30「ただ愛に生きた女の献身」
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身体が……!?
奴以外は静止した世界。意識だけが残っていた。
クラムにやられたあのときと同じだ。動けない!
ヴィッターヴァイツは得意気に口を開いた。
「こいつはオレのオリジナルでな。貴様の下らん魔法とはわけが違う――くっくっく。良い睨みじゃないか。だがいくら足掻いても動けまい」
動け。動け……!
この身体さえ動けば。この技さえなくなれば!
殺してやるぞ! どんな手段を使っても! 刺し違えてでも!
「効果時間が切れればと、そう考えているのだろう。無駄だ」
俺の考えを見透かしたかのように、奴は人差し指を立てた。
「十分」
わずかな望みが潰える。
それは、あまりにも――あまりにも長い時間だった。
「このオレは、それほどの時間を自由に操ることができる――敵はない」
奴がクイ、と指で招き寄せる動作をすると。
無様に地面に這いつくばっていた俺は、なすすべもなく宙に吊り上げられた。
睨み上げていたのが、ちょうど正面から睨み付ける高さにきた。
俺にできることは、ただ睨み続けることだけだった。指一本動かすことができない。
「声も出せないか。情けない姿だな。おい」
くそ! くそっ!
何もできないのか!? この野郎の前で、俺は……俺はっ!
イネア。アーガス。
あんなに簡単に殺されてしまった。弄ぶように殺されてしまった。
もう二度と会えないんだ。こいつのせいで! なのに!
「戦うだの殺すだのと。散々でかい口を叩いた割には、結局何も変わらなかったな」
許すものか。許すものか!
この身を突き動かそうと、激情が煮えくり返っていた。
裏腹に、俺はどこかで確実な死を悟ってもいた。
どうにもならない。この力の差が。
悔しい。力及ばないことが。こんなにも。
「死ね」
ヴィッターヴァイツが拳を握る。
殺される。ちくしょう。ちくしょう!
そのときだった。俺を奇妙な浮遊感が包み込んで――。
気が付いたら俺は、森の中にいた。
***
何が起こったのか。わからない。
とにかく助かったが、まだ動くことは一切ままならない。
なぜ助かったのか。すぐにその理由を思い知ることになる。
『心の世界』を通じて、彼女の――カルラの声が聞こえたからだ。
気持ちが通じているのか。彼女の見る光景までも共有することができた。
『女……なぜだ。なぜこの世界で動くことができる』
『どうしてかって? そんなこと、わからないわ。あの人のピンチに、ただ身体が動いていた。それだけよ』
彼女の声は震えていた。圧倒的な力の差がわかっているから。
殺されるつもりなんだ。俺の身代わりになって。俺なんかのために。
必死に呼びかけた。心の声なら、彼女に届くはずだ。
『カルラ! カルラ!』
『ちゃんと聞こえてるわよ。ユウ』
『どうして……どうやって!?』
『おまじないよ。あれはロスト・マジックだったの』
あのキス。そうか。
おそらく術者と位置を入れ替えるだとか、そういうのだろう。
俺の知らなかったものだ。
なぜ彼女が動けるのかは、皆目わからないが。
とにかく俺は、彼女を引き止めたかった。
『カルラ』
『いいの。元々わたしはあのとき死ぬつもりだった。それを助けてくれたのがあなただから』
『ダメだ。許さないぞ。俺はそんなことのために、君を……』
『気まぐれだったんでしょ? わかってる』
意地悪っぽく言われた。
ああ、そうだ。そうだよ。気まぐれだったんだ。
なのになぜ、君は……。
そこまで、と言いかけたところで。
彼女は照れ臭く笑った。実際には笑っていないが、そんな声だった。
『うふふ。ごめん。意地悪言って』
『……なあ』
やめてくれ。頼むからやめてくれ。せっかく助けてやったじゃないか。
こんな戦いで死ぬのは、もう俺だけで十分だ。だから。
『ほんとは、迷惑だってわかってた。なのにあなたは。ずっと素っ気ない振りしてたけど、優しかったよね』
『カルラ……』
『ありがとう。わたしの我儘にずっと付き合ってくれて。わたしを愛で埋めてくれて』
『……やめろ。帰ってこい! 命令だ! 俺が何とかしてやる! だからっ!』
心の中でなりふり構わず叫んでいた。
もう外面なんてどうでもいい。君なら俺の気持ちがわかるはずだ。
俺がどれだけ君に生きていて欲しいか、わかるはずだ!
『いくらあなたの命令でも、それだけは聞けません』
カルラ! カルラ……!
会話を一方的に打ち切られた。
思い知らされたのはこちらだったのだ。
情けで助けた女が、亡くなった彼への愛は変わらない。
だが、どれほど俺のことも想ってくれていたのか。
運命を呪った。
まただ。またなのか。
なぜなんだ。どうしてこうなるんだ。
無力じゃないか。あまりにも!
『あの男をどこへやった。答えろ』
『あなたにユウは渡さない。殺すならわたしからにしなさい!』
彼女は指を立てて啖呵を切った。
ヴィッターヴァイツは不機嫌に眉をしかめ、だがすぐに嫌らしい笑みを浮かべた。
『くっくっく。そうかそうか。ならば、貴様自身にユウを殺してもらうとしようか』
奴が手をかざす。【支配】だ。
あの能力にかかれば、なすすべもなく……。
『【支配】が、効かんだと……?』
驚いていたのは俺もだった。なぜ。
『貴様はただの女。そんなはずが……そうか。それがあいつの能力だったか!』
それが、俺の能力? 『心の世界』に、そんな力が……!?
何かが掴めそうだった。それさえ掴めたら、奴にも通用するのではないか。その可能性が。
あまりにも遅いタイミングだ。何もこんなときに。
『ふん。【支配】が効かんのなら、身体に聞くしかないな』
最悪の想像が頭を過ぎる。
もういい。逃げろ。君が敵うわけないんだ。無残に殺されるだけだ。
今なら間に合う。俺を元の場所に戻せ。俺を差し出せ。
俺を戦わせてくれっ!
気丈にも彼女は、下卑た表情の大男へ果敢に魔法をぶつけた。
ありったけの魔力を込めて、何発も放った。
だが奴にとっては、蚊に刺された程度の威力もなかった。無駄な抵抗だった。
まだ時間は止まっている。
まだなのか。どうして動けないんだ!
己を呪う。奴を呪う。運命を呪う。
何もかもが憎くて仕方がない。
男が女の胸に手を伸ばした。
やることは一つだ。最低の行いだ。
やめろ! やめてくれ……! ヴィッターヴァイツ!
無駄だとわかっていても。懇願するしかなかった。
弱者には、それしか選択肢がないのだ。
殺すなら俺からにしろ! それ以上、手を出すなあああっ!
『あっ……! いやっ……!』
『心の世界』で通じていた映像が途切れた。
想起しても、何もイメージが浮かばない。
彼女は、見られたくないのだ。最後の意地だった。
『あっ……あっ。やめっ……ひっ……!』
う、ううっ……!
激しい暴行を受ける音とともに、苦痛に満ちた彼女の喘ぎ声が漏れる。
最初は気高い意志の強さを保っていた彼女も、次第に耐えられず、泣き喚くようになっていく。
やめろ! 殺す! 殺してやるっ!
彼女の苦しみが直に伝わってくる。
おぞましい苦痛が全身を突き抜けて、心を撃ち抜いて。この身を掻きむしっていく。
気が狂いそうだった。もう狂っているのかもしれない。
もし動けたなら、俺は地面に額を何度も打ち付けてのたうち回っていたことだろう。
それすらもできない。
何を置いても助けに行きたいのに。
俺は! こんなところで、俺はっ!
永遠とも思える拷問は、ひたすら続いた。
俺に見せ付けるかのように。俺の無力を嘲笑うかのように。
彼女の意志が薄れていく。
抵抗する力も気力も失せて、ただされるがままに弱々しい喘ぎ声が漏れるだけになっていった。
『ねえ。これでわたしも、あの人のところに行けるのかな……?』
ぽつりと、切なげな呟きが聞こえた。
そしてもう、何も聞こえなくなった。
奴は動いている。淫らな水音だけが、嫌らしく耳を叩き付ける。
ああ。嫌でもわかってしまった。
カルラの心は、壊れてしまった。
もう二度と、元には戻らないのだ。
彼女は、帰っては来ないのだ。
イネアも。アーガスも。
あ、あ……!
その事実を胸に刻み付けられたとき。
俺の中の何かも、壊れた。
うわああああああああああああああああああっ! ああああああああああああああああああーーーーーっ!
***
果たして、どれほどの時間が経っただろうか。
気を失っていたらしい。
もう嫌らしい音は止んでいた。すべては終わっていた。
身体は、動く。
心は何も感じない。ぽっかりと穴が空いてしまったようだった。
あれほど受けたダメージも、今は何ともなかった。
すぐに転移魔法で飛んだ。
あの場所に、もう奴はいなかった。
彼女はいた。
こんな俺を助けるために、勇敢にも立ち向かった彼女。
最後まで利用されてばかりだった、可哀想な彼女。
可哀想だ。可哀想だったんだ。俺と同じだった。
人としての尊厳は何もなく。全裸のまま、ボロ雑巾のように放り捨てられて。
カルラは、事切れていた。
みんな、そうだ。
こんな死に方をすることは、なかったのに。
気付けば、頬を熱い滴が濡らしていた。
あの日捨て去ったと思っていた、涙だった。
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