第2話 病室
人は、誰かの肉体は束縛することは出来ても、その意志までは縛っておくことが出来ない。
誰かがある決意を固めた時、誰にそれが止められるだろう?
仕事からの帰り道、井本夜月は陰鬱な気持ちで駅前の住宅街を歩いていた。
心も、肉体と同じように縛っておければいいのに……。
夜月はここ三日間、仕事を終えるとすぐにその足で病院に向かい、そのまま病院に寝泊まりするという毎日が続いていた。
今日も仕事を終えてから、自宅に帰るのではなく、真っ直ぐ病院へ向かわなくてはならない。
三日前に、恋人の千冬がまた自殺を図ったからだ。
今回は、傷口がさほど深くはなかったため、肉体的にはわりと無事に済んでいた。出血もそれほど酷くはなく、すでに退院の許可も下りているので、夜月は今日は彼女を家に連れて帰るつもりだった。千冬の過去の履歴からすれば、今回の傷はあまり大した傷ではなかった。しかし、夜月にとっては、肉体はともかくとして、彼女の精神状態は今までで一番最悪に思えた。
……誰かがある決意を固めた時、誰にそれが止められるだろう?
夜月は、ふっと溜息を吐く。
その答えはもう、とっくの昔に分かっている。
そんなものは……誰にも止められやしない。
夜月の彼女への愛情が高まれば高まるほど、彼のそうした自分に対する無力感は日に日に募る一方だった。
緩やかな勾配の長い坂道を上って、彼は病院に到着した。
暗がりにそびえ立つ病棟を見上げる。視線を右に滑らせ、千冬の居る病室に目を留めた。
窓際のベッドに座り、ぼんやりと月を見上げている千冬の姿が見える。千冬は、昨日彼がこうして病室を見上げた時もそうしていたし、その前の日もまたそうしていた。
夜月は一瞬気が挫けて、泣き出しそうな気持ちになった。
頭を激しく左右に振る。
駄目だ、俺がこんな気持ちじゃ。
千冬に会う時はいつでも、沈んだ気分でいる訳にはいかなかった。
千冬は、相手の負の感情を誰よりも敏感に感じ取ってしまう。たとえ、仕事で客のクレームにうんざりさせられた時でも、風邪を引いて少し辛いような時でも、千冬の前では落ち込んだ気分でいることは許されなかった。少しでも気を許すと、それは必ず千冬に伝わってしまう。千冬は、夜月の沈んだ感情を感じ取ると、それが自分のせいではないのかとすぐに不安にかられて、逆に彼女の方が落ち込んでしまうことになるのだった。
……あたしのせいだ。あたしのせいで夜月は。
一旦そうなってしまうと、彼のその時の精神的な落ち込みが、彼女に向けられていたのではないという事を千冬に分からせるには、ひどい時には丸一日かかったりした。
朝に待ち合わせをしてからすぐにそういう状態になってしまうと、その日のデートは丸々潰れてしまうことになる。楽しい筈のデートが、帰る頃にはへとへとに疲れている。そういう事が、今までにももう何度もあった。
そしてその度に、夜月は、千冬の母親だの父親だのといった役割を演じてやらなくてはならなかった。お互いを支え合う恋人という、半ば共生的な関係にありながら、それでも母親のように一方的にこちらだけが愛情をかけてあげるのは、夜月にとってもかなり疲れることだった。
夜月はその――母親の顔を知らない。夜月の母親は、彼が産まれてからすぐに他界してしまっていた。母親の母性というものを知らずに育った夜月は、だがだからこそ、千冬にそれをあげたいのかもしれなかった。
夜月は、入口でスリッパに履き代え、照明の落ちた薄暗い廊下を通り抜けて、千冬の病室へ向かった。
一歩進むごとに、背中には憂鬱が舞い降りる。それは、夜月にどんどんと降り積もり、押しつぶさんばかりに彼の心にのしかかってくる。
……誰かがある決意を固めた時、誰にそれが止められるだろう?
夜月は千冬の病室に辿り着き、そのドアの手前で足を止めた。
千冬と付き合い始めてからずっと、彼は常に自分の感情をコントロールすることを強いられ続けてきた。
だが、ここ二、三日の間は、それがかなり難しかった。
今回の千冬の自殺未遂は、千冬ももうそろそろ人並みに楽しく暮らしていけるかもしれないと、夜月がそう希望を抱き始めていた矢先の出来事だった。それだけに、彼のショックは大きかった。
千冬にしても、彼女自身、これからの人生に少しばかり自信を持ち始めていた筈だったし、ごく最近、これから二人でなんとか頑張ってやっていこうと誓い合ったところでもあった。
夜月は、一体何がきっかけで彼女が今回の自殺未遂に至ったのか、まだ千冬には訊けずにいた。今はまだ、彼女にそんなことを訊く訳にはいかなかった。千冬の気持ちがいくらか落ち着いた後で、ゆっくりと解きほぐすようにしてその理由を探っていかなくてはならない。
今現在、千冬の精神状態は一見落ち着いているように見える。少なくとも、彼女を知らない人間が見ればそう見えるだろう。だがしかし、それは千冬が自己防衛の為に作り上げてきた道化の仮面を見ているに過ぎない。普通の人には、千冬の心の中は到底見ることが出来ない。夜月ですら、その一番深い奥底までは、まだ見ることが出来ずにいるような気がしていた。今回の出来事が、そのいい証拠だ。安心していた所に突如起こった千冬の自殺未遂という出来事は、夜月が千冬の心を完全には見通せていなかったという事を証明することとなってしまった。もっとも夜月は、たとえ他の誰かであっても、この自分に見えないのであれば、もう誰にも千冬の精神構造の底の底までは見ることが出来ないと思っていた。
人が持つ心の暗闇は、それほど深くて暗い――。
自分なんかが千冬を把握しようとしていること自体が、相当におこがましい事なのかもしれない。夜月にはそう思えた。
千冬の病室に辿り着いた夜月は、気合いを入れ直す意味で、病院の消毒液臭い空気を肺の中いっぱいに取り込み、しばらく胸の中でその空気を溜め込んだ後、ゆっくりと吐き出した。そして、大部屋になっている病室のドアノブに手を掛け、ドアをそっと押し開けた。
ベッドのカーテンを開けていた右手前と左中央の入院患者が、誰の来客だろうかと顔を出して、夜月のことを窺い見た。そして、自分への訪問客でないことを知ると、二人とも夜月に、まるで彼のせいで気分を害されたとでも言わんばかりに、こちらに虚ろげな表情を投げ掛けて、また枕元の方に引き下がっていった。
千冬のベッドは、入って一番左奥にあった。
夜月は、千冬のベッドのカーテンをそっと開けた。
ずっと月を眺めていた千冬は、夜月の姿に気が付いて、嬉しそうに笑った。
「あっ、夜月! 待ってたんだ。今日はあたしもう帰れるんでしょ? もう平気だよ。なんだかずっと退屈しちゃっててさ。今、お月様を見てたところ。ねえ、夜月、見て。お月様って、何であんなに綺麗なんだろ?」
千冬は、いつもこうして明るくしゃべる。普段はいつも、千冬はとても機嫌がいい。いいように見える。
彼女は、過去に自殺未遂を何度も繰り返してはいるものの、端から見れば、精神を病んでいるようにはとても見えないし、一般の精神病患者によく見られるような無力感や脱力した様子なども全く見られない。思考能力にしても、人並みかそれ以上に優れたものを持っている。ある一点を除けば、人としての機能が損なわれている部分はどこにもない。
千冬は、普段は普通の人となんら変わりはない。
ただある一点。
その、深い暗闇を除いては。
その闇のせいで、彼女は何度もナイフを手にしなければならないという憂き目に遭ってきた。
とはいいながらも、普通の人の普通の状態が、千冬にとってはちょっとした躁状態だとも言えた。本来の千冬は、もっともの静かで、少しばかりふさぎ込んだような性格なのだが、生きていくための仮面が千冬を明るくさせていた。また、そうでなければ彼女は今まで生きてはこれなかった。
「調子、本当に大丈夫なのか? ふらふらしたりしないか? 吐き気とか、頭痛とかは?」
夜月は質問を重ねた。
「ううん、全然平気。あたしは見ての通りぴんぴんしてるよ。もう元気になった。ごめんね、心配ばっかりかけちゃって」
そう言って、千冬は軽く舌を出してすまして見せた。
夜月には、彼女のその元気の良さが妙に気になった。千冬が明るく振る舞えば振る舞うほど、彼の胸は締め付けられるようにずきずきと痛んだ。
三日前に、彼女は自殺をしようとしたのだ。その彼女が、そんなにもすぐに元気になる筈がない。人目には元気に見えるかもしれない。どこにも問題なく映るかもしれない。しかし、医者や看護婦の目は誤魔化せても、自分には通用しない。それとも、千冬はこの自分の事までも騙し通せるとでも思っているのだろうか? だとしたら、あまり軽くは見ないで欲しい。自分だって馬鹿ではないのだから。
「一応、退院の許可は下りてるんだけど、どうだ? もう一日ここでゆっくりしていくか? 別に、今日どうしても退院しないといけないって訳でもないんだから。三日間ほとんど寝たきりだったんだから、体力も少し落ちてるだろうしな」
夜月がそう言うと、千冬はすねたような顔を作って見せた。
「もう! あたしをもう一晩こんな牢屋みたいな所に閉じ込めておくつもりなの? ここにいた方が余計に元気が無くなっちゃうよ。あたしは大丈夫。ごめんね、もうあんなことしたりしないから。本当にごめんなさい……」
彼女のこんなような台詞を聞くのは、これで三度目となる。
「ほんとにごめんね……。夜月には迷惑かけちゃってばっかりでさ」
「そんなことないって。俺は大丈夫だから。ちゆは人の心配なんかしなくてもいいんだよ。俺の事はどうだっていい。ちゆが元気ならそれで」
「それを言うなら、あたしの方こそもうどうだっていいの。あたしなんて、もうどうなったって……」
千冬が俯いて言う。
拙い。
夜月は慌てて会話の内容を変えた。
「調子がいいなら、だったら帰ってみるか? 帰りに何か美味しいものでも食べて帰ろっか? 夕飯は食べたんだろ? ちゃんと食べたか?」
「うん……」
「なら、またあの店にでも行って、パフェでも食べて帰るか?」
「えーっ、もう秋だよ、でも、食べたいけど」
千冬が子供のように頷く。
この彼女の笑顔も、今はまだ信用出来ない。いや、してはいけない。今まで彼女の周りの人間は、彼女のこの笑顔に騙され、そして何度も裏切られ続けてきた。
しかし、夜月は千冬の顔色や話す感じなどを見て、少しはほっとしていた所もあったので、彼女を家に連れて帰ることに決めた。
それに、千冬の言う通りだった。このままこんなところに閉じ込めておいたら、それこそ彼女の精神は余計におかしくなってしまうだろう。
看護婦に申し出た後、退院の手続きを取って、荷物を手早くまとめ、夜月は千冬を連れて病院を出た。
千冬が腕にしがみついてくる。
最近、仕事が忙しくなってきた為に、身体は少しまいってきていたし、千冬の自殺未遂の事からくる心労も並のものではなく、今日はとてもそういう気分ではなかったのだが、今夜はベッドの中で、千冬のことをゆっくりと抱いてやらなくてはならないだろう。
千冬は、いつも人肌を恋しがっていた。
夜月と居る時はほとんどいつでも、テレビを見ている時も、本を読んでいる時も、彼が料理をしている時も、千冬は夜月と身体のどこかの部分が常に触れているようにしたがった。手を握ったり、膝に手を置いて撫でさすっていたり、もしくは寄り掛かってきたりして、そうして人肌と接している時だけは、千冬は淋しさからほんの少しだけ解放されて、安心できるようだった。だから、ベッドの中で優しく抱いてやるということは、彼女にとっては相当な慰めになるのだった。
だが、今夜の夜月は、帰ってからは早く寝てしまいたいところだった。心身共に疲れ切っていた。
夜道を歩きながら、千冬が彼に言った。
「ねえ、夜月。あれ見て。綺麗な月……。あたし、お月様大好き。お月様はね、いつかあたしの願いを叶えてくれるの。それに、月は夜月の月でもあるしね」
千冬にそう言われて、夜月も夜空の月を見上げた。
満月に近い、少し赤みがかった月が、左右に雲を従えて浮かんでいる。
「ほんとだ。綺麗だな……」
そうは言ったものの、今の夜月には、どうしてもその月を綺麗だと思うことは出来なかった。
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