赤い鞄

夏衣優綺

第1話 バタフライナイフ

 透き通るような白い肌。

 折れそうな細い手首には、青白い血管が幾筋も浮き出て見える。

 バタフライナイフを持つ右手が震えている。

 部屋の電気は点いていない。窓から差し込んでくる月明かりを受けて、ナイフの刃がキラリと光る。

 その、誘うような妖しい光り……。

 ゆっくりとナイフを白い手首に近づける。

 背筋に恐怖と悪寒が走り抜ける。

 それでも、彼女は止めない。

 止められない。

 震えるナイフの刃先を手首に当てる。

 口の中が水分を失ってべた付き、喉がからからに渇いている。

 震える右手は、ナイフの刃を更に強く左手首に押し当ててゆく。

 鼓動がうるさい。動悸の痛みに胸が疼く。

 甘やかな刃の光りはまるで、死神が見せる優しげな微笑みのよう。

 彼女はナイフをより一層、強く手首に押し当てる。

 柔らかな弾力で抵抗を保っていた手首の白い皮膚は、急にふっつりとその抵抗を止め、ぷつんと弾けるようにナイフの刃のラインに沿って裂ける。ナイフと皮膚の間から、赤い血が溢れ出してくる。月光の薄明かりの中で、その血はぬらぬらと光っている。

 右手の震えが刃先に伝わり、手首には、叫び出したくなるほどの激痛が走る。

 でも、その一方で、心の痛みは幾分か癒えるような気がしてくる。

 手首の痛烈な痛みによって、心は浄化されてゆく……。

 けれども、それによって彼女が救われることなどない。

 つーっと流れ出した血が、部屋の床板に血溜まりを作っていく。

 彼女はその様子を見ながら、それをとても綺麗だと思う。

 恍惚としながら、彼女はバタフライナイフの刃を、すっと手前に引く。

 ナイフという圧力を失った手首の皮膚は、その瞬間ぱっくりと開き、そこから血が迸るように吹き出してくる。心臓が脈動を繰り返す度に、手首からは激しく血しぶきが飛び散り、辺りには血の霧が舞う。

 涙が頬を伝う。

 嗚咽が込み上げてくる。

 彼女は床にしゃがみ込んだまま、夜空に浮かぶ月を見上げて、そしてゆっくりと目を閉じる。

 ナイフが手から滑り落ちて、床の上で渇いた音を響かせる。

 全身が脱力して、彼女は後ろのベッドにそっと身を預けた。

 やがて、心の中には幾ばくかの安心感が生まれる。

 これで……私もやっと救われる。

 彼女はそう思う。

 絶望にも似た恍惚感に満たされながら、彼女の意識は遠退く。

 空に高く上った月の光りだけが、血しぶきに染まった彼女の顔を、青白く照らしていた……。

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