第2話 Remember

 それは酷い夏だった。

 雨はまともに降らず、乾いた風のみが吹き荒れる。時折、遠くの空には鉛色の雲が立ち込めるものの、ついぞそれがやってきて雨をもたらしたことなど見たこともない。ましてや、雲が太陽を遮ることもほとんど無く、忌々しい位に青空が広がっていた。


 俺――九重栄一郎は、そんなうだる様な暑さの中、しがない会社勤めを終えて帰路に着いていた。

 何時潰れてもおかしくない、廃墟サルベージ専門会社。ただでさえ日本内戦の影響で治安が悪化しているっていうのに、何故わざわざ廃墟に赴いて危険な思いをしなければならないのか。

 いつかは辞めてやろうと、何度も思った。少なくとも、家族を養う蓄えが出来るまでは。


 近頃は東日本側の連中がこの辺りの奪還を目論んでいて、大規模攻勢を仕掛ける準備をしているらしい、なんてニュースも聞く。もしそれが真実ならば、俺も、俺の一家も新しい居住地を求めて移動しなければならないだろう。


 今ではすっかり舗装する者も居なくなったメインストリートを歩く。

 路面のひび割れには、左右に乱立する雑居ビルや掘立小屋の影と、そこから流れ出る排水が際限なく吸い込まれていた。

 時折道端に立つみすぼらしい雑貨商人の群れが、馬鹿げた値段でクズ同然の靴や衣服を売りつけてくるが、そんなものには目もくれずに家へと向かう。


 萎びた繁華街を抜けると、壁面がすっかり色あせて所々が剥がれ掛けている一軒家が目に入る。

 屋根や門は、昔起きた繁華街での抗争の流れ弾で所々が欠けており、窓ガラスにもヒビが入っている。だが小規模な庭だけは、そんなオンボロ一軒家に似つかわしくない位、小奇麗に整備されており、小さなスズランを植え付けてある。

 荒れ果てた町のはずれに佇むこの一軒家こそが、我が家だ。


 「ただいま。帰って来たぞ」

 「あ、お帰りなさい、お父さん!」


 俺はすっかりくたびれたコートを玄関に無造作に投げると、靴を脱ごうと屈んだ。そこへ娘の雛(ひな)がじゃれついて飛び掛かってきた。

 「うおっ!?雛!重いからどきなさい雛!」

 「えっへっへー。乙女に重いとか言ったらいかんのだよ!お父さん!」

 可愛らしい鈴の様な声をわざと野太くしながら、首元に圧し掛かってきた。雛の細く日に焼けた腕が、俺の首元を柔らかく締め付ける。


 小学校を卒業し、すっかり大人に近づいたように見える愛娘であるが、まだ父親に甘えたがっている様子だ。

 雛の可愛らしい頬が俺の不精髭の生えた頬に擦れるたび、彼女はキャッキャッと喜ぶ。肩口まで伸ばしたツインテールは時折俺の顔をくすぐり、それが何ともこそばゆい。

 このご時世だ、こうやって娘と仲良くやっている俺はとても幸せなのかもしれない。何より、娘が今この瞬間、幸せそうなのだ。これ以上望むことが何かあろうか。


 「いやでもっ、ちょ、待って!重い!首取れる!折れる!お父さん死んじゃう!」

 「そうよ、雛。お父さんお仕事から帰ってきて疲れているんだから。休ませてあげなさい」


 廊下からもう一人の声が凛と通った。じゃれつく雛越しにそちらを見やると、妻の美奈(みな)の姿が。長い髪を結いあげ、紺色のワンピースと無地のエプロンに袖を通している。彼女の白い肌にはうっすらと珠の様な汗が浮かんでいた。


 「はーい。お父さん、今日のごはんは私とお母さんで作ったんだからね!」

 雛はそういうと俺の首からぱっと離れ、けらけらと楽しそうに笑いながら台所へと駆けて行った。娘の重みから解放された首がやけに軽い。もう少し、じゃれ合っていても良かったのにな、とも思う。


 「お帰りなさい、栄一郎さん。お仕事疲れたでしょう」

 「大丈夫さ、ありがとう。でも今日は早く帰れたから良かったよ。晩御飯は?」

 「雛が学校で教えてもらった美味しいカレーの作り方を披露したいって言ったからカレーよ。あら、栄一郎さんのほっぺたに……」


 そう言うなり美奈は透き通るような白い肌で俺の右頬に手を添えた。

 急に顔に触れられたものだから、心臓がびくりと跳ね上がる。彼女の手のひらからは、かすかに石鹸の香りが漂った。美奈は目を細め、俺の目を見つめる。彼女の赤い瞳に、不安げな光が浮かんでいた。


 「あ、ああこれ?多分、今日の仕事中に転んだ時に出来たんじゃないかな」

 右頬に走った赤い線状の疵痕を彼女の指がゆっくりとなぞる。柔らかな指の腹が疵痕をなぞる度、わずかな痛みと気恥ずかしさが俺の頬をあっという間に熱くしていった。

 「そうなんですか……。廃墟でのサルベージって、危険なんでしょう?あんまり無理をなさらないで下さいね」

 「うん、気を付けるよ。それにしてもカレーか、良いね。肉は入っているの?」


 余りにもドキドキしたものだから、美奈の手を軽く握って降ろしてやった。気を紛らわせようと他愛もない質問をしたが、美奈はため息をつきながら小さくかぶりを振る。


 「まだ肉は手に入らないんです。そうそう配給されるものでもありませんし、市場に行ってもなかなか手を出せなくて」

 「そうか。でも、二人が作ったカレーなら何だって美味しいよ。さ、ご飯にしよう」


 しおらしくしている美奈の背中を軽く押してやり、俺は台所へと向かった。

 そりゃあカレーに肉が入ってないなんてのは、俺がガキの頃には考えられなかった。しかし今は貧困と戦争の時代なんだ、贅沢は言っていられない。

 何より、家族とともに暮らし、生きる糧にありつけているだけでも俺は相当恵まれている。これ以上の生活は望むべくもない。


 ダイニングテーブルには、雛が鼻歌交じりで並べたカレー皿やスプーンが置かれていた。俺の何時も座る指定席には、欠けたコップに少しばかりの日本酒が注がれている。

 「このお酒も、残り僅かなんだなぁ」


 椅子に着くや否や、コップをしげしげと見つめるとそんな感想が出てきた。美奈と雛の席には、同じように欠けたコップに水が僅かばかり注がれている。


 「水だって少なくなっているんだよ、お父さん。それなのにカレーだなんて!なんて素敵なんでしょう!」

 「ホントに素敵だな。父さん、久しぶりのカレーだからワクワクしちゃうぞ!……ところで雛、お前今日はやけに機嫌が良いけど、何かいいことでもあったのか?彼氏でも出来たのか?」

 俺は親指を立てながら雛に見せつける。雛は鋭い目つきで指を左右に振ると、分かってないなぁ、と呟いた。


 「私ね、ソフトボールのレギュラーに選ばれたのよ。運動神経が良いからね!しかも一年生で私だけ!えっへっへー、すごいでしょう!日ごろの運動の賜物だね!」


 雛はそう誇らしげに胸を張ると、リビングの開けた場所で側転を披露して見せる。彼女のさらさらとしたツインテールが、軽やかな音を立てて小奇麗に磨かれた床に擦れた。

 「ほう、凄いじゃないか!てっきり父さん、男でも出来たかと思ってドギマギしちゃったぞ」

 「それは大丈夫よ、お父さん。雛ったら今は色気より食い気なんだから。食べるのと動くのが大好きで仕方ないから、色恋沙汰は二の次よ」

 美奈がくすくす笑うと、雛は頬を膨らませた。妻と娘のやり取りが何とも愛おしい。

 「私だって、その気になれば男なんてちぎっては投げちぎっては投げって位出来ますしー!お母さんよりたくさんモテるようになりますしー!」

 「あら、私はそんなにモテなくても、ちゃんとお互いを大事に思える素敵な人が出来れば十分なのよ?お父さんとお母さんみたいな……ね?」


 そういうや否や、美奈が悪戯っぽく俺の方に視線を移す。思わず、その一言になぜか緊張してしまった。長い付き合いだが、未だに妻のこういうセリフが自然と出る所に俺は弱い。そんな様子を見て、雛が茶化すように笑った。


 「あーあ、また二人でいちゃついてやんのー。ま、私も二人がびっくりするくらい、いい男捕まえてセレブな生活送るもんね!」

 「うふふ、それもいいわね、雛。でも、女としての矜持を忘れちゃだめよ?頼ってばっかり、甘えてばっかりは嫌われちゃうわよ。……さ、冷めちゃう前にご飯食べましょう」


 美奈が促すと、俺たちは手を合わせ、「いただきます」と声をそろえた。久しぶりのカレーだ、やはり楽しみである。

 ぐるぐると唸り声を上げる胃袋をなだめすかしながら、スプーンに盛れる分だけ盛り、一口放り込む。……うん、うまい。程よく炒められた玉ねぎがしっとり甘く、辛い中でもいい風味を醸し出している。人参もジャガイモも、スプーンが刺さるくらいほろほろに煮込まれていて、口の中で蕩けるようだ。

 肉の代わりに入れられているこんにゃくも、これはこれで面白い。ぷるぷる弾ける感じが、カレーとは不釣り合いなのにどこか良い感じだ。……そういや、内戦が始まる前は、お袋が作ったカレーにはこんにゃくが入っていたっけなぁ。


 そんなノスタルジーに触れていると、ふと疑問が湧いてきた。


 「そういや雛、学校でカレーの作り方を教えてくれたんだって?なかなかめったに食べられないけど、随分豪華なものを教えてくれるんだな、今の学校は」

 「うん、それがねー。『古き良き文化』に触れて、伝統を引き継ぎましょう、って事で習ったんだ。私だって、カレーなんて今までの人生で数えるくらいしか食べたことないしね。誕生日とかクリスマス位かな?だからもう一回食べてみたかったんだ」

 「そうだったのか。でも、カレー粉とかルーなんて、相当高いんじゃないのか?」

 「そんな無粋なことを言わないでくださいな。大丈夫、ちゃんと備蓄してあったものを使っていますし、節約しているからまた買い直せますよ」

 「ねー、お母さん。私たちだって家にいるときはちゃんと節約したり、市場でお手伝いしてお金溜めたりしているんだから」

 「なんだかすまんなぁ。俺ももっとしっかり稼ぐからさ」


 雛はどこで覚えてきたのか「何言ってんのよおとっつぁん」と、古めかしい昔の映画の様な言葉遣いで笑う。

 「今日はめったに食べられないカレーの日なんだからさ、たまにはテレビ見ながらご飯食べてもいい?」

 カレーを頬張っていた雛が、水を飲み乾した後に興奮したように問い掛けてきた。カレーが辛いのだろう、すっかり顔を赤くしている。


 「いいぞ」

 「やったあ!ねぇ、良いよねお母さん?」

 「そうね。たまには許してあげるわ」

 「やった!」


 そう言うが早いか、雛はリモコンを付けて小さな液晶テレビに食いつく。

 画面にはニュース番組が映し出され、辛気臭い顔をした男のアナウンサーが原稿を読み上げていた。電波の受信状況が悪いのか、時折画面が歪み、不可思議な横線が入って画面が乱れる。


 『日々情勢が変わりつつある日本内戦ですが、今回入った情報によりますと東日本連合が首都東京、及び西日本連合が実効支配する近辺エリア奪還を掲げた作戦行動を継続しているとのことです。この作戦には、東京湾から採掘されるネクロメタルの確保も視野に入れた……』


 不穏なキーワードが並べられる。廃棄都市東京。今では異常なヒートアイランド現象と過度な開発ですっかり港が干上がり、東京都内は人が立ち入れる状態ではなくなっていた。とても人が住める場所ではない。


 「東京ってすごく暑いところなんでしょ?何でそんなところを欲しがる人がいるの?」

 「そうだなぁ。あそこは二十前に海がすっかり無くなっちゃったんだ。昔、東京湾っていう所は埋め立てられた場所だったんだけど、海がなくなった後、そこから貴重な資源が取れるようになったんだ。ネクロメタルっていう奴。それを欲しがってずっと東京の奪い合いをしているんだってさ」

 「ネクロメタル?学校の理科の時間で習ったかも。色んな形に変形して、しかも壊れても元通りになる金属だっけ?」

 「そうそう。だから戦争するときに強い武器を作るのに最適なんだよ。それ以外にも、エネルギーを無尽蔵に蓄えるバッテリーの材料にもなる。皆欲しがるわけだ」

 「そうなんだ。んじゃ、もう一つ質問だけど、どうして同じ日本人で争わないといけないの?平等にすればいいのに」

 「そこが難しいところなんだよ。雛が生まれる前の東京は日本の中心で、色んな物事の決定権が東京にあったんだ。東京あってこそ、日本の平和が保たれているようなもんだったんだよ。でも異常気象で東京が壊滅しちゃって、国のバランスが保てなくなった……。当然、好き勝手やる様な人や悪巧みをする人が出ても、それを阻止する人が少なくなっちゃったんだ」

 「へえー。確かに言われれば、社会かなんかで勉強した気がする」

 「雛ったら。学校で勉強しているのを忘れちゃったのかしら?」


 美奈がわざとらしく困った顔をしながら雛の方を見つめながら、コップに口を付ける。桜色の薄い唇が、水気で艶めかしく潤った。


 「お母さんもね、昔は関西の方に住んでいたんだけど、学者さんになってから東京に住んでいたのよ。今では廃棄都市東京なんて言われて、大きな壁に囲まれているけど。もう昔住んでいた所に戻れないって思うと、何だか寂しくなるのよね。でも、今はこうして新しい家に住んで家族と暮らしているから、十分楽しい生活なんだけど」

 「お母さん、東京に住んでいたんだ。しかも学者さんって!頭良かったんだね。どんな学者さんだったの?」

 「んーと……将来を担う子供たちの教育をしていた、って所かしらね。お母さん、勉強を教えるの上手かったから先生みたいなことをしてたの」

 「へえー。ねえ、東京ってどんな感じだったの?」

 「そうねぇ、いつも賑やかで皆が笑顔と自信に溢れている……町には目新しい物がたくさんあって、遊ぶところもあっていつも活気付いていて、それでいて誰もが助け合って暮らしている街だったわ」


 そう笑いながら想い出を語る美奈の瞳は、どこか暗く悲しい光を湛えていた。

 俺自身は東京に住んだことがないから、彼女の見てきたものを知らない。知る由もない。

 ただ東京について分かるのは、廃棄された人の住めない灼熱地獄である、ということ位だ。それ故に美奈と同じ物を見て、同じ思いを共有出来ないことが何とも心苦しかった。

 少し悲しげな表情をしている美奈を見て、思いついたように雛はとびっきり明るい笑顔で美奈に呼びかける。


 「じゃあさ、いつか東京が安全になったら、皆でお母さんの住んでいた場所に行ってみようよ!家族旅行ってことでさ。どうかな?」

 「ああ、良いぞ。お父さんもお母さんの家に行ってみたいしな。……何より、お母さんのお母さんとお父さん、つまり雛のおじいちゃんとおばあちゃんにもちゃんと挨拶をしないとな」

 「そうねえ……。父さんも母さんも、会ったらきっと栄一郎さんのことを好きになってくれるはずよ」


 出来れば両親とも生きているうちに会わせてあげたかったなぁ、と美奈は苦笑いをすると、コップに残っていた水を飲み乾した。

 何気なくテレビの方に目をやると、東京を奪還する作戦がどうのこうのというニュースがまだ続いていた。カレーを口に運びつつ画面を見つめていると、アナウンサーの顔が一層険しくなる。


『この東日本側の軍事行動には、モディファイ・ガール、通称MGが暫時戦線に投入されるとのことで、西日本陣営からは非難の声が上がると共に、東日本陣営への抗議活動を市民に呼びかける声が大きくなっています。今回の作戦に投入されるMGは、東日本陣営内でここ数年行われている、難民削減の一環として製造された物とのことです。この政策の背景には、東日本側への難民押しつけ問題があると見られ……』


 アナウンサーがそう原稿を読み上げる途中で画面は切り替わり、荒野に佇む複数の少女が映し出された。誰もが虚ろな表情をしており、泥や埃で人形の様に愛らしい顔を汚している。血が体中にこびり付いている少女もいる。

 だがそれ以上に目を引くのは、彼女らの異様な姿形だった。両腕を銃器や鋭利な刃に換装され、人ならざる姿になっている。彼女らの異様な四肢は、そのどれもが血の通った人の肌の色ではなく、鉛色の鈍い光を放っていた。


 「お父さん、これって」

 「あー、雛。食事中にあんまり見るもんじゃあないな」

テーブルの上に置かれていたリモコンを引っ手繰ると、すぐにチャンネルを回す。何年も前に放送された古いバラエティ番組に切り替えると俺はリモコンを膝の上に置いた。

 「私、今のは覚えているよ。MGでしょ。学校で習ったもん」

 「そうか、今は学校でこういうことも教えているんだな」

 「うん。日本内戦の歴史で勉強した。増えた難民孤児を減らすのと、強い兵器をすぐに作るためにあんな酷いことをしたんだよね?」

 「……ああ、その通りだ。」

 俺は言葉少なげに肯定する。


 雛の答えたとおりだ。

 MGとは異常気象で日本中が混乱し、略奪や内戦の最中で増えた難民孤児を削減し、即席の兵器に作り変えた狂気の産物。

 幼い少女は同年代の少年よりも体の作りが早く完成すること、そして何より、女性の感受性が男性以上に強いことが人格調整のための洗脳が容易になるとされ、そのおぞましい計画の餌食となったのだ。

 そして彼女らの体には再生医学を駆使したネクロメタルが使われている。詳しい理屈を聞いたわけではないが、それが彼女らを強大な力を持つ兵器に変貌させているらしい。


 「私、どうしてあんな酷いことをする必要があったのか分かんないよ。考えたって仕方のないことなんだろうけど……」


 自分とそう年の変わらぬであろう少女がおぞましい姿形になっていることに、雛はすっかり気が滅入っていた。花の様に明るい笑顔は、しおれてうなだれた表情に変わっている。

 雛の至極当然な質問に俺は何とか答えようとしたものの、どうにも言葉が喉で詰まって何も出てこなかった。


 そんな俺を見て、美奈はにっこり笑うと雛に優しく言葉を掛ける。

 「雛、考えたって仕方がない、なんてことはないのよ。少なくともあなたはつらい目にあっている彼女らのことを真剣に思っているのでしょう?それならば、その思いを大切にすること。あなたみたいな世代こそが、未来を変えていくの。そのためには、今の気持ちと、疑問に思う心を忘れないことが大切なのよ」

 「そう……そうなのかな」

 「ええ、きっとそうよ」

 「でもお母さんたちの世代だってそう言われてきたんじゃないの?未来を変えるのは君たちの世代だって」

 「確かに小さいころに言われたわ。当然、その言葉を信じて未来を変えようとした人も沢山いたの。でも、お母さんたちの世代だけが頑張ってもダメ、って雛と同じ年になった頃に気が付いたのね。これからの世代もその心を受け継いで、やがて全ての世代が未来を変えるべく動くようにしていかないと、って」

 「そうなんだ……」

 雛は何度も口の中で「未来を変えるのは私たちの世代なのかな」と繰り返している。


 「だからお母さんは、雛が正しく強い子でいられるように、お母さんも頑張らないと、って思っているの。もちろん、お父さんも同じはずよ」

そういうと美奈は俺にウィンクしてきた。俺は少しはにかみながら雛を見やる。

「ああ、そうだ。お前がそうやって信じる道を進んで、幸せに生きられるようになれるなら、父さんなんだって頑張っちゃうぞ」


 煤けたワイシャツの腕をまくり、目一杯力こぶを作って見せた。

 そんな俺の様子を見て、雛は「お父さん、思ったよりすごく筋肉あるんだね」っと顔をほころばせる。父親として、娘に褒められるのはこの上ない幸せである。思わず筋肉を何度も収縮させて笑いをとってみようとしたものの、流石に筋肉痛が響いて情けない声を出して腕を降ろしてしまった。


 「お父さんったら。さあ、食べ終わったことだしお皿を片付けましょう。雛、お皿洗いを手伝ってくれるかしら」

 「イエッサー!喜んで手伝わせていただきます、お母様!」


 すっかり明るくなった雛は、ピシッと敬礼を決めるとテーブルの上のカレー皿を手早く重ねて流し台へと持って行った。美奈もまた、空いたコップとスプーンを持ち、流し台に雛と並んで立つ。二人が洗い物をしている後姿を見つめながら、俺はコップの中の残った酒を全て口に含んだ。


 もはや中身は無いにも等しかったが、僅かな一滴でも今や貴重な酒である。愛おしむ様に味わっていると飲み込むのが名残惜しくなったが、二人が「早くしないとお父さんがそれ洗うんだよ」と急かすものだから慌てて飲み干した。

もともと大した量ではないからだろう、酔っぱらった気にはこれっぽっちもならなかった。


 空になったコップを流し台に立つ二人の脇からそっと差し出す。雛の泡だらけの手がコップを受け取ったかと思うと、突然親指と中指で輪っかを作り、ふぅっと息を吹きかけてきた。たちまち虹色のシャボン玉が俺の顔に覆いかぶさり、すぐに可愛らしい破裂音と共に掻き消えた。


 「こらっ!雛!突然そんなことをしたらびっくりするだろう!」

 「えへへ、つい悪戯したくなって」

 ペロッと舌を出して、小気味よさそうに雛が笑う。

 「早めの晩御飯も食べ終えたことだし、腹ごなしにちょっと庭の草むしりでもしてくるよ」

 「あら、飲んだのに大丈夫?怪我なんかしないで下さいね?」

 「大丈夫だって、そんなに飲んだわけじゃないしさ」

 「雛、残りのお皿洗いはお母さんがやっておくから、お父さんのお手伝いをしてきて頂戴」

 「はーい、行ってきまーす」


 手にふわりと纏わりつく洗剤を洗い流すと、またもや雛は俺の背中に飛び掛かってきた。しかし今度は、引き倒されぬよう全身に力を込めてがっしりと立って見せる。

 「うわ、お父さんすごーい!パワフルなんだねー」

 「そりゃそうだ!お父さん、何だかんだ言って仕事で鍛えてるからな!」

 背中に引っ付いた雛を背負うようにしながら玄関へと向かう。玄関口で泥だらけの長靴を二人分取り出し、雛に手渡そうとする。

 だがすでに雛は、スニーカーに履き替えるなり何度か側転を繰り出しながら庭に飛び出していた。


 「雛、お前凄いなぁ。ちょっと前まで、運動できないから強化手術をいつか受けてやるって言ってた位なのに。やっぱり、母さんの娘なんだな」

 「どういうこと?」

 「母さんもな、昔はすごく運動大好きな子供だったらしい。色んな大会に出て良い記録を出して、学校の代表選手になって全国大会にも出たとか。今のお前を見てると、それが良く分かるよ。父さんはからっきし運動苦手だったからなあ」

 「お父さん、私だって結構努力してるんだよ!そりゃあ、前までは手術で筋力強化するのが夢だったけど、家にはお金ないし……。何より、自分の力で行けるところまで行って見せよう、って思ったんだ」

 「立派になったな、お前は」

 花壇の雑草を引き抜きながら、俺は呟いた。


 雛は昔、内気な子だった。別段、体が虚弱だった訳ではない。

 ただ少しばかり引っ込み思案で、家にこもって本を読んだり絵を描いたりするのが好きな子であった。

 もちろん、こんな荒れ果てた時代だからこそ、家にいて親の目の届く所に居てくれることは安心出来たのだが、元気に遊びまわる周りの子を見ていつも羨ましそうな眼をする雛に同情することも多々あった。


 だが、俺の稼ぎが貧相な故に、新しいスポーツシューズを買ってやることも中々出来なかったし、今の子供たちの間で流行の身体強化手術を受けさせてやることも出来なかった。

 その為に学校では体育の時間で周りの子に負けてばかりで周りからからかわれていた、なんてこともあったらしい。その度に、雛に辛い思いをさせていたと思うと心苦しくなる。


 だが貧乏な家庭に生まれても、それに負けることなく雛はいつしか自分から外の世界に飛び出していくようになった。朝から飛び出て夕方には泥だらけの笑顔を見せて帰ってくるようにすらなっていた。

 娘は俺の知らぬ所で、成長していたのだ。


 「立派なのはお父さんの方だよ」

 ひとしきり気が済むまで側転を続けていた雛は、最後に綺麗な円を描いてバク転をする。


 「私やお母さんが無事にご飯を食べられているのも、こうやって一緒に庭仕事が出来るのも、お父さんが家を守ってくれているからだよ」

 「そうか、お父さんは……立派か」

 「うん。だからお父さん。ありがとうね、いつも」

 俺の隣で雛はしゃがみこむと、気恥ずかしそうに草をむしる。その気持ちが、俺の胸中を温かく満たす。


 雛の新雪の如き白い肌は、いつからか健康的な小麦色に変わっていた。それに伴い、雛は笑顔でいることが多くなり、自然と我が家は笑みで溢れる様になっていった。雛は、我が家の太陽であった。

 「雛こそありがとうな」

 「うん?どうしたのさ、お父さん」

 「いやなに、お前が元気で笑顔でいてくれるからさ、父さんも母さんも頑張れるんだ」


 小声でそう言うと、俺はすぐに雛から離れた花壇の方へと体を向けた。自分の娘とはいえ、いざ感謝の言葉を口にして見るとこれが中々恥ずかしい。

 ちらりと肩越しに雛の顔を見ると、にっこりと満面の笑みを浮かべている。


 それから二人で他愛の無い会話を交わしながら、花壇に生えていた雑草をあらかた片づけた。

 西日が地平線の彼方に沈みかけた頃に草取りを切り上げ、雛に家に入るよう促す。屈んでいた体を起こし、強く体を伸ばす。深呼吸をしながら空を見上げると、夕暮れの空は赤と紫色に鮮やかに染められ、雲は鈍い銀の光を照らし返していた。


 今日も一日が終る。平和な、安穏とした日常が。

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