第12話 破約の代償
「……やだ! いやだ、私は……!」
大事な宝物のように、莉子さんが魔術書を抱える。縋るような目に気持ちがぐらりと揺れるけど、自分を叱咤して続けた。
「莉子さん。もう駄目だよ? 僕は、貴女の為を思って言っている」
「嘘だよ! 私の為なら、私にこれを読ませてくれる!」
「読ませないよ。読ませない。忘れてるの? 莉子さん。店主のあの女(ひと)が言った言葉」
何度も何度も、耳に染みつくまで繰り返された言葉を諳んじる。
「——『資格ある人に、資格の分だけの知識を』。あの女が掲げる、『知識屋』のモットーだ。店員である僕も、それを守る義務がある」
だから、と、僕は最後の一歩を詰めて、莉子さんの腕に抱えられた魔術書に触れた。
「だから……資格のない貴女が、約束を守らず、資格以上の知識を求めるなら。僕は、それを止める。これはもう、貴女が持つ「資格」はない」
ぐっと力を込めて、魔術書を取り上げる。手元に戻ったそれの重さを確かめながら、僕は素早く下がって、距離を取った。
「これは僕が責任持ってお店まで持ち帰るよ。はい、これ本代」
呆然と佇む莉子さんに、ポケットから取り出したお財布の、なけなしの諭吉様を手渡す。ちょいと足が出るけど、それくらいはお詫びとして安いもの。
「じゃあね、莉子さ——」
これでもう、この人と関わる事は無いだろう。そう思いながら踵を返しかけた僕は、ゆらりと視線を合わせてきた莉子さんに、思わずひっと息を呑んだ。
「うらぎりもの……裏切り者! 知識は誰の元にも、平等に得られる筈なのに……なのになのになのに! なにが資格だ! 売ったのは貴方達のくせに!!」
明らかに正気じゃないギラつく瞳を僕に向け、莉子さんは叫んだ。
「うぁあああああ!!」
同時に飛びかかってくるのは、辛うじて避けたけれど。その反動で、腕の中にあった魔術書がこぼれ落ちる。
「あっ……」
「返せ!!」
咄嗟に伸ばした手は、弾かれた。僕の腕をはたき落としたその手で、莉子さんが魔術書を掴む。
「ちょっ、」
慌てて取り返そうとした僕は、目を疑った。
「な——」
ぽろり、と。乱暴に扱われた反動で、栞がこぼれ落ちた。落ちる音は土に吸収され、栞は静かに地面に横たわる。
(なんで……!?)
魔術的に固定されたはずの栞が、こんな衝撃で落ちるわけがないのに。
「やった……やった! これで読める……!」
「っ、駄目だって、莉子さん!」
服が汚れることも厭わず……そんな事を気にする余裕もなく、莉子さんがその場に膝を付いて本を開く。取り上げようとしていた僕は、木の根に足を取られてバランスを崩してしまった。
「うわっと……」
慌てすぎてる自分に落ち着け、と言い聞かせて顔を上げた時には、莉子さんはもう、そのページに視線を落としていた。
「莉子さん!」
「ふふ、これで私も、魔法を——」
嬉しそうに、楽しそうに呟く言葉は、そこでふつりと途切れる。
「……え? なに、こ、れ」
「……?」
愕然と目を見開く莉子さんが、腕をガタガタと震わせ始めた。何があったのかと、視線を魔術書に落とすも、普段と何も変わらない。ただ、英文の羅列があるだけ。
「莉子さん……? どうか、した?」
「なんで、こんな……なんで」
僕の言葉なんて耳にも入ってない様子で、うわごとのように莉子さんは繰り返す。焦点の合ってない瞳に浮かぶのは——恐怖。
「一体——」
何が起こっているんだろうと、疑問に思ったのは、直ぐに消えた。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
鼓膜をつんざかんばかりの悲鳴を、莉子さんが上げる。
「莉子さん!」
「い、いや! あぁあああああ!」
莉子さんが何かを振り切るように首を勢いよく振り、頭を抱えた。魔術書がこぼれ落ちたのにも気付かない様子で、そのまま地面を転げ回る。
「な、なに!? なんなの!?」
この時、僕はすっかり動揺しきっていて。目の前の余りにも凄まじい光景に、当然というレベルで教え込まれた事さえも、忘れてしまっていた。
『原書を一般人が読む』
その、危険性を。何度も、何度も、教わっていたのに。
対処どころか状況の把握すら出来ず、おろおろしていた僕の耳に、怜悧な声が届く。
「——だから、言ったじゃないか」
ぱん、と。
間の抜けた音が響く。
それと同時、莉子さんの悲鳴がぱたりと止み、莉子さんはぐったりと気を失ったかのようにうつぶせた。
「あ……」
怪我していないのかな、とか。
大丈夫なのかな、とか。
そういう、当たり前の心配事も、この時の僕には思い浮かばなかった。
唯、唯。
耳に届いた声の主を、振り返る。
いつも通りにシニカルな笑みを浮かべた『魔女』が、莉子さんを冷徹に見下ろして、言う。
「それは、貴女の「資格」と釣り合わない——ってね」
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