#20-1 復讐と涙


のぞむ兄! 朔兄!」

「お、綾乃あやの! ただいまー! 愛しい我が妹よ!」

「望。妹に会えて嬉しいのは分かるけど、あんまり勢いよく抱きつくと──」

「わっ、ちょっ、おもっ!」

「へ? うわ!?」

「……転ぶよって言いたかったけど、遅かったね」

「…………さーくー! お前も来い!」

「は? まっ!」

「うっ、二人ともおもーい!」


 それは、幸福な記憶。

 七体の真祖の一体。怠惰の真祖を宿した少年の幸せだった頃の記憶だ。

 彼は眠る度に同じ夢を見た。

 夢といってもそれは過去の記憶だ。実際に彼の身に起こった過去の出来事。

 それ故に夢の終わりはいつも同じであった。

 幸福な記憶とは正反対の後悔の記憶。



「…………のぞ、む……にい……?」


 窓から差し込む月明りと廊下の光が薄く照らす暗い部屋の中。

 部屋の扉を開け放ったまま、固まる少女。

 限界まで見開いた少女の視線が捉えるのは、部屋の中央で立ち尽くす一人の少年。そして、少年のすぐ傍に倒れている愛しい兄の姿。


 倒れている兄から流れ出す大量の赤い液体。

 薄暗い部屋だが、その色だけは鮮明に少女の網膜に焼き付いた。

 少女は眼前の光景を信じられないのか、震えた足でゆっくりと兄に近付いていく。そして、兄の元に辿りつくと力が抜けたように地面に座り込んだ。


 少女の行動に茫然と立ち尽くしていた少年が我に返って、座り込んだ少女に手を差し出そうとして――自らの手が赤く染まっていることに気付いて、その手を引っ込める。

 少女は少年の行動などまるで目に入っていないようで、倒れている兄にゆっくり手を伸ばす。


「……望兄……ねえ、起きて」


 小さな声は、静まり返った部屋ではよく響いて、少年の鼓膜を揺らす。だけど、少女が声をかけた人物は何の反応もない。

 いつだって愛しい妹が声をかければ何を置いても即座に反応していた兄は、何も答えない。


「……いや、やだよ。嫌ぁあああああああああああ!」


 少女の絶叫が暗い室内に響き渡る。

 それでも倒れた兄が反応することはなかった。

 答えるはずがない。

 反応するはずがない。

 彼は――夜槻やづき望は既に死んでいるのから。

 すぐ傍で立ち尽くしている少年がのだから。


「…………い。……ゆる、さない」

「綾乃」


 泣きながら顔をあげた少女の瞳は暗く淀んでいる。

 明るく無邪気だった少女はもういない。彼女は、既に復讐という闇に囚われてしまったのだと少年は悟る。

 かつて向けられていた親愛の情など何処にもない。

 強い怨嗟の視線を向けられた少年は、悲しげに微笑むだけだった。


「絶対にあんたを殺してやる! 卯月朔!」




「――く。ちょっと、朔ってば! いい加減起きなさい! この馬鹿っ!」

「っ、う……相変わらずアサちゃんの起こし方は乱暴っすね」


 容赦なく殴られた頭をおさえながら、卯月朔は目を覚ます。開かれた視界の先には、仁王立ちしている皐月の姿がある。


「ったく、優斗君達が働いてるっていうのに、なに呑気に寝てるのよ」

「俺、怪我人なんすけど……」

「知ってるわよ。けど、それとこれとは話は別よ。動けないなら、頭働かせなさい」

「アサちゃんは厳しいっす」


 文句を言いながらも朔自身も休んでるつもりはないのだろう。横になっていた体を起こして、そのままソファーに座り直す。

 すると、向かいのソファーに座っている照の姿が目に入った。

 照は優雅に紅茶を飲んでおり、朔と目が合うなり笑う。


「ふむ、起きたのかね朔君! もう少し寝ててもいいと思うけどね! なにせ君、昨日は死にかけだったからね」

「あー、大丈夫っす。真祖の回復力は普通じゃないんで」

「ふむ。けど、その回復もタダじゃないのだろう? 君、昨日よりも気配が変質しているからね」


 優雅に紅茶を飲みながらの一言。その言葉に朔は一瞬何も言えなくなる。


(さすがテルテル。怪我を治す代わりに覚醒を速めてるって気付いてる)


 このまま誤魔化すか、本当の事を告げるか朔は考える。そして、その答えを出す前に大地を揺らすような咆哮が遠くから響き、思考を中断させる。良く知る欲望の気配に気付いて顔を上げる。

 朔と同時に皐月も顔をあげて、ここではないどこかを見るようにに一点を見つめていた。


「アサちゃん」

「分かってる。……憤怒が覚醒したわ」

「憤怒。ということは、弥生君か。……それで、どうするんだい? 僕達だけでも向かうのかい?」

「馬鹿言わないで。私達はここで待機よ。そもそも今の私達が行ったところで、相打ちくらいしか選択がないもの。優斗君が全員助けるって言ったからには、その選択を尊重するわ」


 遠くを見つめたまま照の提案を一蹴する皐月。そんな彼女の後姿を見ながら、照は笑う。


「分かったよ、皐月君。それなら、君に良い事を教えてあげよう」

「なによ?」

「……五、いや、十……」


 照の言葉に皐月は訝しげに眉を寄せる。そして次の瞬間、高速で近付いてくる気配に気付いて、体を強張らせた。


「襲撃ね。結界を張っているとはいえ、私達が少なくなったから効果が弱まったみたいね」

「そうっすね。ま、俺とアサちゃん、カノちゃんの三人だけすから、当然といえば当然すけど。ま、向こうも正確な位置は把握できてないとは思うっすけど」

「あまり楽観視は出来ないわね。私達の正確な位置が分からなくても、あの男ならこの辺一帯を焼け野原にしてもおかしくはないもの」

「流石だね、二人とも。……さて、少なくとも十人以上は来てるだろうけど、どうするかい?」

「決まってるでしょ。全員追い返す。手伝いなさい」


 迷うことなく即座に告げられた言葉。

 その言葉に照は満足そうに笑みを浮かべ、何度も頷いた。


「了解だよ、皐月君。君ならそういうと思ったよ」


 照は手にしていたカップをテーブルに置く。そして、優雅な動作のまま静かに立ち上がった。そんな彼の姿を見て、対面に座っていた朔も腰を上げかけて、彼の動きを制止するように照が片手を突き出す。


「ああ、朔君は此処にいてくれたまえ」

「怪我の心配してくれてるなら、大丈夫っすよ」


 言外に役に立たないと言われたのかと思い、僅かに不満げな顔を浮かべた朔に照は静かに首を横に振る。


「いや、それもあるけれど、一番の理由は違うね。此処には未だに目を覚まさない白君と戦えない我が婚約者殿がいるからね。誰か一人が此処に残らないとね」


 ニコニコと笑みを絶やさないままの照の言葉に朔は視線を動かす。視線の先には一つの扉。

 その部屋の中には眠ったままの白と彼をずっと看病している千沙都がいる。

 白が普段通り戦えるならば、守りなど必要なかっただろう。だが、いまはそれも期待できない。

 朔は逡巡する素振りを見せた後、ゆるりと首を横に振った。


「悪いっすけど、それはできない相談っすね」

「おや? それは何故だい?」


 意外そうに目を瞬かせる照。そんな彼の反応に朔は、複数の気配がする方向へと視線を向ける。

 襲撃者達からは、まだ距離がある。それでも壁越しに感じる悲しくなるほど研ぎ澄まされた殺気は彼が良く知るものであった。


「……俺は前世だけじゃなく、今世でも罪を犯した。だから、俺はその罪を償わなければいけない」

「朔?」


 今までにないほど神妙な顔をした朔を不思議に思って、皐月が声を上げた瞬間、強い衝撃がアジトを揺らした。


「ちっ、予想以上に速いわね。話は後! アジトが見つかる前に打ってでるわよ!」

「朔君。どうしても君がでるのかい?」


 朔は何も言わない。それが答えだった。

 照は溜息をついたあと、大げさに肩を竦めてみせる。


「分かったよ。アジトの防衛は僕に任せて、君達がでるといい」

「え?」


 その言葉に驚きの表情を見せたのは朔だけではなく、皐月も同じであった。だが、ニコニコと笑いながらも細められた目から、彼が本気でそう言っているのだと伝わってくる。


「……ありがとうっす。テルテル」

「任せたまえ。アジトも白君も婚約者殿も僕が守ってみせるよ」


 頼もしい照の言葉に二人は安心したように頷いて、アジトを飛び出していった。


◇◆


 深い、深い、どこまでも深い闇の中を彷徨っていた。

 あの日から視界からは色が消え、灰色の世界が少女の全てであった。

 どれほど好物だったものを食べても、なにも感じない。

 些細なことで緩んでいた涙腺からは、なにも流れない。

 次々に浮かび上がっていた豊かな感情は、もうどこにもない。

 完全に凍り付いた少女の心を動かすのは、たった一人の家族を奪った者への憎しみのみ。


 復讐。

 それだけが少女の望みだった。

 それだけが少女の全てだった。

 それだけが少女の生きる目的だった。

 だからこそ、少女――夜槻綾乃は、悲しいまでに愚直に、愚かなくらい一心に、恐ろしいくらいの執念で、復讐の機会を狙っていたのだ。

 


 闇に紛れ、極限まで気配を消して、綾乃は一気に距離を詰める。

 目的の人物は背中を向けたまま、綾乃には気づいていない。

 二度目の失敗はない。

 今度こそ一撃で仕留める。

 そんな考えを抱く自分と一撃で終わらせていいのかの囁く自分がいる。

 自分が味わった苦しみを嘆きを悲しみを味わせたい。だが、そんな自分を綾乃は押し殺す。

 相手の実力は彼女自身が誰よりも分かっていた。理解していた。だからこそ、彼女は一撃で終わらせることを選ぶ。


(大丈夫。今度は失敗しない)


 自らの属性である闇を纏い、周囲と完全に同化した綾乃に気付けるものなどいない。


(これで、終わり!)


 一瞬の出来事だった。

 周囲と完全に同化した綾乃が突如として背後に現れ、身構える間もなく、彼女は愛用の薙刀を無防備な背中に突き刺した。

 それで終わりの筈だった。

 相手は復讐者の存在に気付くことなく、命を奪えた筈だった。

 相手が普通の人間ならば、ここで少女の復讐は終わっていた筈だったのだ。


「二度も同じ手は通用しないよ」


 完璧なタイミングだった。相手は避けられる筈がなかった。それなのに綾乃の一閃は空を裂くだけ。同時に後頭部に硬いものを押し付けられた。

 振り返らなくとも綾乃には分かっていた。

 自分の背後に立っていて、自分に銃を突きつけているのが、誰よりも憎い人物であることを。


「……卯月、朔……」


 もし言葉だけで相手を殺せるとしたら、それだけで彼の命を奪えてしまいそうなほど、暗く淀んだ、憎悪に満ちた声で、彼女はその名を呼んだ。


「綾乃ちゃん! 援護します!」

「させるわけないでしょ」

「っ!」


 朔に背後を取られた綾乃の手助けをしようと弓を構えた壱伽だったが、そんな彼女に向かって振り下ろされた鉄扇。

 壱伽はとっさに距離を取り、襲撃者を見るなり、視線を鋭くさせた。


「まさか朝永家のご令嬢が強欲の真祖とは想像もしませんでした。……残念です。雷燈家の人間として、貴方は私が退治します」

「名門家の誇りってやつ? そんなものに縛られるなんて哀れね。……良いわ。相手してあげる。傀儡のお嬢さん」


 そう言って、皐月は不敵に笑った。

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