第3話 Modify Girl

 翌日、目を覚ますと眩しいばかりの陽光が室内を満たしていた。横で寝ていた美奈と雛の姿はなく、代わりに階下からは賑やかな音が聞こえてくる。


 「朝かぁ……」


 今日もまた、眠い頭を叩き起こし痛む体を奮い立たせて廃墟の中仕事に就かねばらないのかと、不満が一瞬よぎる。だがそうも言っていられない。

 「おーい、おはよう」

 伸びをしながら階段を降りる。その声に気付いたのか、雛が小鳥の様にぱたぱたとリビングから飛び出してきた。

「あ、お父さん!遅刻しちゃうよ!顔も洗ってはやく行かないと!職場の人に笑われちゃうよ!」

 美奈の手伝いをしていたのだろうか、雛は制服の上にエプロンをかけている。右手にはしゃもじが握られたままだ。


 「ちゃんと洗うよ」

 そう言い残し、寝ぼけ眼をこすりながら、脱衣所の脇にある洗面台に向かう。鏡の中に映った眠たげな男は不精髭を生やし、重そうな瞼を何とか持ち上げている。

 洗面台の小脇に置かれている水の入ったバケツにタオルを浸し、バケツの上で絞る。僅かな水すらも無駄には出来ない。


 濡れタオルで顔を拭いていると、徐々に感覚が冴えてきた。

 風呂場の開けられた窓から涼しい風が吹き、濡れた顔をひんやりと冷やす。殆ど空のシェービングクリームのスプレーを何度も振りながら手に取り、顎に撫で付けて剃刀で綺麗に剃る。

 髭と剃刀の触れ合う音が小気味よい。肌を傷つけることもなく剃りあげ、もう一度タオルで顔を拭いてから鏡と向き合う。


「よし。今日も頑張るか!」


 手っ取り早く朝食を済ませると、早足で玄関まで向かい、慌ただしく靴を履く。しかし普段ならスムーズに結べる靴紐がその時に限って何故か上手く結べなかった。悪戦苦闘しながら靴を履いていると、ふと視線を感じて顔を上げる。

 その先には、リビングに座った雛が笑いながら手を振り「行ってらっしゃい」と言っているのが見えた。ドアの脇から美奈もまた顔を覗かせ、手を振っている。俺は手を振り返すと、みょうちくりんな結び方をした靴をそのままにして、玄関からそそくさと出た。


 庭に植えられた花々がそよ風に撫でられ、会社に向かう俺に手を振る。とこまでも突き抜ける青空は広く、久しぶりに流れてきた雲から抜け出た太陽は、影に覆われていた繁華街のメインストリートを照らし出した。


 妙な結び方をした靴を気にすることなく、庭を出て繁華街のメインストリートへと向かう。慌てて出たものだから作業着のボタンもずれていたが、直すことなく歩いた。

 繁華街の入り口へと差し掛かったころ、何気なく後ろを振り向く。随分と我が家が小さく見えた。繁華街に入ればもう我が家は見えなくなる。その前に一つ、深呼吸をしてから口を開いた。


「行ってきます、雛、美奈」


 仕事場へ向かう人や買い出しに出かける商人でごった返す町並みの中に、俺の言葉はかき消えた。

 我が家から目を外し、いよいよメインストリートを歩いて会社に向かおうとする。


 ――その時だった。


 悲鳴のような不吉な風切音が人で溢れた繁華街に響いたかと思うと、直後雷鳴の如き破裂音が俺の耳を貫いた。そして同時に視界が激痛に襲われ、暗転する。

 一瞬の出来事に、何が起きたか全く理解できない。目に映るのはただただ暗闇ばかりであり、痛くなるほどの耳鳴りが鼓膜を抑え込んでいた。


 「な……なんだ!?」


 闇雲に怒鳴るが、しかしその自分の声すらくぐもって良く聞こえない。視覚と聴覚を奪われた俺の体に、何か大きなものが立て続けにぶつかり、思わず押し倒されてしまった。痛む目をぎゅっと固くつむりながら、ひび割れた道路をがむしゃらに這いずりまわる。道路に押しつぶされたカエルの様になっている体の上を、また沢山の痛みが走り抜けていった。


 大勢の人が走り回って俺を踏んでいるのだ、と思った。

 震える手で頭を覆い、縮こまるようにして地面の上にうずくまる。何も見えず、何も聞こえない状態で、ただひたすら耐えた。その間にも、何度も何度も駆け回る人の足が俺を蹴り飛ばし、その度に這いずって逃げ出す。


 やがて目の痛みが引き、恐る恐る目を開けると、そこには砂埃や泥まみれに、あるいは血まみれになって逃げ惑う町の人々が映っていた。

 みすぼらしい露店の商品は地面の上にぶちまけられ泥だらけになっており、商品を入れていた粗末な籠や網棚は押し倒されて破壊されている。オンボロな店舗の窓ガラスは粉々に砕け散り、内側にしまわれていた段ボールや紙類が雪崩の様に道路へと滑り落ちていった。

 俺は破壊された露店のテーブルの下にすっぽりと収まるようにうずくまっていた。

 顔を上げると、テーブルの更に上のビルから今にも落下してきそうにぐらつくコンクリートの塊が見える。


「うわあぁぁぁっ!」


 思わず悲鳴を上げ、転がるようにテーブルから体をはじき出し、メインストリートの方へ飛び出す。そのまま地面の上に倒れ伏すと、砕け散ったガラス片や瓦礫の破片が作業着を引き裂き、腕をえぐり血を噴出させた。だが不思議と痛みは感じない。


 耳鳴りが止むと、代わりにあちこちから聞こえる悲鳴と怒号が鼓膜を引き裂こうとした。

 しかしそれらは、腹の底に絶え間なく響く、不気味な轟音で全てかき消される。その轟音が鳴り響くたび、眼前には真っ赤な血の様な火炎が吹き上がり粗末なビルや家屋を蹂躙する。同時に、徐々に悲鳴や怒号の類は小さくなっていった。


 ――戦争だ。戦争が今、目の前で起こっているのだ。


 俄かには信じられない現実を目の当たりにし、驚くほど冷静な理性が感傷や恐怖に浸る前にそう告げた。

 そう思った直後、全身を悪寒が貫き、あっという間に血の気が引いていった。こみ上げる吐き気と、忘れていた痛みが急に思い出したかのように襲い掛かる。だがそれらを無理やりに押さえ付けて、俺は無我夢中に駆け出してた。


「……美奈っ!雛っ!」


 雑な結び方をしていた靴紐は既にほどけ、右足の靴は走り出した直後に脱げた。ぼろぼろになった作業着も最早袖だけが通されたような格好になり、思わず投げ捨てる。見るも無残な見た目になったが一切気にも留めず、走り続けた。

 靴を失った右足には瓦礫が次々に食いつき、振りぬく腕からは留処なく血が流れ続ける。だがそんなものは気にも留めず走り続ける。


 幾度となく地面に倒れこみながら、それでも我が家へとひたすらに駆ける。倒れる度に体が引き裂かれるように痛む。血が噴き出る。息が詰まる。目の前が暗くなる。口中に鉄の味が広がる。脳裏に不吉な映像が絶え間なく流れる。足はただの枯れ木の様に頼りなく筋を張っている。時折すぐそばで建物が崩れ落ち、破片が体を打ち付ける。


 だが走った。

 意にも介さず走った。

 やがて我が家が大きく見えてくる。まだ家は無事だ。


 我が家が眼前に迫ると、開け放たれた玄関には見覚えのある雛と美奈の靴が丁寧にそろえられていた。避難に備えていたのか、家を出るときには無かった荷物袋も置かれている。まだ家族も無事だ。


 家に着き、安堵の思いと共に倒れこみそうになった俺の体は、突然空間を歪ませんばかりの圧力と肌身を焼き焦がすような熱風を受け、道路に投げ出された。

 路面に叩き付けられた体が悲鳴を上げる。だが土煙に覆われる空間の中、もう動こうとしない足を無茶苦茶に叩きながら無理に動かし、歩き出した。乾いた道路に血が流れ出てはすぐさま吸い込まれ陰惨な色を見せる。

 やがて土煙が消え、ようやく我が家の門へと近づいた時、俺は今度こそ倒れ伏した。


 ――目の前には冷たく横たわる現実だけがあった。


 「嘘、だろ」

 家のあった場所には黒煙を上げる瓦礫の山とそれを舐める炎の波が覆いかぶさっていた。つい先刻まで、見慣れた姿を見せていた我が家の面影はどこにも見えない。

 庭に植えられていた花が地面に程近い茎と葉を残し、そこから上全てが吹き飛ばされている。花壇から離れた場所で、無理やりもぎ取られたような沢山の小さな花弁が、火に焼かれたのか半分黒く焦げて投げ捨てられているのを見て、愕然とした。


 「雛。美奈」


 ゆっくりと立ち上がると、瓦礫に駆け寄り、それをどかしながらぽつりと呟く。何度も呟く。しかし帰ってくる声は無い。


 「雛!美奈!」


 ありったけの声で叫ぶ。だがその声は鳴りやまない轟音にかき消されるだけだった。

 居てもたってもいられなくなり、俺は焼け爛れつつある我が家の亡骸をひたすらに漁り続けた。

 鋭利な切り口を見せるガラス片や、肉食動物様な鋭い牙を見せる無数の釘が手をズタズタにしていく。

 必死で持ち上げるコンクリート片や木辺もまた、無慈悲に掌を食い荒らし、あっという間に手の皮をはぎ取ろうとする。その度に俺の赤い血肉が見えたが、それでもただ必死に瓦礫を取り除き続けた。


 しかし幾重にも折り重なった鉄骨や木材はとても一人では動かすことが出来ず、人一人入れるスペースすらも作れない。瓦礫を引きずり出そうとする度に、怒号とも悲鳴ともつかない声を張り上げ続けた。だが目の前に横たわる我が家の亡骸は答えない。


 どれくらいの時間がたったのだろうか。「もう、駄目だろうな」とおぞましい程に許し難く、短絡的で、しかしやけに冷静な声が脳裏に響く。いよいよ炎が瓦礫の過半を舐めつくしたところで、もうどうすることも出来なくなり、感傷的な気持ちも涙も浮かび上がらず、俺は立ち尽くすのみだった。


 その時、不意に後ろから何人かの怒声と荒々しい足音が聞こえ、そちらへ振り向く。そこには煤けた迷彩服を着た男たちが、黒光りする銃を携えて道路を駆けていた。

男たちとふと目が合うと、彼らは立ち止まり俺の方へと向き直る。すると先頭を走っていた男がおもむろに銃を構え、俺へにじり寄ってきた。険しい表情で怒鳴り声を上げている。


 「貴様!ここのエリアの住民か!」


 思わず、助けが来たのかと思った。乾いた唇を震えながら開き、今まさに助けを乞おうとしたの時、その希望は打ち砕かれた。


 「我々は東日本軍である!このエリアに住む者は即時拘束、抵抗する場合には射殺する許可が与えられている!黙って手を頭の後ろで組み、地面に伏せろ!」


 ――終わった。このエリアは西日本軍が管轄していたエリアで、俺たちはそこに属する住民だ。こいつらが俺の声を聞き入れてくれるとは到底思えない。

 だがそれでももしかしたら、と祈る様に声を振り絞った。


 「助けてくれ……!家族が、家族が瓦礫の下に埋められているんだ!助けてくれたら必ず指示に従う!だから頼む!」


 だが軍服に身を包んだ男は意にも介さず、空に向かってライフルを二、三発撃った。乾いた破裂音に思わず怯む。男は一層険しい顔をし、片頬をひくつかせながら俺を睨む。その眼には不穏な光が宿っていた。


 「何を言ってやがるクソ馬鹿野郎が!西の連中がどうなろうと俺らの知ったことじゃない!さんざん難民を東に送り付けておいて、いざ自分達が困ったら助けてくれだぁ?ふざけんじゃねえ!」


 口から飛沫を飛ばし怒鳴りつけると、男は俺の足を蹴りつける。まともに立つことも出来なくなっていた俺の足は、赤子の手をひねるよりも簡単に足払いされた。勢いよく地面に叩き付けられ、口の中に鉄臭い味が更に広がる。


 「頼む……頼む……」

 蚊の鳴くような声で祈る。だがその言葉はむしろ彼らの怒りを助長させるだけだった。

 男は空に向けていた銃口を、俺の頭へ殴りつける様に押し付ける。固く冷たい感触が嫌にはっきりと感じられた。

 むくむくと湧いてくる無力感と、怒り。家族を失うかもしれないという恐怖、悲哀。

 しかしそれらを代弁してくれるはずの俺の体は動力源を失い固まったままだった。 本当ならばこの場で立ち上がり、こいつらを殴りつけてやりたい。銃を奪い取ってこいつらを撃つなり脅すなりしてやりたい。何より、家族を助けたい。憎悪と憐憫を乞う気持ちが胸の中にぶちまけられていた。


「畜生……!」

 生傷だらけの頬に、絶え間なく湧き上がり零れ落ちる涙が染みる。だがその涙は、倒れ伏す俺にしか見えない。

 「面倒くせえ、とっととこいつを始末して移動するぞ!」

 頭に押し付けられた固い感触が更に強くなる。いよいよこいつは俺を殺す気だ。

 不意に、美奈と雛の顔がよぎった。声すらも聞こえた。幻覚にしては手に取れるほどリアルな情景だった。


 「……?貴様どこの――」


 固く目をつむり、死の間際に訪れた情景に逃避していたが、いっこうに幕切れとならない。

 それどころか、頭に押し付けられていた固い感触がふっと離れた。同時に聞こえてくる、男たちの怒鳴り声。しかしそれは俺ではなく、別の何かにぶつけられている。


「識別信号、不明!我々のMGでは無いようです!」

「まさか西の連中が派遣してきたのか……?止まれ!止まらない場合には即時発砲を――」

 そんなやり取りが聞こえてきたかと思うと、突然銃声が鳴り響いた。同時に男の悲痛な叫び声が響き渡る。


 「くそっ!発砲許可!正面のMGを排除しろ!」


 慌てふためいた号令と共に、無数の連続した銃声が鳴り響く。

 俺は恐る恐る伏せていた顔を上げた。

 目の前には銃を構え撃ち続ける男達。彼らの銃口の先には、一人の少女が右腕を突き出して構えていた。

 混乱と銃火と爆炎にまみれ、折り重なった小高い瓦礫に立つ少女。腰まである黒く長い髪、幼い表情と細い体。そしてそれらとは正反対の異形の四肢。


 「撃つよ」


 少女の白い肌に、何発か弾丸が食い込み、血をまき散らす。

 だが少女は僅かに表情を歪ませただけで、倒れることも悲鳴を上げることもなく、巨大なライフルと化した右腕を突き出し、そこから爆炎を何度も噴出させた。

 少女の右腕から炎が吹き上がる度に、男の悲鳴が一つ、また一つと折り重なり、代わりに連続して響いていた銃声が小さくなる。乾いた地面に鮮血がぱっと散らされ、染み込んでゆく。


 やがて銃声が途絶えると、少女は瓦礫から勢いよく飛び上がる。倒れ伏し、土くれと変わらぬ様になった男たちを飛び越えて見せたか思うと、一気に降下し、俺の元へと距離を詰めた。彼女は倒れている俺の頭の辺りまで来て歩みを止めると、右腕を突き出す。


 仰ぎ見た彼女の顔は、虚ろだが綺麗に整っていた。切れ長の赤い目とすっと通った鼻筋、凛として結ばれた唇。こんな状況であるにもかかわらず、彼女の美しさがやけにはっきりと目に映った。

 少女の体に穿たれていた無数の銃創は、初めから無かったかのように消え去っている。唯一、穴だらけになった血濡れの黒いベストだけが、彼女が撃たれたことを物語っていた。


 「モディファイ・ガール……」


 爆炎と悲鳴と、それに不釣り合いな位に突き抜けた青空を背に、彼女は俺を見下ろす。禍々しく反り返る、刀剣と化した左腕を地面に突き立て、彼女は俺の顔をまじまじと見つめる。


 今度こそ死ぬ時が来たのだ。

 だが、死を告げに来たのであろう彼女の顔を見ていると、妙な感情が胸の内に沸いてきた。それは憎悪や憐憫を乞う気持ちなどではなく、何か実直で澄んだ物だった。彼女の姿から目を離せなくなり、心臓がドクドクと強く脈打つ。


 「死ぬ前だからか……」


 死ぬ前に、そんな気持ちに浸るのも悪くない。どうせ死ぬのなら、胸の内くらいは清々しくありたい。そう思った。

 だが彼女は俺の顔を見つめていると、急に右腕を降ろし、口を開いた。


 「あなたは……誰?」


 無表情だった少女は、少し意外そうな顔をして見せた。

 予想だにしない言葉に驚く。これから殺す相手の事を知って一体どうしようというのか。皆目見当がつかなかった。


 「あなたを見ていると思考パターンがフリーズする。変な感じ。よく分からないんだけど。どうして?」


 少女はしゃがむと、両目を何度もぱちくりとさせながら顔を近づける。彼女の白い肌には血に濡れた跡とそれを覆い隠すように泥や砂が張り付いていた。

 「はは……殺されるってのに……。奇遇だな、俺もさ……」


 別にまともな会話が出来ると思って返したわけではない。ただ、何気なく軽口を叩いてから殺されようと思っただけだ。


 「作戦司令部と通信……データリンク消失。……あ、部隊はもう無いんだった。それじゃあ独断での作戦行動プロトコル起動。民間人保護に移行」

 「え……?」


 今彼女は何と言ったのか?民間人保護?独断で?

 言葉の意味は分かるが、何故今それをするのか全く分からなかった。


 少女は左腕の刀剣を、まるで手品でもして見せるかのように二の腕へと折りたたんでしまいこむ。代わりにメスや注射器を纏う、小さな銀色の指が三本付いたマニュピレーターを出して見せる。そしてその腕で俺の首根っこを掴むと、軽々と体を持ち上げて自らの肩に乗せた。


 「お、おい、どこに連れていくつもりなんだ!」

 息も絶え絶えになっていた上に、急に持ち上げられたものだから胸が圧迫されて苦しい。持ち上がった体からは、血がぽたぽたと流れ出て、少女の白い体を伝って地面に落ちた。


 「安全な所だよ。この場所じゃ落ち着いて状況把握出来ないからね」

 そう言うと彼女は、歩き出す。背の低い彼女に担がれた俺は、つま先が地面に引きずられる形で運ばれていった。


 「おい、ちょっと待ってくれ!おい!」

 「NG。戦闘区域で立ち止まると、撃たれる可能性が高い。そんな危険な真似は出来ないよ」

 「そうじゃないんだ!俺の……俺の家族が家の下敷きに!」


 思わず大声で叫んだ。胸の辺りがズキズキと痛む。骨折でもしたのか定かではないが、構わず叫ぶ。

 少女は潰れた家の瓦礫へと向き直る。瓦礫の山はいつの間にか炎にまかれ、すっかり覆いつくされていた。


 「ごめん。あれじゃあ手の出しようがないよ」


 無機質に彼女は呟く。踵を返すと、我が家の敷地から出て、町から出る道を歩き出した。


 途端に感情が爆発し、俺は滅茶苦茶に手足を振り回そうとした。だが、傷つき気力の行き渡らない手足は、まるで動かない。

 「ふざけるな!止めてくれ!待て、待ってくれ!家族がいるんだよ!」

 「防火対策をしていないアタシには、あの災に対する手段がない。あなただって、そうでしょう」

 「そうじゃねえ!見捨てられるか!助けなきゃいけないんだ!くそ、降ろせ!降ろせよ畜生!」

 「降ろしたとして、あなたは火の中に飛び込んで死ぬつもり?それとも何も出来ないまま火が消えるのを待つ?どっちにしても最適な判断じゃ無いよ」


 彼女は淡々と諭した。だが俺の耳にその言葉は届かない。

 溢れ出る涙で顔をぐちゃぐちゃに濡らし、喚き続ける。どうにもならないと知りながら。だがそうせずには居られなかった。

 「あぁっ!うあぁぁぁぁぁっ!美奈!雛!降ろせ、降ろせよぉぉぉっ!」


 子供の様に泣きじゃくった。だが俺を運ぶ少女は最早何も言わず、黙々と街から出る道を歩き続ける。少女の頭越しに見る我が家がどんどん小さくなってゆく。だがそれに反比例するかのように、燃え上がる火は大きくなってゆく。


 やがて町から出ようとしたその時、丁度我が家のある場所に大きな黒い塊が落下したかと思うと、もう一度瓦礫と砂埃とを巻き上げて爆発した。我が家の上で燃え盛る火炎は、一際大きな火柱を吹きあげ絶命すると、それっきり姿を見せなくなった。


 その光景を見た途端、俺の混乱していた感情は波を引いたかのように水平線を描く。あれほど流れ出ていた涙も途端にせき止められた。力の抜けた四肢がだらりとぶら下がる。頭もまたそれにならい、がっくりと落ちた。


 少女は一言も喋らずに歩き続ける。

 容赦なく降り注ぐ陽光が肌をジリジリと焼く。手や腕に滴っていた血はすっかり乾き、張り付いていた。


 どれ程歩いたのだろうか。銃声や轟音が聞こえなくなってきた頃、彼女は俺をそっと降ろして座らせた。そこは崩れかけたビルの合間で、高いビルの影が丁度俺たちを日光からさえぎっていた。

 降ろされた俺はただぼんやりと空を見上げる。道路脇に立つ壊れた看板が目に映った。「東京湾まであと」とだけ書かれて、残りはどこかへ消え去っている。それを見て、はじめて自分が東京の近くまで来ているのだと知った。


 「本当に……これは現実なのか――」


 力なくつぶやき、両手を見つめる。ずたずたになった手のひらのあちこちから血がにじみ出ており、泥だらけになっている。瓦礫をどけようとして出来た傷だ。

 傷だらけの手で頭を抱えてみると、傷に髪の毛が刺さり痛みが走る。


 「嘘なんじゃ、ないのか」


 だが誰も答えてはくれない。代わりに、はるか向こう側に見えた爆炎と立ち上る無数の黒煙が、紛うことなき現実であることを教えてくれた。

 もはやあれこれ考える余力もない。

 圧倒的な質量で押し寄せた戦争と言う現実が、俺の体と心から何もかもをもぎ取っていった。今はただ、疲れた。そればかりである。


 ゆっくりと横になり、眠ろうとする。固い地面など最早気にならない。意識がまどろみの中に溶け込む寸前に見えたのは、少女がコンクリートの塊に腰かけ、空を眺めている後ろ姿だった。




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