第4話
巨大なカバは、ちょうど大口を開けて滝の水をがぶがぶと飲んでいるところだった。相変わらずの間抜け面だ。俺の失禁を馬鹿にしている顔である。
カバはまだ俺たちには気付いていない様子だ。何を考えているのかよくわからないが、こちらの存在・行動を知られるのは作戦の成功率を下げることになるだろう。俺は物音を立てないように大筒を構えた。確かな重みに胸の高鳴りを覚える。ようやく、俺はあのファッキンカバを殺せるのだ。
――と、そこでふと俺は、どうやって導火線に着火しようかと思い至った。大筒を抱えるのに必死で両手が使えない。一度、体制を変えるか? いや、それはあまりにも危険すぎるだろう。導火線に着火して筒を担ぎ直している間に発射されてしまったら、ここまでの準備が全てパーだ。だとすれば方法は一つしかない。小声で蓮華に言う。
「蓮華。俺のリュックからライターを出せ。外側のポケットに入っている。そしてそれで着火しろ」
「ええー……やだよお……自分でやってよお……ライターとかよくわかんないよお……」
「俺の両手が塞がっているのは見ればわかるだろう。自分ではできない。仕方ないからお前に頼んでいる。本当だったら自分でやりたいのに、嫌々お前に頼み込んでるんだ。こっちがこれだけ折れてるんだからお前も少しは我慢しろ」
「えっ……。ご、ごめんなさい……うん、やるね……」
将来はこいつ詐欺まがいの壺を買わされて泣いているだろうな。
蓮華は俺の背後でごそごそとやった後に前方へと回る。筒の先から垂れた導火線を手に取り、もう片方の手でライターを握りしめた。
「じゃあ、いくよ」
「点火したらすぐにどけよ。お前に当たったら大事だ」
「城戸くんやさしい……」
「お前に当たるってことはカバを殺せなくなるってことだからな。いいから早くやれ」
俺が言うと、蓮華はカチッとライターに火を付け、すぐさま導火線の先へ移す。手慣れている。導火線の真ん中辺りまで火が進む頃には、蓮華は完全に俺の後ろへ回っていた。
などと考えている間に、発射まで残り僅か。
よーく狙いを済ませて。
3、2、1、
「死ねカバぁっ!」
「ひゃああっ!」
文字通りの爆音。あまりの衝撃に俺はその場に倒れ込んでしまった。急ぎ起き上がってカバの方へ目をやると、おぼろげながら宙へ綺麗な花が咲いたのがわかった。打ち上げ成功である。感動した。感動はしたが、カバの体皮には傷一つ付いていない。
「馬鹿な……奴は不死身か……」
『不死身やあらへん。花火一つでわしが怪我するゆうて本気で思とるならそらめでたいわ』
ん?
「蓮華。突然の関西弁だな。イメチェンを図ったか。似合わんぞ」
「違うよお……蓮華じゃないよお……」
『夫婦漫才はやめーや。わしやわし。坊ちゃんでも嬢ちゃんでもないんなら、ここにおるんは他にわしだけやろ。ナメオカマスやがな』
ナメオカマス……確かそれは、俺の標的であるカバの正式名称だったはず。
カバへ目をやる。カバはじっと黒目でこちらを見つめている。眠たげに目を細くし、大きな口でにやりと笑う。
つまり、どうやら、これは、
「カバガシャベッタァァァァァァァアアアアッ!」
蓮華うるせえ。
「おい貴様。いま貴様が喋ったのか」
『せや。びっくり仰天やで。いきなり花火打ち込んでくれてのお、わしのザラザラボディに傷がついたらどないしてくれんねん』
「なぜエセ関西弁なのだ」
『あれや。滑丘町の町長がおんなじエセ関西弁やんか。それがうつったんやな』
「口を開けていないようだが、どこから声を出している」
『俗にいうテレパシーいう奴やな。坊ちゃんらの脳へ直接言葉を叩き込んでんのよ』
「なぜ俺たちへ話しかけた」
『そらいきなり花火かまされたら事情くらい聞きとうなるやろ。しかしあれやで。テレパシー飛ばすにも相性があってな。実際のとこ意思疎通のとれん人間がほとんどなんやで。坊ちゃんらは運がええな。もうけたでこれ』
「じゃあお前を殺すにはどうしたらいい」
『え……なんやそれ答えるわけあらへんがな……こわ……この子こわいわー……』
「だが殺す」
『お、おほぉ……頑なやな……。まぁ人間にわしを殺せるとは思えへんけど、ひとまず事情をきこか。どないしたん? わしなんかした?』
カバはため池で窮屈そうに身をよじる。なんらかのジェスチャーなのだろうが、正直よくわからない。ただただ気持ち悪い。
「貴様、俺の顔を忘れたのか。初めてこの町でお前を見つけたのは、俺たちだぞ」
『覚えとるがなそれぐらい。おっちゃん舐めたらあかんで』
「だったらこれも覚えているか。その時に俺は貴様の汗を飲んで失禁した。あの場には俺の好いた相手もいたのだ。とんだ屈辱だぞ。だから殺す。貴様を」
『…………ん? え? それだけ?』
「どうした、不服か」
『なんなんこの子……サイコパスやがな……』
いやカバだけだ。殺すのは。サイコパスじゃない。
『しっかし、ほならええやろ。そこの嬢ちゃんもおんなじなんやから。仲良しこよしや』
「どういう意味だ」
「……え、あ、じょ、嬢ちゃんって、蓮華のこと?」
手頃な岩に腰掛けてポッキーをかじっていた蓮華が、突然に話を振られてうろたえる。くつろぎすぎだろお前。
『せや。蓮華ちゃん言うんやな。蓮華ちゃん、坊ちゃんだけやなくて、君も漏らしとったやろ?』
「ひきぃっ!」
「……なんだと? 俺にわかるように説明しろ」
『嬢ちゃんにもわしの声が聞こえとるんやからな。あたりきしゃりきや。わしと意思疎通のできる人間の条件は、わしの汗を飲んで失禁するかどうかやねん。声が聞こえる=失禁や』
「蓮華。お前、失禁してたのか」
「してない……してないよお……」
蓮華はポッキーを岩の上に放置して立ち上がる。ふるふると体を震わせている。
『例外はないで。失禁100%や。わしの声が聞こえるっちゅうんはそういうことやからな』
「蓮華、つまりお前は、俺を隠れ蓑に使ったわけだな。卑劣極まりない」
「してない……してないよお……」
「うおおあぶねえな!」
蓮華がスタンガンを突き出してきた。
「死んだらどうする!」
いや大人が気絶するほどの電流だ。男子小学生ならほぼ確実に死んでいただろう。
「してない……してないよお……」
「おおぉ……よしわかった。なるほど、理解した。この話はここで終わりだ。俺は何も覚えていないのでお前も何も思い出すな。誰も失禁などしていない」
俺が言うと蓮華はびたりと動きを止めた。俺はこれまでこんなキラーマシンみたいな奴と行動を共にしていたのか……。
『誰も失禁しとらん。ほな、全部お流れゆうことで、これでしまいやな。おつかれさん。良い子はお帰り』
「いや、理由はなくとも貴様は殺す」
『嘘やん、覚えてないて……』
カバがぶしゅうと鼻息を吐くと、水面が大きく揺れた。
「言い残すことはあるか。ナメ会の連中に伝えておくぞ」
『あの連中に言いたいことはないなあ。やけど、ちょお待ちい、坊ちゃん。わしの話きいてな』
カバがのそりのそりと近付いてくる。俺を踏み殺そうというつもりだろうか。ならば先手必勝である。蓮華の手からスタンガンをひったくり、前方へ掲げる。
『ちょお待てて。あんな、坊ちゃん、交換条件でどないやろか。坊ちゃんがわしを殺すんをやめてくれたら、わし、縁結びやるで』
「なに? 縁結びだと?」
『せやせや。好いた相手て、町長の娘さんやろ?』
「ええっ!?」
いや、蓮華、何故お前が驚く。
「れ、蓮華じゃなかったの……?」
「自意識過剰も甚だしい」
貴様が恋の相手だったら、この場で失禁告白などしないだろう。
『えーっと、話続けてええかな。あんな、坊ちゃんとあの……糸子ちゃんやったかな、糸子ちゃんとの仲をな、ちょいと進めたるわ』
「カバにそんなことができるものか。この俺でさえできていないことを」
『簡単やで。一言、坊ちゃんが糸子ちゃんに伝えるだけや。ものの試しにやってみんか?』
……ふむ。
俺がカバを殺すのは、糸子の前で失禁をすることにより恋の成就が遥か遠く去ってしまったからだ。もし仮に、万が一、その距離を再び近づけることが出来るというのなら、なるほど、カバを殺す理由はなくなる。
それに、バズーカも失われた。まだ武器のある内なら聞く耳も持たないのだが、今となってはな。まぁ、折れてやっても良いところではあるか。
「よし。聞くだけ聞こう」
言うとカバが大口を開ける。笑っているのだ、怖気が走る。
『あれは青い汗。そう糸子ちゃんに言い。もちろんわしからの伝言やってのも忘れんといてな』
「意味がわからない。そんなことで糸子の心が動かされるはずがないだろう。馬鹿め」
カバをひとしきり罵倒した俺と蓮華は、そのまま下山した。関所ではまだ昼勤の人間は現れていなかった。夜勤のあいつも起き上がっていなかった。マジで死んでるんじゃないかと心配になり動脈を測ると、マジで死んでいる。パニックに陥りながらも心臓マッサージを試みると、なんとか脈が戻った。奇跡だ。心臓が止まったのはほんの数分前だったらしい。俺にレスキューの経験があって本当に良かった。チャレンジ精神大事。
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