#19-4 嫉妬
「あーあ、馬鹿な人間。そんな焦らなくたって、どうせ君も呑み込まれてたのに」
嘲笑うように告げられたそれは嵐を侮辱する言葉であった。その言葉に優斗達が抗議の声を上げるより早く、響いたのは鬼の咆哮。
「――――」
執拗に嵐を狙っていた鬼は嵐の姿を見失い、雄叫びを上げた。
目標をなくした鬼は新たな標的を求め、優斗達に狙いを定める。
「っ!」
咄嗟に優斗は手元に力を籠める。すると、彼の手の中に光り輝く双剣が現れ、優斗は双剣を構えて、鬼と対峙する。
「その武器は――」
既に優斗に興味を失っていた嫉妬の真祖は、僅かに目を見張る。かつての記憶が脳裏を過り、憎しげに優斗を睨みつけた。
「ふん。力は引き継いだってわけ? 脆弱な人間のくせに!」
「させない!」
優斗に向かって伸ばされた幾重もの強靭な糸を花音が切り伏せる。
「邪魔するな傲慢!」
殺気立った嫉妬の真祖は、花音に向かって数十本の糸を射出させた。
本来、如月秀也の武器である糸は単独戦闘に向かない。彼の武器は無数の糸を張り巡らせ、諜報、暗殺、偵察を得意とするものだからだ。それでも人間の体など簡単に貫ける強靭な糸を無数に操ることができれば、それだけで十分な武器になりえる。
知略など一切ない無尽蔵に射出されるだけの糸だが、先程まで傲慢の真祖の力を引き出し、覚醒を速めていた花音にとっては脅威的な攻撃であった。
迫りくる糸を切り伏せていた花音だが、無数の糸が四方から襲い掛かる為、動きが間に合わない。
一本の糸が花音の肩目掛けて伸びてくる。避けられないと判断した花音は致命傷を避けようと体を捻った。しかし、いくら待とうとその糸が花音の体を貫くことはなかった。
それもその筈だ。闇の塊から放たれた風の刃が花音を貫こうとしていた糸を切り裂いたのだから。
驚きに目を見張るのは花音だけではない。鬼と戦闘していた優斗も、圧倒的優位に立っていた嫉妬の真祖までもがありえない光景に目を疑った。
瞬間、闇が霧散する。
中から現れたのは、日本刀を携えた緑髪の少年。
その姿は以前と何ら変わりがない。その雰囲気は以前と何ら変わりがない。
欲望に呑まれ、鬼へと姿を変える筈だった彼は――石動嵐は、人のままそこに立っていた。
「ば、馬鹿な! 何故、鬼にならない!?」
嫉妬の真祖が動揺したその隙を見逃す彼ではない。
一足飛びで真祖に近寄ると白銀を一閃させた。
嵐の斬撃で肩を斬られた真祖は赤い血しぶきを舞わせ、距離を取る。その傷口は即座に修復されていくが、真祖は動揺したまま嵐を見つめていた。
「なんかよく分かんねーけど、残念だったな! オレはオレだ!」
真祖に刃を向けたまま、ニッと歯を見せて笑う嵐はいつも通りだ。
そのいつも通りの嵐の姿に優斗達は安堵の息を吐き出す。
「ありえない!」
驚愕の表情を浮かべたまま、真祖は嵐に向かって欲望を生み出す。人を鬼へと変じさせる欲望の闇が再び嵐を包み込む。だが、それもすぐに霧散した。
当の本人も何が起こっているのかは理解できていないようで、嵐は不思議そうに首を捻っている。だが、真祖は気付く。優斗も花音も気付く。
何故、嵐が欲望に呑まれないのかを。
彼は――石動嵐は、嫉妬という欲望を持っていない。
嫉妬の芽すら、ひとかけらも抱いていない。そんな感情すら知らない。
彼は嫉妬とは無縁の存在であった。
石動嵐にとって、自分は自分であり、他人は他人であった。
一人一人、人が違うのは当然のこと。自分が持っていないものを他人が持っているのも当然のこと。逆に自分にあって、他人が持っていないものがあるのも当然のこと。それが嵐の考えであった。
故に彼は他人を羨んだことなどない。
故に彼は他人を妬んだことがない。
決して順風満帆の人生だったとはいえない彼だが、実の父に愛され、認められる異母兄弟を羨んだことは一度もない。
愛人の子として、いらない子として、離れに追いやられたことを嘆いたことは一度もない。
妾の子として蔑む異母兄弟や親戚を妬んだことなど一度もない。
彼は他人をありのままに受け入れる。
彼の前では善人であろうと悪人であろうと等しく同じであった。無論、嵐個人の価値観によって好感を持つかどうかは変わってくるが、それでも彼は他人を否定しない。他人と自分の違いを否定しない。他人と自分を比べない。
そういう人もいるのだと受け入れてしまうからだ。
そんな言葉を羅列すると、まるで彼が人を妬まない、羨まない、否定しない立派な人間のように思える。だが、それはかつての瀧石嶺神無と同じこと。
人間ならば、どんな人でも抱く当然の感情が彼にはない。
石動嵐は嫉妬という感情が完全に欠落しているのだ。
それは嫉妬の真祖に対する強力な切り札となり得る。
人間の欲望を糧に成長し、欲望を広める真祖にとっての天敵に他ならない。
いまこの場において、石動嵐はもっとも真祖に対抗出来うる存在であった。とはいえ、他の真祖であったならば、そうはいかなかっただろう。彼も例外なく欲望に呑まれていた筈だ。
「ぐ……うう……」
全く警戒していなかった、取るに足らない存在だと見下していた人間に味わわされる屈辱に真祖は呻く。
真祖の脳裏に過るのはかつての記憶。瀧石嶺神無に封じられた時の記憶。
羨ましい。
妬ましい。
自分にはない強さを持っている人間が羨ましい。
自分にはない輝きを持っている人間が妬ましい。
彼等のように欲望に呑まれずにいる人がいるならば、嫉妬の感情に呑み込まれて、一族郎党を滅ぼした自分は何だというのか。
ぐるぐると真祖の中で渦巻く激しい感情。その感情が、その欲望が、真祖の力を一層引き出す。
一段と凄みを増した欲望に花音に守られている筈の優斗をのみ込もうとする。
「……ツッキー。分かってるよな?」
主語のない嵐の言葉。だけど、それで充分であった。
優斗には嵐が何を言いたいのか分かっていた。
優斗は一度頷いてから、光り輝く双剣を構える。鬼と対峙した優斗を一瞥して、嵐も笑う。
「任せたぞ、ツッキー!」
「ああ、そっちこそ」
互いに頷きあって、優斗は鬼に。嵐は嫉妬の真祖に向かう。
なんてことはない。適材適所というものだ。
優斗は鬼になってしまった空を取り戻すことができる。
嵐は欲望に呑まれることなく真祖を弱らせることができる。
ただそれだけのことだ。
それがどれ程あり得ないことなのかは、本人達だけが知らなかった。
「――――」
鬼が吠える。
嵐の姿を認めた鬼は既に優斗から興味を無くしていた。
爛々と輝く金の双眸は嵐だけを捉えている。いまにも嵐に襲い掛かろうとしていた鬼に向かって、優斗は双剣を振るう。
「悪いけど、嵐の元には行かせない」
「――――!」
自らの邪魔をする存在に鬼は苛立ったように雄叫びをあげる。だが、優斗も引けない。嵐に頼まれたのだ。彼を救ってほしいと。
鬼は自らにたかる虫でも払うようにぞんざいに鎖鎌を振り回す。
優斗のことなどまるで目に入っていない。そんな大ぶりな攻撃が当たる筈がない。そして、優斗を見ていないその隙がチャンスであった。
優斗は左手の剣で鎌を受け止める。振り回していた武器を止められた鬼は、そこでようやく優斗を見る。だが、もう遅い。
右手の剣が無防備な胴体を一閃した。
「――――」
再びの咆哮。
その絶叫と共に鬼の全身から蒸気があがり、みるみる彼の姿が人に戻っていく。
ふらりと倒れた小柄な体を支えた優斗は意識を失っている空を見て、安堵の息を零す。そして、空の体を花音に預けて、嵐達を見る。
状況は圧倒的に嵐が優勢であった。
元来、単独戦闘には向かない秀也の武器。だというのに嫉妬の真祖は知略もなにもなくただ無造作に糸を射出させるだけ。
そんな単純な攻撃が嵐に通用するわけがなかった。
瀧石嶺神無ではない、別の人間に追い詰められているという状況が真祖をより一層動揺させ、その攻撃を更に単調化させる。
いくら真祖の治癒力が高いとはいえ、完治するより先に次々と攻撃を受ければ、無事ではいられない。
かつても味わったことがある屈辱。
人間はとても弱く、とても脆く、とても醜いものだと真祖は知っていた。だからこそ、真祖は生まれた。
人間の誰もが抱く当然の欲望。それを糧に真祖は生まれ、成長してきた。
その人間に、見下しきっていた人間に再び追い詰められていた。七百年前と同じように。
本来、嫉妬の真祖はその欲望を糧に力を増す。嫉妬の感情が真祖を強くする。
自分にはない力を持った人間を妬む。
自分にはない強さを持った人間を羨む。
自分にはない輝きを持った人間に嫉妬する。
そう。本来ならば、嫉妬の感情を味わう真祖は更に力を増してもおかしくはない。
それなのに、そうならないのは真祖が動揺して、冷静さを欠いているからではない。
嫉妬の真祖は恐怖していた。今も昔も。
普通ならば自分に敵う相手などいない。自分に脅威を与える存在などいない。圧倒的な力を持った真祖は、それ故に自分の力が通用しない相手に恐怖する。
その恐怖が、怯えが、真祖の思考を完全に奪い去っていた。
みるみる弱っていく真祖に嵐も気付いていた。その好機を逃す手はない。
「ツッキー!」
「ああ!」
真祖が嵐に気を取られている内に背後に回り込んだ優斗は、嵐の声と共に双剣を振るう。
「しまっ!?」
真祖が優斗に気付き、対応するより早く、刃は真祖を切り裂く。
「あああああああああああああっ!」
絶叫と共に秀也の体から真祖が抜けていく。そして、真祖は優斗の体の中に吸い込まれていき――。
がくり、と膝をついた優斗。真祖が抜けて意識を失った秀也の体は嵐が支えていた。
「優斗君!」
空を木に寄りかからせ、花音は素早く優斗に駆け寄る。
優斗は膝をついたまま、苦し気に荒い呼吸を繰り返していた。
優斗は嫉妬の真祖に取り込まれそうになっていた。それなのに嫉妬の真祖を体に宿したらどんな影響が出るのか。
花音はそんな不安を抱いたまま、優斗の肩に手を添える。
「……っ、う……はっ…………はぁ」
優斗は荒い呼吸を幾度か繰り返した後、大きく息を吐き出す。そして、花音を安心させるように笑った。
「……大丈夫。問題ない」
その顔は冷や汗が流れ、お世辞にも顔色が良いとは言えないほど真っ青だったが、花音はその笑みに何も言えなくなる。
「ツッキー平気か!?」
嵐も秀也を木に寄りかからせたあと、駆け寄ってきた。その姿を見た優斗はゆっくりと立ち上がる。
「大丈夫。それより、嵐」
「ん? なんだ?」
心配そうに眉を下げていた嵐だが、優斗に名前を呼ばれて、不思議そうに首を傾げた。
そんな嵐に向かって優斗は手をあげる。
嵐は優斗の行動に面を食らったように目を丸くさせていたが、その意図に気付いて、ニッと笑う。そして、自らの手をあげて――。
パチン、と手を叩きあったのだった。
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