#19-3 嫉妬
霧谷空は天才と呼ばれ、周囲から賞賛され、持て囃された存在であった。
数十年に一人現れるかどうかというほど、貴重で珍しい複属性持ちであり、若干十歳という若さで既に大人顔負けの実力を有していた。
史上最年少で瀧石嶺学園に鳴り物入りで入学した彼は、すぐにその才能を学園中に見せつけた。
新入生の中でもっとも優秀なグループに当然のように配属され、将来的に七隊確実と噂されるほど彼の存在は、広く知れ渡っていた。
彼は自分の実力を良く分かっていたし、他の新入生の誰よりも強いと自負していた。
その才能を買われて霧谷家に養子として迎えられた彼にとって、それは当然のことであり、彼が存在してもいいという証明に他ならなかった。
既に退鬼師としての力も途絶えて久しい家系から生まれた彼を実の両親は、その力の異質さに恐怖して、気味悪がり、彼を手放した。
実の両親に捨てられ、義理の両親には実の両親に忌み嫌われたその才能のみを期待されている。
親の愛情など知らない。
自分は誰よりも強く優秀でなければならない。
そうでなければ、自分は必要ない人間になってしまう。だからこそ、彼は努力して、努力して、努力して、天才と称されるほどの実力を手に入れたのだ。
それなのに、それだというのに……彼は一人の生徒に負けた。
自分よりも遙かに劣る格下だと見下していた相手に負けたのだ。
──落ちこぼれに負けた天才。
そう彼を笑う声があった。
──天才と呼ばれても所詮は子供か。
そう彼を嘲笑する声があった。
――期待外れだったか。
そう彼を見限る声があった。
周囲の彼を見る目がその日から一転した。
プライドが高い彼にとって屈辱的すぎる状況であった。耐えがたいほどの恥辱と苦痛に塗れた日々であった。
そんな彼の怒りの矛先が向けられたのは、彼を笑った
そんな激しい負の感情を。誰かを妬ましく思う感情を抱いたまま、嫉妬の真祖に近付くなど愚かしいにもほどがある行為であった。
七百年前、瀧石嶺神無という例外を除いて、真祖に近付いた者は誰もがその身を鬼へと変じさせたのだから。
嫉妬の真祖が覚醒したという知らせを受けて、霧谷空は千里の命令も仲間の制止も聞かずに学園を飛び出した。
真祖を退治することができれば、自分を馬鹿にした奴らを見返すことができる。
自分を笑った奴らに本当の実力を見せつけることができる。
自分があんな落ちこぼれよりも劣っているなど二度と言わせない。
感情のまま飛び出して、真祖がいると言われていた森を駆け抜ける。
真祖が此処にいるというのは既に確信していた。
未だかつて味わったことがない感覚が森全体を包み込んでいたから。
空の本能が逃げろと警鐘を鳴らす。此処は危険だと、いますぐに離れるべきだと訴えてくる。
それすらも全て無視して、彼は森の奥を目指す。
自分という人間が、霧谷空という人間が確かに存在してもいいのだと証明する為に――。
「……?」
ふと、周囲の空気が変わった気がして、空は足を止めた。
視界に広がる景色に変化はない。
鬱蒼とした木々が生い茂る見通しの悪い森の中。何かが潜んでいても可笑しくない。
知らず知らずに嫌な汗が流れ、全身の筋肉が緊張したように強張る。
空は警戒したまま武器を構え、自分の身に迫ってきているであろう危険を探る為に意識を集中させた。
その瞬間、ぞわりと感じた事のない悪寒が全身を走り、空は反射的にその場を離れた。
「……っ!」
避けられたか。一瞬だけ安堵しかけた空だが、すぐに頭上に先程の嫌な気配を感じて仰ぎ見る。
それは、闇であった。
深く、苦しく、寒く、冷たく、醜く、妬ましく、おぞましく、恐ろしい。
人間の負の感情を凝集したような闇の塊であった。
避けなけらば。逃げなければ。そう分かっていたのに空の体は動かなかった。
彼の中にあった負の感情が。石動嵐に対する嫉妬の感情が、その闇と共鳴していた。その闇を引き寄せていた。
目を限界まで見開いたまま、彼は闇に呑まれた。
抗えないほど強い感情が空を支配する。
霧谷空という人格を打ち消していく。
自分という存在を上書きされていく。
「……あ……ああ……」
思考が真っ黒に塗りつぶされていく。
自分が消えていく。
ただ激しい嫉妬の感情だけが彼を支配していく。
「うわぁああああああああああああああああああ!」
絶叫。
闇の中から響いた絶叫を最後に霧谷空の意識は完全に消し去られた――。
◇◆
森の中を駆けていた優斗達は、森全体を揺らすように響いてきた絶叫に足を止めた。
「なんだなんだ!?」
何事かと周囲を見渡す嵐と優斗。そんな二人とは違い、花音だけは警戒したように武器を構えた。
「二人とも気を付けて。真祖の気配が近い。それに、恐らく……」
厳しい顔つきのまま、一点を睨みつける花音に優斗が首を傾げる。そして、彼が花音に声をかけるよりも早く、ソレは現れた。
生い茂る木々の中を音もなく駆け抜け、気配なく頭上に現れたソレは、殺意に満ちた金の双眸を爛々と輝かせながら、鎖鎌を振るう。
「っ!」
花音に言われて警戒していた嵐は、自らに向けられた殺気に気付き、自然と迎撃態勢を取っていた。
響いたのは甲高い金属音。そこで、優斗達もようやくその存在に気付く。
奇襲が失敗したと気付いた襲撃者は即座に嵐から距離を取り、着地した。
そこにいたのは銀の毛皮に覆われた鬼であった。しかし、その姿は今まで見たどの鬼よりも小柄で、小鬼という言葉が思い浮かぶほどだ。
一瞬だけ、安堵しかけた彼等だが、その考えはすぐに打ち消されることとなる。
「――――」
咆哮。
小柄な鬼が上げたその咆哮は、今まで見たどの鬼よりも威圧的であり、全身を震わすほど強い殺意と敵意に満ちたものであった。
この鬼は危険だ。
誰もがその考えを抱いて、武器を構えた優斗と花音。そんな二人に向かって彼等を止めるように手を伸ばしたのは嵐だった。
「……なあ、ひののん。オレ、こいつのこと知ってる気がするんだ」
静かな声。それと同じ声を彼等はかつて聞いたことがある。
いま現在、小柄な鬼と対峙するように立っているのは嵐であり、優斗も花音も嵐の背後にいる。その為、彼等から嵐の顔は見えない。
その状況を彼等は以前も体験したことがある。
「恐らく、嵐君の考えた通りだと思う」
強張った表情のまま、花音がそう答えると嵐の背中が小さく揺れた。
嵐は真っ直ぐ小柄な鬼を見つめて、大きく息を吐き出す。それから、自らの武器である日本刀の峰で自分の肩を軽く叩き……そして、悲しげに笑った。
「オレは、今度こそ本気のアンタと戦ってみたかったよ。……霧谷空」
瞬間、嵐と鬼が同時に動いた。
何度も交差する斬撃。響きあう金属音。強者しか立ち入ることができない凄まじい攻撃の連続であった。
「嵐君駄目! 真祖の影響で変じた鬼は、通常の鬼よりも不安定で周囲に与える影響も大きいの! だから、このままじゃ嵐君も鬼になってしまう!」
「つってもなぁ、ひののん。アイツはオレをご指名みたいだしな」
「――――」
再び響く咆哮。それは嵐の言葉に同意したようにも思えた。
嵐の言う通り、霧谷空だった鬼は、先程から嵐しか見ていない。優斗達など眼中にないとばかりに嵐だけを狙っていた。
それは花音も分かっていたのだろう。彼女は歯がゆそうな顔をした後、少しでも嵐が受ける影響を少なくさせようと彼の傍に行こうとする。
「花音!」
その瞬間、優斗が花音を庇うように飛び出した。
優斗に抱きかかえられて地面に転がった花音は、状況を確認しようと周囲を見渡して気付く。
先程まで自分が立っていた場所に張り巡らされた無数の糸の存在に。
(優斗君が庇ってくれなかったら、細切れにされていた)
いくら嵐に気を取られていたとはいえ、まるで気付かなかったことに驚きながら、花音は優斗に礼を告げる。
「ありがとう。怪我はない?」
「ああ、大丈夫。花音は?」
「私も平気」
優斗に怪我がないことを確認して、安堵したのも一瞬のこと。すぐ近くに感じた真祖の気配に花音は振り返る。
「ああ、残念。せっかく目障りな傲慢を消せる機会だったのに。まさか、あなたに邪魔されるとは」
「如月さん!」
いつからそこにいたのか。音もなくそこに立っていたのは、一人の学生服姿の少年。
艶やかな黒髪も理知的な黒の双眸も、何も変わらない。優斗が知るままの如月秀也の姿だ。だが、違う。彼は秀也ではない。
麗香の時も感じた圧倒的な異質感。
目の前に立つ彼は人の姿をした別物なのだと本能が訴える。
肌がぴりぴりと痛む。ただ目の前に立っているだけなのに空気がひどく重苦しい。
全身に、心の奥に、纏わりつくような重苦しい空気が周囲を満たす。
「本当にあなたはいつもそう。今も前も私の邪魔をする。私にはない力を、強さを持っている。……本当、妬ましい」
ゾワリ、と全身が粟立つ。
目の前に立つ真祖は、静かだった。
どこまでも静かで、真祖には到底見えないほどの静寂さを伴っていた。だが、その内から滲み出る欲望に、他人を妬ましいと感じる嫉妬の炎に、優斗はどうしようもないほどの恐ろしさを感じた。
僅かにたじろいだ優斗に嫉妬の真祖は意外そうに目を見張り、じろじろと優斗を観察する。そして、何か得心がいったかのように無機質な笑みを浮かべた。
「……そう。そういうことか。ふ、ふふ、ふふふふ、所詮、奴も人の子か」
嫉妬の真祖はくすくすと楽しそうにひとしきり笑うと、見下すように優斗を見やる。
「いまのあなたに私は止められない」
「どういう意味だ?」
「それはあなた自身が一番分かってると思うけど」
その言葉を本当の意味で理解できたのは、嫉妬の真祖の言う通り、優斗だけだろう。
優斗は悔しそうに強く唇を噛みしめたあと、真祖を見つめ返す。その愚行に真祖は呆れたように息を吐き出した。
「あの瀧石嶺神無の生まれ変わりがここまで愚かとは。ほんの僅かでも嫉妬の感情を抱いたことがある人間が私に近寄ろうなんて、愚の骨頂だわ」
瞬間、優斗の頭上に現れたのは闇。
人の負の感情を圧縮させた闇であり、霧谷空がその身を鬼へと変じさせた欲望そのものであった。
「優斗君!」
咄嗟に花音が優斗を守る障壁を強める。
真祖に対抗するには真祖しかない。花音に宿る傲慢の真祖の影響で、嫉妬の真祖の影響を打ち消すしか打開策はない。
しかし、それも完全ではない。完全覚醒した嫉妬の真祖と半覚醒状態の花音では影響力が違う。せいぜい今の花音には優斗のすぐ傍で首の皮一枚ほどの薄さで彼の精神を守ることくらいしか出来なかった。
(なんで? どうして優斗君が?)
自らの心の奥に封じ込めていた真祖の力を解放しながらも花音は混乱していた。
まさか優斗が真祖の影響を受けるとは考えてもいなかった。だからこそ、花音は嵐の守りを強めればいいと考えていた。
それは彼女がかつての瀧石嶺神無を知っていたから生じた油断。
瀧石嶺神無の生まれ変わりであり、彼の力を引き継いだ優斗には真祖の影響がないという考えから生まれた慢心。
だが、かつて神無が真祖の影響を受けなかったのは、彼が持つ力のお陰ではない。
人が持つ欲望。喜怒哀楽の感情。それら全てを持っていなかったからこそ、神無は真祖を止めることができたのだ。
瀧石嶺神無は聖人とも呼べるべき高潔な存在であった。それはひとえに人間が抱く欲望を持たない、人として欠陥していたからに他ならない。
そして、神無の生まれ変わりとはいえ、優斗は普通の人間だ。人として当たり前の感情を抱き、当たり前の欲望を抱く、普通の人間だ。
神無の力と記憶を引き継いだお陰で、他の人よりも真祖に耐性があるとはいえ、その欲望がある限り、優斗だって例外なく危険なのだ。
特に優斗は長い間、自分の無力さを嘆いていた。
誰かに強く嫉妬するということはなかったが、それでも自分にはない力を持っていた人達を羨ましいと感じたことがある。
あんな風に戦えていいなと感じたことがあった。
自分も誰かを守る力が欲しいと感じたことがあった。
それは、決して人として間違った感情ではない。自分にはないものを持った人を羨ましいと感じること自体は何も悪いことではないのだから。
問題はその感情をどう生かすかだ。妬みに変えて、相手を貶めるか。憧れに変えて、自分を高めるか。その違いだ。
優斗は後者であった。だが、嫉妬の真祖からしてみれば、その感情をどう生かすかなど些細な違いに過ぎない。
その嫉妬の感情の芽を抱いていること自体が既に真祖の影響下にあるも等しいことなのだから。
「……っ、う……」
いくら花音が守っているとはいえ、優斗に影響が全くないわけではない。
襲い来る欲望に精神を引きずり込まれそうになりながらも優斗は、欲望を切り離そうと抵抗する。
暫しの拮抗状態。しかし、それも長くは持たない。
(駄目だ。破られる! それならいっそのこと――)
優斗を守る為ならば、その身を傲慢に明け渡す。
花音が覚悟を決めた瞬間――。
「ほい、選手こーたい!」
「へ?」
「え?」
響いたのは軽快な声とパチンと軽く合わさった手の音。
何事かと二人が顔をあげた瞬間、首根っこを引っ張られ、放り投げられた。
地面に転がった二人は、自分達を放り投げた張本人を焦った様子で振り返る。
「嵐!?」
「嵐君!」
優斗達と立ち位置を交代したことによって、嵐の頭上には先程まで優斗を襲っていた欲望の闇が広がっている。もっとも先程と違うのは、その欲望を防げる花音がいないこと。
このままでは嵐が欲望に呑まれる。
焦る二人とは対照的に嵐は、晴れやかな笑顔のまま振り返る。
「やっぱ、オレはさ、本気のそらそらと戦いたいからさ。ツッキー、そいつ戻してやってよ」
なんてことはない天気の話題でもするかのような軽いトーン。すぐ傍に強大な欲望が迫っているというのに嵐の顔はいつも通りの晴れやかな笑顔のまま。
仲間を、優斗達を信頼しきった満面の笑み。
「頼んだぞ」
その言葉を最後に闇が嵐の体を包み込んだ。
「嵐っ!」
「駄目!」
闇に手を伸ばそうとした優斗を花音が止める。その闇に触れたら、優斗までもが闇にのみ込まれるからだ。
優斗もそのことに気付いたのか表情を歪めて、唇を強く噛みしめた。
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