いろんなことに驚いた。こんなところに人がきたこととか、口元に当てられた冷たいものが思いっきり傷にしみたとか。


 そして、何よりもそこにいたのが片瀬先輩だったことが衝撃的だった。


「せ、先輩、何で……?」

「うん、心配になって。あ、じっとしてて」


 思わず起き上がろうとした僕を制した。どうやら先輩は濡らしたハンカチで僕の顔の傷を拭いてくれているようだ。口許や頬を順番に拭いていく。


 いつもは遠目に見ていただけの片瀬先輩を、僕はこのとき初めて間近で見た。


 心配そうな、そして、申し訳なさそうな顔をしていたが、先輩の魅力は少しも損なわれていなかった。本当にかわいい人というのはどんな表情でもかわいいらしい。


「大丈夫?」

「いえ、見ての通り大丈夫じゃなさそうです」


 この状態で大丈夫ですと言ったところで百パー嘘。誰の目にも明らかな嘘は、相手を困らせるだけだ。


「何ていうか、こう、全身が痛くて。疲労困憊? あと、四番と五番をもっていかれたっぽいです」

「よ、四番と、五番……?」


 さすがに意味がわからなかったらしく、先輩は困ったように聞き返してきた。


「えっと、冗談です。ちょっと格好よく言ってみただけなんで。実際、何番目がやられたなんて、ぜんぜんわからないし」

「……本当にごめんなさい。わたしのせいでこんなことに……」


 うーん、確かにかわいいのだけど、そう何度も謝られると、何かこう、僕がいじめているようで申し訳ない気分になってしまう。しかも、先輩だんだん泣きそうになってきてるし。


「気にしないで下さい。僕が勝手にやったことですから。たまたまあいつらが話してるとこを聞いちゃって。今ここで何もしなくて、後で先輩がひどい目に遭ったなんて知ったりしたら、絶対に後悔すると思って……」


 自分でも何が言いたいのかわからなくなってきた。支離滅裂さが恥ずかしくて先輩から視線を逸らし、昏くなりはじめた空に目を向けた。


「いや、それに、本当は先輩だから助けたってわけじゃないんです。たぶん、見知らぬオッサンがオヤジ狩りに遭ってても飛び出しただろうから。僕、そういうやつなんで」


 顔を背けたままこっそりと目だけで先輩の様子を窺う。あんな要領を得ない言葉では先輩の気を楽にさせることはできなかったようで、やっぱり彼女は沈痛な面持ちだった。


「だから先輩、こういうときは謝るんじゃなくて、『ありがとう』って言ってください。そしたら僕も嬉しいです」


 瞬間、片瀬先輩ははっとした。

 それから目を細め、やわらかく微笑む。


「君は優しいね。ありがとう……」


 そして、片瀬先輩は顔を寄せると、僕に頬に軽くキスをしたのだった。


「○×△◆☆□♀♂●☆~~!!!」


 本日いちばんの衝撃。


(まさかお近づきなるを通り越して、接触事故を起こすとは思いませんでしたよ……)

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